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あれはたぶん、わたしが幼稚園生のときだ。そのくらいの頃に家族で群馬に旅行にいったことがある。
そのときわたしたち家族は山にハイキングに入ったのだけれど、わたしはそこで家族とはぐれて、迷子になってしまった。
迷子になってしまったのは、みんなで山道の途中で休憩を取っているときだった。そこでみんなは座って水筒の水を飲んだり、ハイキングに来る前に買ってきたお菓子を食べたりしていた。でも、そのうちにわたしはじっとしているのが退屈になってきた。
だから、わたしはそのへんをひとりでふらふらと歩きまわりはじめた。背中越しにお母さんのあんまり遠くにいっちゃだめよという声を聞いたことを覚えている。
しばらく歩いていると、わたしは一匹の蝶々を見つけた。それは淡い青色の、とてもきれいな蝶々だった。わたしはその蝶々を捕まえようと思った。捕まえて、家族に自慢しようと思ったのだ。でも、蝶々はわたしが捕まえようとして手を伸ばすと、すぐに身を翻して逃げてしまう。
しばらくのあいだ、わたしと蝶々の追いかけっこは続いた。わたしが諦めて家族のもとに戻ろうとすると、蝶々がまるでわたしのことを誘うように、あるいはからかうように、草の上に止まって羽を休めたりするのだ。それでわたしもむきになって、また捕まえようとして手を伸ばす。すると、また蝶々が逃げる。その繰り返しだった。
そしてそのうちにわたしは完全に蝶々を見失ってしまった。そればかりか、気がついたときには、わたしは見たこともない山道のなかに迷いこんでしまっていた。
周囲にはとても大きな木々かいくつも聳え立ち、その木々の葉が風に吹かれて揺れると、それは目の前の木々たちが、わたしにはわからない言葉で何かをささやきあっているように聞こえた。声を限りにお父さんとお母さんを呼んでみるのだけれど、誰も返事をしてくれない。
自分が立っている場所から真っ直ぐに道が続いているけれど、果たして自分がどちらの方向から歩いてきたのか検討もつかなかった。前からだったような気もするし、後ろからだったような気もする。というより、視界に広がっている地面全てが道のように見えてしまった。
近く木の枝で一匹の鳥が鋭い鳴き声をあげて、それはまるでわたしに何か警告を与えているようにも思えた。早くここから出て行けと。
わたしは途端に心細くて、不安な気持ちで一杯になった。もしかしたら、自分はもう一生この山のなかからもとの世界に戻ることはできないんじゃないかという強い恐怖に捕らわれた。知らないあいだ大粒の涙が頬を伝って、お母さんが用意してくれたお気に入りの洋服を濡らした。
わたしは走り出した。とりあえず前に向かって。
走りはじめると、案外すぐにもとの場所に戻れるような気もしてきた。意外とすぐそこに家族がいて、笑顔でわたしのことを出迎えてくれるんじゃないか。そんな気がしてきた。だか
ら、自然とわたしの走る速度は速くなった。
けれど、やはりそれはそんな気がしただけだった。走っても、走っても、見覚えのある景色は現れなかった。逆にますます森は深くなり、さっきの名前の知らない鳥がわたしを追いたてるようにけたたましく鳴く声が聞こえた。
次第に日は傾きはじめて、周囲の空間は淡い闇に覆われはじめた。水で薄めたような半透明の青色がかった闇。
どうしようとわたしはパニックになった。大きな声で泣いても、誰も助けにはきてくれない。
と、そのとき、わたしは視界のさきに誰かの人影を見たように思った。一瞬だったのでよくわからなかったけれど、そのひとは赤い洋服を着ていたように思った。
きっとお母さんだ、とわたしは反射的に思い込んだ。今日お母さんは赤い服を着ていたから、心配になったお母さんがわたしのことを探しに来てくれたのだ、と、思った。
わたしは長時間走り回って疲れ果てていたけれど、最後の力を振り絞って、そのさっきの人影が見えたように思えた空間に向かって走り出した。
と、その瞬間、わたしの視界は大きく斜めに傾いた。木の根っこに躓いて、転んでしまったのだ。上手く受身がとれなくて、派手に込んでしまった。膝がすりむけて、傷口から思った以上にたくさん血が溢れでた。
もう、だめだ、と、わたしは思った。わたしはここで死んでしまうのだと幼いわたしは大袈裟に絶望的な気持ちになった。いつか何かで観たテレビ番組のように、目の前にある木の幹に、目と鼻と口ができて、今にもわたしに襲いかかってくるような妄想に捕らわれた。
わたしは蹲ると、顔を覆ってしくしくしと泣きはじめた。蝶々なんて追いかけるんじゃなかったと強く後悔した。どうしてお母さんの言いつけを守らなかったのだろうと思った。お母さんやお父さんやお兄ちゃんの顔を思い出して、ひどく哀しくなった。もう、みんなに会うことはできなんいだ、と、思った。
それからどれくらいの時間が経過しただろう。ずいぶんたくさんの時間が経過したように思えたけれど、実際にはそんなに長い時間ではなかったのかもしれない。
ふいに声が聞こえた。懐かしい声だった。
「こんなところにいたのかよ」
その懐かしい声は、ちょっと不機嫌そうな口調で言った。
顔を覆っていた両手をどけると、そこには、わたしと二つ違いの兄が、少し息を切らしながら、呆れた表情を浮かべて立っていた。もしかしたら、走ってここまで探しにきてくれたのかもしれない。
わたしは立ち上がると、嬉しくて、思わず兄に抱きついてしまった。
「暑いからくっつくなって」
と、兄は迷惑そうに言うと、自分からわたしの身体をひきはがした。そしてそのかわりにとでもいうように、わたしに向かって右手を差し出した。それから、
「帰るぞ」
と、ぶっきらぼうな口調で言った。
わたしは、うん、と、頷いて、すぐに兄の手を取った。兄の手はとても力強くて、とても暖かく感じられた。
あとで聞いた話によると、わたしがいなくなってしまったことに気がついた家族は、すぐに父と母で手分けしてわたしのことを探しはじめたらしい。兄は危ないから待っていなさいと両親に言われたらしいのだけれど、父と母が探しにいってからしばらくしても戻ってこないので、心配になった兄は、自分でもわたしのことを探しに出かけてくれたらしい。
一方間違えれば、あやうく、わたしも兄も迷子になっていたところなのだけれど、幸い、そういうことにはならずに、なにより一番最初に、兄がわたしのことを見つけてくれたのだった。もし、あのとき兄がいなかったから、と、わたしは思う。
考えてみると、ずいぶん色んなところでわたしは兄に助けてもらっていたのだ。わたしが父親と喧嘩して家出したとき、迎えにきてくれたのも兄だったし、わたしが大学受験で第一志望の大学に落ちてしまったとき、それとなく慰めの言葉をかけてくれたのも兄だった。幼いとき自分が食べるぶんを我慢して、わたしにお菓子をゆずってくれたのも兄だった。どうしてそのことを忘れていたのだろうとわたしは思った。
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