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「・・・この前ね、彼氏と話し合ってきた」

 わたしが黙っていると、由香子が思い出したように言った。


 わたしが由香子の方を振り向くと、

「それで、やっぱり別れることになった」

 と、由香子は短く告げた。そして由香子はわたしから自分の感情を隠すように、いくらかぎこちなく口元を笑みの形に変えた。


 わたしが咄嗟のことに上手く答えられずにいると、

「・・・ちゃんと謝ったし、まだ別れたくないって言ったけど、でも、彼氏はもう、わたしとは付き合うつもりはないって」

 由香子は淡々とした口調で続けた。由香子の顔に浮かんでいた笑顔は、少しずつ花が枯れて萎れていくようにその形を失いつつあった。


「・・・そっか」

 と、わたしはどう答えたらいいのかわからなくて、ただ相槌を打った。


「でも、そりゃあ、そうだよね。わたし、彼氏の音楽のこと、好きなことを、あんなふうに、何か悪いことのように言っちゃったんだもんね。・・・そりゃあ怒るよなって思う」

 由香子は自嘲気味に小さく笑って続けた。



「・・・たとえ本心じゃなくても、ひとが大切に想っていることを、目指しているものを、あんなふうに言うへぎじゃなかったなって、今更だけど、つくづく思う」

 由香子はそれまで口元に浮かべて笑みを消して、少し小さな声で言った。哀しそうな声だった。


 わたしは由香子の科白に耳を傾けながら、ふと自分がこの前に兄に対して口にしてしまった言葉のことを思い出した。兄のやりたいと思っていることをあからさまに否定するような言葉。わたしは後ろめたい気持ちになった。やはりあんなことは言うべきじゃかったな、と後悔した。たとえ自分がどんなに精神的に参っていて、苛立っていたとしても、あんなふうに言うべきじゃなかったな、と感じた。



「・・・でも、少し時間をおいてから、もう一度彼氏に謝ってみたら?」

 と、わたしはしばらくしてから遠慮がちに言ってみた。

「時間が経ったら、彼氏の気持ちも変わるんじゃない?」



 そう言ったわたしの言葉に、由香子は弱く首を振って、

「たぶん、今回はもう無理だと思う」

 と、由香子は言ってから、ため息をつくように微かに笑った。



「だけど、でも、もういいの」

 と、由香子は未練を振り切ろうとするように少し明るい口調を装って続けた。


「べつに喧嘩別れとかしたわけじゃないから・・・ちゃんと話し合って、それで納得して別れたから・・・わたしはわたしの思っていることを伝えたし・・・それで彼も、わたしが本気であんなことを口にしたわけじゃないことだけは、たぶん、わかってくれたと思うから・・・これからは彼氏は自分の音楽に集中するし、わたしはわたしで自分のために時間を使う・・・それでいいかなって思う」

 由香子は口角を軽く持ち上げて、自分に言い聞かせるようにそう語った。



 車の窓から差し込む街灯の光が、彼女の顔を半透明の淡いオレンジ色の色素に染めていた。



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 やがてわたしたちはお台場に辿り着くと、車を止めて、少し散歩することにした。わたしたちが車を止めたすぐ近くには、遊歩道があって、わたしたちはその遊歩道をなんでもない世間話をしながらゆっくりと歩いた。この前食べに言った美味しいレストランの話。共通の知人に関する話題。最近観た映画の感想。



 わたしたちが歩いている遊歩道はデートスポットになっているらしく、道行くあいだに幾人ものカップルとすれ違った。みんな楽しそう笑ったり、ふざけあったりしていた。


 風は冷たくて、吐く息は凍りつくように白く煙った。


 湾外沿いにはレインボーブリッジや、その他の大きな建物の光がいくつも見えて、それらの光は連なりあって、湾の形を夜の暗闇のなかにくっきりと浮かびあがらせていた。


 遊歩道をしばらく歩いていくと、お台場からの景色を一望することのできる場所があったので、わたしたちはそこで立ち止まると、お互いに黙ってそこから見える景色を眺めた。  


 ふと気になって、何気なく由香子の横顔に視線を向けてみると、その瞳のなかには、失ってしまった何かを思い起こしているような、淡い光があるように思えた。きっと彼女は、別れてしまった恋人のことを考えているんだろうな、と、思った。


 わたしは由香子に対して何か言葉をかけようと思ったけれど、結局、思い直してやめた。どう声をかけたらいいのかわからなかったということもあるけれど、でもいまはひとにあれこれアドバイスされるよりは、ひとりでゆっくりと自分の気持ちと向き合いたいんじゃないかなと思ったからだ。



 わたしは由香子の横顔に向けていた視線を前に戻すと、そこから広がっていく景色を眺めた。


 目の前に広がるたくさんの暖かい光の粒は、優しく、わたしの目を打った。街の光は網膜から静かにわたし意識のなかに沈み込んでいくと、やがて意識の底に辿りいついて、そこに沈んでいた、忘れかけていた、いくつかの記憶を震わせていった。



 途端に、わたしは何を思い出しそうになった。



 それはとても大切で、とても懐かしい記憶だという感触があった。たとえば五月のまだ若々しい木々の葉にろ過されて地上に降るやわらかな日の光のような。



 最初その記憶は、輪郭を失った曖昧な形で思考の表面ににじみだしてきて、そのうちにそれは花のつぼみがふくらんで花弁が放射状に広がっていくように、もとの形へと戻っていった。



 それはずっと幼い頃の記憶だった。兄との記憶。



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