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隆俊と連絡を取らなくなってから、もう二週間が経過しようとしていた。とっくに隆俊との記念日も過ぎ去ってしまっていた。
最初のうちは隆俊から頻繁にかかってきていた電話もメールも、わたしがずっと無視を続けているうちに、やがてかかってこなくなった。
このまま、隆俊とは別れてしまうことになるのかな、と思う。そう思うと、深い喪失感があった。正直、隆俊とはまだ別れたくはなかった。隆俊のことは好きだった。
でも、この前の一件以来、子供のように意地になってしまっている自分がいた。隆俊がわたしに対して誠意をみせてくれるまで、わたしの方からは連絡したくないという、屈折した、プライドのようなものがあって、それがわたしを素直にさせなかった。
週末はアパート探しの時間にあて、最近になってやっと、中野に、家賃の面からも、アパートの間取りの面からも、納得することのできるアパートをひとつ見つけることができた。もう既にそのアパートは契約していて、来月の頭、つまり二週間後には、わたしはそこに引越すことになっている。
やっと父親と兄の口論からも解放されるし、誰にも気を使わなくても良い、自分だけの空間が持てるというのに、わたしの気持ちはどこか弾まなかった。暗い日陰のなかにいるかのような冷たい虚しさが、引越しの準備をしていても常に心を離れなかった。
たとえはじめての一人暮らしで、新しい生活をはじめても、結局は今と何も変わらない毎日があるだけのような気がしてしまった。自分のこれからの生活に明るいビジョンを描くことが、どうしてもできなかった。
18
由香子から電話がかかってきたのは、金曜日の夜だった。わたしが自分の部屋で引越しの準備をしていると、ケータイの着信音が鳴った。着信音が鳴った瞬間、隆俊からの電話かもしれないと思って一瞬、期待したけれど、でも、ケータイのディスプレイには由香子の名前が表示されていた。
「もしもし、天野です」
由香子はわたしが電話に出ると言った。
わたしはわかっているというふうに、ただうんとだけ相槌を打った。
「どうしたの?」
と、わたしが訊くと、由香子はそのわたしの問には答えずに、
「今、暇?」
と、逆に尋ねてきた。
「うん、暇といえば暇だけど・・・」
と、わたしが整理途中の荷物に視線を落としながら、そう歯切れの悪い答えを返すと、
「じゃあさ、これから一緒にドライブにいかない?」
と、由香子はいくらか唐突に提案してきた。
「ドライブ?」
と、わたしは由香子の予想外の提案にちょっと驚いて言った。由香子が車を持っていることは知っていたけれど、これまで一緒にドライブに行ったことは一度もなかった。
「ちょっといきなりだね」
と、わたしが笑って言うと、由香子もつられるように軽く笑って、
「なんか急に車が運転したくなって。それで誰か一緒にいくひといないかなって思ったら、良美の顔が浮かんだの」
「あんた、わたしのこと、暇なひとだと思ってるでしょ?」
わたしが笑ってからかうように言うと、
「思ってるかな」
と、由香子も笑って冗談で返した。それから、少し間があって、
「もちろん、無理だったら、いいけど」
と、由香子は小さな声で付け加えて言った。
わたしは部屋の時計に目を向けてみた。時刻はあともう五分ほどで日付が変わろうとするところだった。
「うん、いいよ。ドライブ行こうよ」
わたしは明るい口調で言った。引越しの準備をするのにも少し疲れたし、気分転換にちょうどいいかもしれないとわたしは思った。
由香子はじゃあわたしの家の近くのコンビニ着いたら、また電話すると言って、電話を切った。
19
それから三十分程あとに由香子から電話がかかってきて、わたしが家の近くのコンビニまで歩いていくと、由香子がコンビニのなかで雑誌の立ち読みしているのが視界のなかにはいった。
わたしがコンビニのなかに入っていくと、由香子はすぐにわたしのことに気がついて、笑顔で手をあげた。彼女は読んでいた雑誌をもとの棚に戻すと、わたしの顔を見て、
「ごめんね。急に呼び足りして」
と、謝った。
わたしは微笑んで首を振った。
コンビニでペットボトル入りの紅茶を買うと、わたしたちはコンビニを出て、由香子が運転してきた車に乗り込んだ。
由香子が運転してきた車は、黒のスポーツタイプのものだったので、わたしはそれが可笑しくて少し笑ってしまった。由香子はとても女の子ぽい可愛らしい顔立ちをしているのに、その趣味は、外見とは対照的にすごく男ぽいところがあって、そのギャップが面白いなとわたしはいつも思う。
わたしが黙ってニヤニヤしていると、由香子はわたしの顔を見て、なにが面白いの?と不思議そうに訊いてきた。わたしは曖昧に微笑んでなんでもないと答えておいた。
「どこか行きたいところとかある?」
と、由香子は車のエンジンをかけると、わたしの方を振り向いて尋ねてきた。わたしは咄嗟に何も思いつかなかったので、どこでもいいよと答えた。
「じゃ、わたしが適当に決めちゃってもいい?」
と、由香子はそう言うと、車についているカーナビに目的地をセットして、車を走らせはじめた。
「どこに行くことにしたの?」
と、わたしは車が動き出すと、尋ねてみた。すると、由香子はちらりとわたしの顔に視線を走らせて、それからまたすぐに前方に視線を戻しながら、
「とりあえず、お台場あたりにでも行ってみようかなって」
と、明るい口調で答えた。
「お台場なんて何年ぶりだろう」
と、わたしは小さく笑って頷きながら、そういえば、学生の頃、お台場には隆俊とよく行ったな、と、懐かしくなった。まだ付き合い始めて間もない頃のことだ。
それから、ふいにわたしの心は暗く沈んでしまった。もしかしたら、もう、わたしは隆俊を失ってしまったのかもしれないのだ。そのことを、今更のように思い出した。
由香子の運転する車は、夜の街なかを心地よいスピードで走りすぎていく。わたしは窓の外を流れていく景色にぼんやりと視線を彷徨わせた。
夜の街のイルミネーションはきれいだった。そしてきれいなのと同時に、どこか儚げでもある。街灯の光の淡いオレンジ色かがった光や、ときとぎ思い出したように目に飛び込んでくる派手な看板の光は、わたしの心の底の方に沈んでいるいつくもの思い出を揺り動かしていった。
それはずっと昔の、大学生の頃に、学食で友達となんでもない世間話をしているときの光景だったり、あるいはいつかどこかで観た、春の明るい日差が世界を優しく輝かせている光景だったりした。目を閉じると、いつでもすぐにその場所に戻ることができるような気がした。知らないあいだに、ずいぶん色んなたくさんのことが、遠い過去の出来事になってしまったんだな、と、わたしは心に少し冷たい水が染みこんでいくように感じた。
「・・・こうやってドライブしてるとさ」
と、わたしが黙って自分の思考のなかに沈んでいると、由香子が口を開いてゆっくりとした口調で言った。わたしは窓の外に向けていた視線を、由香子の顔に向けた。
「こうやって友達とドライブとかしてるとさ、なんか大学のときを思い出すよね」
と、由香子は楽しそうな口調で続けた。
「あの頃は時間だけはあったから、こうやって夜遅くに友達みんなでよくドライブとかしたなって思って」
「そうだね。あの頃はほんとに毎日が休みみたいな感じだった」
わたしは大学生の頃ことを思い起こしながら軽く笑って答えた。
「よく寝坊して自主休学とかしてたな」
由香子は苦笑交じりに言った。
「大学の頃の友達とは今でも結構連絡取り合ったりしてる?」
と、わたしはふと思いついて尋ねてみた。すると、由香子は、
「たまにね」
と、どこか寂しげな微笑を口元に浮かべて答えた。
「仲の良かった子、何人かとは今でもたまに連絡取ってるかな。でも、昔に比べると、だいぶ疎遠になっちゃったけどね。・・・ふたりくらい、この前結婚した子がいて」
「わたしの友達にも何人か結婚して子供とかいるひといるな」
「・・・なんかどんどん変わっていっちゃうね」
と、由香子はわたしの科白に何か思いを巡らせるように数秒間黙っていてから、やがて口を開くと、小さな声で言った。
「大学を卒業してから、色んなことが急激に変わりすぎて、ときどきそのスピードに上手くついていけなくなるときがあるなぁ」
由香子はどこか遠くを見るような眼差しをして、静かな口調で言った。
「・・・それは仕事のことだったり、恋愛のことだったり、色々だけど・・・でも、急に人生が具体的に動きだして、それで戸惑ったり、疲れちゃったりするかな・・・自分がこれから向かおうとしている場所が、上手くつかめなくて、途方に暮れちゃう感じ。わたしはどうしたいんだろうって」
由香子はそう言ってから、自分が口にした言葉を冗談に紛らわすように微かに笑った。水気を帯びたような笑い方だった。
「わかる気がする」
わたしは由香子の言葉に口元で小さく笑った。
気がつくと、由香子の運転する車は首都高を走り始めていた。車はビルとビルの隙間を縫うように走っていく。とても大きなビルがすぐとなりに迫ってきて、まるで自分がSFのなかの空飛ぶ車に乗って建物と建物のあいだを飛んでいるかのような不思議な感覚に捕らわれる。
ビルのところどころにはまだ窓の灯りがついているところがあって、こんな夜遅くに働いているひとたちがいるんだな、と、当たり前のことではあるけれど、自分とは違う、全く別の人生や、時間の流れ方があることに改めて気がつかされる。
「・・・この前ね、彼氏と話し合ってきた」
わたしが黙っていると、由香子が思い出したように言った。