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由香子の話をまとめると、だいたいこういうことになった。
由香子は今日久しぶり恋人とデートにいった。デートに行ったのは良かったのだけれど、今日の恋人は何故か不機嫌そうで、由香子が何か話しかけてもまともな返事を返さなかった。ぶっきらぼうな口調で短く返事を返すだけだった。
そのうちに由香子もだんだん不愉快な気持ちになってきた。デートのときにどうしてそんな詰まらなさそうな表情しかできないのか、と、彼女のなかで不満が募っていった。
帰り際に、ふたりはレストランに入って食事をしたのだけれど、そのとき、些細なことが切っ掛けで口論になってしまった。由香子の恋人がすぐ近くの席に座ったサラリーマン風の男性をけなすようなことを言って、その科白が気に食わなかった由香子は、つい、恋人に食って掛かるような言葉を口にしてしまったのだ。
そのとき、由香子の彼氏はサラリーマン風の男のひとを見て、サラリーマンなんかやって一体何が楽しいのだろうというような言葉を口にした。彼の口調にはどこか真面目に働くことを見下しているような響きがあった。
だから、由香子はその彼氏の言葉を軽く受け流すことができなかった。真面目に働くことを否定されたことは、まるでいまの自分を否定されたような気持ちに、由香子はなった。それでなくても由香子はその日、彼氏対する苛立ちがかなり溜まっていた。
気がついたとき、由香子は彼氏に対して、あんたにサラリーマンのなにがわかるの?と口にしてしまっていた。
由香子の彼氏は、由香子から予想外の言葉が返ってきたことに少し驚いた様子だったけれど、やがてなんだよそれ?と由香子の言葉の意図を確かめるように強張った声で言った。
「べつに」
と、由香子は紙ナプキンで口元を拭いながら答えた。
「ただサラリーマンなんかやったことのないあんたにサラリーマンの何がわかるんだろうと思って」
由香子の口調は無意識のうちに冷ややかな響きを帯びてしまっていた。
「どういう意味だよ。それ?」
彼氏が苛立った口調で訊いてくる。
「べつに。そのままの意味だけど。サラリーマンやったことのないあんたにサラリーマンやってるひとたちのことを悪く言う資格なんてあるのかなって思って」
もうこれくらいでやめておくべきだと思ったけれど、そのとき、由香子は自分でも自分の感情がコントロールできなくなっていた。
「あんたっていつまでバンドなんてやってるつもりなの?もう大学卒業してから四年だよ?どうすんの?これから?ほんとに音楽でプロになんかなれると思ってんの?そろそろ現実を観た方がいいんじゃいなの?」
由香子は自分でも知らないうちに、恋人に対して、必要以上に悪意のこもった質問をしてしまっていた。
「なんだよ。お前。俺に説教するつもりかよ?」
彼氏が怒りで顔を赤く染めながら脅すような口調で言う。でも、由香子は構わずに、
「べつに。ただ質問してるだけ」
と、挑発するように言った。
由香子のなかで暗い色素を持った何かが膨張していくような感覚があった。
「お前に、俺の何がわかんだよ!」
由香子の科白に、彼氏は激昂して怒鳴った。
「何様のつもりだよ。お前」
彼氏の怒鳴り声に驚いた周囲の客が、どうしたのだろうと由香子たちに注目してくる。由香子は恋人の質問に対して、じゃああんたはわたしのなにがわかるのと言い返した。あとは罵り合いになった。最後、感情の高ぶった由香子はグラスに入った水を恋人の顔にぶちまけて、店を飛び出してきた。そのあと店に残った恋人がどうしたのか、由香子は全く何も知らなかった。
「さすがに今回はちょっと自分でも言い過ぎたなって思う」
由香子は話し終えると、小さな声で言った。
わたしは由香子の科白にどう答えるべきか少し迷ったけれど、
「そうだね。それはちょっといくらなんでもキツイかもね」
と、正直な感想を述べた。
「だって、由香子の彼氏は音楽をやりたいと思ってるんでしょ?それをあからさまに否定されたら、やっぱりいい気持ちはしないかもね」
「・・・そうだよね」
と、由香子は気落ちした声で頷いた。
しばらくの沈黙があって、その沈黙のなかに雨が家の屋根を叩く音が聞こえた。いつの間にか雨が降り出したようだった。そういえばさっきテレビで観た天気予報で今日の夜から雨が降り出すと言っていたことをわたしはふと思い出した。
「とりあえず、由香子はどうしたいと思ってるの?」
わたしは言った。
「どうしたいって?」
由香子はわたしの質問の意味がわからなかったようで、不思議そうに言った。
「由香子はこれから彼氏とどうしたいと思ってるのかと思って。別れてもいいと思ってるのか、それともまだこれからも付き合っていきたいと思ってるのか」
わたしの問に考え込むように、少しの間があった。そしてやがて由香子はまだ別れたくはないと答えた。今日は一時的に感情的なってあんなことを口にしてしまったけれど、彼氏とは長い付き合いだし、まだ別れたくはないと思っていると由香子は告げた。
「じゃあ、それなら、まず謝った方がいいかもね」
と、わたしはアドバイスした。
「今回の場合、由香子だけが悪いわけじゃないと思うけど、でも、由香子にあんなことを言われちゃったら、彼氏としてはとても由香子に頭をさげる気にはなれだろうし。だから、もし、由香子がまだ別れたくないって思ってるんだったら、謝った方がいいかも」
わたしのアドハイスに、由香子は、そうだね、と、少し悲しそうな声で頷いた。
「たぶん、大丈夫だよ」
わたしは由香子を元気づけようとして明るい口調で言った。
「由香子が謝ればすぐに彼氏も機嫌直すって。たぶん」
わたしの言葉に、由香子は、ありがとう、と、微笑して答えた。ほんとうにそうなるといいけど。
受話器に押し付けた反短側の耳に、雨が、世界を濡らしていく音が静かに聞こえた。