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車の窓から明るい日の光が差し込んできている。でも、それは窓ガラスの色素を微かに含んで、ほんの少し、どこか陰鬱に、翳って見えた。
「聞いてる?」
横から隆俊の声が響いた。
少し驚いて振り向くと、運転席に座った隆俊が困ったような笑顔でこちらを見ている。
いま信号は赤で、その信号待ちのあいだに隆俊がわたしに何か話しかけてきたらしい。けれど、わたしは考え事をしていたせいで、何も聞いていなかった。
「ごめん」
わたしは苦笑して謝った。
「ちょっとぼおっとしてた」
「良美がぼうっとしてるのはいつものことだよね?」
「うるさい」
わたしは笑って答えると、
「で、なんの話だっけ?」
隆俊に改めて訊きなおした。
信号が青に変わったので、隆俊はわたしの顔に向けていた視線を正面に戻すと、車を走らせた。いつも来るたびに思うことだけれど、名古屋の道路は東京とは違って車線が広々としているなぁとわたしは感じる。
「来月のことだよ」
隆俊はしばらくしてから口を開くと言った。
「来月の二十日って、俺たちが付き合いはじめてから三年目の記念日じゃん?その日、日曜だし、俺も休み取れそうだから、どうしようかなって思って」
「ああ」
と、わたしは曖昧に微笑して頷いた。
「ひでぇ。もしかして、忘れてた系スカ?」
と、隆俊はおどけた口調でわたしを責めた。
「ンなわけないじゃん」
と、わたしは笑って答えながら、もう三年か、と、改めて月日が流れる速さに驚きを覚えた。
わたしと隆俊が付き合うようになったのは、大学三年の秋だ。わたしと隆俊は同じ大学通っていて、同じサークルに入っていた。そして隆俊に告白されて付き合うようになった。
隆俊のことは好きだ。その気持ちは付き合ってから三年が経とうとしている今でも変わらないと思う。いや、むしろ、歳月を重ねた今では、付き合い始めた頃よりもその思いは強くなっていると感じる。このまま隆俊と結婚したりするのかなぁと思ったりもする。
隆俊は大学を卒業したあと、商社に就職して、いまは名古屋にある営業所に勤めている。わたしは大学を卒業したあと東京の保険会社で働いていて、だから、いま隆俊とは遠距離だ。
平均して月に二回くらいこうしてわたしが隆俊のいる名古屋に遊びにいっている。もし、隆俊と結婚したら、わたしは名古屋に住むことになるのだろうか。
わたしは名古屋で生活している自分を上手く想像することができなかった。隆俊と生活を伴にしている自分も。想像しようとすると、まるでさっき車の窓から差し込んでくる光を目にしたときのように、その映像は、微かに、ぼんやりと、濁ってしまう。
「で、どうする?」
と、わたしが黙ってそんなことを考えていると、横から隆俊が催促するように言った。
「どうするって?」
わたしが訊きかえすと、隆俊はそれとわからないほどの微かさで苛立ったような表情を浮かべると、
「だから、来月だよ。良美は何かしたいこととかある?」
と、訊いてきた。
「うーん。どうしようかな」
わたしは曖昧に笑って答えた。
「どこか高いレストランでパッと豪華な食事でもするか?」
隆俊は気を取り直したように明るい口調で言った。
「そうだね」
と、わたしは頷いた。けれど、その頷いたわたしの声は、そんなつもりは全くなかったのに、まるで愛想のない、ただの相槌を打っただけのような響き方をしてしまった。
咄嗟に、わたしはしまったなと後悔したけれど、でも、そう思ったときにはもう遅くて、隆俊はちらりと横目でわたしの顔を見ると、
「なんだよ。気に入らない?」
と、非難するように言った。
「何か他に良い案があるなら言ってくれよ」
と、隆俊は少し怒ったような口調で続けた。
「べつにそんなんじゃないってば」
わたしは笑って取り繕った。
「そんな棘のある言い方しないでよ」
そう続けたわたしの言葉に、隆俊は明らかに気分を害した様子で、黙っていた。
「豪華な食事かー。じゃあ、フランス料理とかいいな。わたしあんまりそういうところ行ったことないんだよね」
わたしはなんとか隆俊に機嫌を直してもらおうと、殊更に明るい口調を装って続けたけれど、隆俊は相変わらず黙りこんだまま、何も答えなかった。
そのうちに信号が赤に変わって、わたしと隆俊の乗った車は前方を走っている車に続いてゆっくりと停車した。そう。ゆっくりと。まるで目に見えない壁にぶつかるみたいに。