3★猫が死ぬ理由
好奇心猫を殺すと言うが、好奇心を満たせなければ結局猫は死ぬのだと思った。
暇なのだ。寝ても覚めても暇なのだ。寝てないのだけれけれども。
小鳥と言葉を交わしてからどれ程の時間が経過したのかは判然としない。
知覚出来る限り夜は二度程迎えたが、一日が二十四時間である保証は無いのだ。
そして、私は人間ではなくなった様だ。
夜を二度迎えたが、一度も寝ておらずなにも食べていない。
睡眠欲も食欲も無いのだ。ついでに性欲も無い。
いわゆる三大欲求と呼ばれる物を今の私は持ち合わせていないのだ。
しかしその一方で、私は食を求めて樹皮を咀嚼していた。
布団の横に転がる巨木から剥がした皮なのだが、これがまた驚く程不味い。
まず食感だが、最初に感じるのは硬さと冷たさだ。
凍っていた樹の皮は石の様に硬く、舌が麻痺しそうな程冷たい。
触れた瞬間指がくっつく程冷たかったのだから当たり前だ。
小鳥が溶かしてくれなければ指の皮膚を持って行かれる所だった。
唾液と体温で温めながら噛み続けると、口の中に噛み溜まりが出来る。
倒れていた樹は非常に強靭かつ密度の高い繊維を造り出す種だった様で、噛めば噛む程解れた繊維が絡み合う。
毬藻が口の中で成長するかの様に繊維ボールは大きくなり、呑み込むタイミング等訪れる気配は無い。
では味はどうなのかと言うと、これは普通に樹だ。
何の変哲も無い樹の味だ。
妙に粉っぽく、噛めば噛む程味は無くなる。体感では一分程しか味が持続しない。
私は味の無い繊維を雪の上に吐き出すと、再び樹皮を齧った。
「美味いのか? ■■■■は」
生産性皆無の行為を頭の上から見下ろしていた小鳥が、不思議そうに問うた。
相変わらず固有名詞は理解出来ないが、それがこの樹の名前だと言う事は今の状況から明白である。
「不味い。恐ろしく不味い」
私が樹皮を咀嚼しながら答えると、小鳥はだろうなと呆れた様な感情を乗せた感想を伝えて来た。
次に来る質問は予想出来たため、私は先回りしてその回答を述べる。
「だが、他にする事も無い。布団の外に出れば程無く足が凍り付くだろうし、凍えないで出歩ける範囲には樹と雪しかない」
私が着ているのは寝間着だ。
寝間着と言っても特別そのために生産された服では無く、使い古したワイシャツと擦り切れそうな綿のズボンだ。
そして不運な事に、私は靴下を履いて寝る習慣を持ち合わせてはいなかった。
小鳥が発する熱の影響なのか、目を覚ました時に比べると幾分柔らかくなったこの寒さだが、それでも裸足で雪の上を歩き回る行為は現実的では無い。
私は人間ではなくなった様だが、だからと言って凍傷にならないと言う保証は無い。
少なくとも腹は減らぬのであれば、布団の中でぬくぬくと過ごせばいいと思ったのだ。
まさか退屈がここまでの苦痛だとは思いもしなかった。
口の中で樹の味が無くなり、繊維が球状へまとまり始めた。
この樹や繊維を使って何かを造ろう等と試行錯誤してみたのだが、糸すら作れず諦めた。
糸にするには繊維が短すぎたのだ。
そもそも唾液塗れの糸等、紡げた所で身に纏う気にはならない。
唯一意思の疎通が可能な小鳥は、道具を扱う文化を持ち合わせてはいなかった。
その口から吐かれる火炎で大方の問題は解決出来るのだそうで、それはまた便利な生態だ。
しかしながら私は人間なのである。
三大欲求の無い人間を人間と呼ぶのか? と言った問答をする気は無い。
どれだけ人間離れしていようと、能力的にはほぼ人間なのだ。
口から火を噴く事も、空を飛ぶ事も、極寒の地で活動する事も出来やしない。
非力な私に出来るのは精々が樹皮を剥ぐ事だろう。
その下の硬い芯を齧り取る事すら出来ない。
一応試したが歯がもげそうで止めた。
「食道楽と言う単語は通じるのかな?」
ふと思いついて小鳥に問うてみると、小鳥は分からないと答えた。
まあそうだろう。
「珍しい食べ物を探す事に執着する事だよ」
「種族問わずそう言った輩は存在するな。よっぽどの強者以外は餓死するが」
どこの世にも、どの様な種にも偏食家は存在する様だ。
そしてこの世界では食道楽は命を懸けた行為となる様だ。
「要するに命を懸ける程の価値を見出せる行為と言う事だな。まあ、私の場合は少し違って、それくらいしか意味のある行為を見出せないと言うか……」
「理解した。この場所で出来る事が少ないと言う事か。暇は死毒と言う事だな」
「そう言う事。だから樹皮を齧ってるんだけど……」
早くも飽きてきた。
「樹皮にも飽きてきたから、ちょいと飛んで葉っぱ取って来てくれないかな?」
或いは葉や新芽ならば味わえるのではないかとも思うが、遠目に見る限りこの樹は針葉樹っぽいからあまり期待していない。
「我が味がしそうな何かを狩って来てやっても良いぞ」
目を凝らして遥か上方の葉っぱを見ていると、小鳥が望外の提案をしてくれた。
だが、それは一度考えて交渉する事も無く却下したのだ。
「昆虫は避けたいんだよね」
小鳥が運べる動物性蛋白質となると大体が昆虫だろうし、そもそもの問題として……
「コンチュウとは何だ?」
「……説明が難しい」
危惧した通り、昆虫は固有名詞扱いだった。
人間はおろか鳥すら通用しないのだ。この世界の生態系は余程地球から掛け離れているのか、或いはこの小鳥が種の分類に関して無頓着なのか。
「ならば取り敢えず持って来てから判別すればよいのではないか?」
なんとも寛大な小鳥だ。
「良いのかい? 無駄手間になりそうで悪い気がするけど」
「構わん。元より次の■■まで復活のために消失していた身だ」
「ああ、要するに君も暇だと言う事?」
「■■■共の巣を根こそぎ焼いて回っても時間が余りそうなのでな」
ひょっとしたら私の行動次第で何某かの種が絶滅する事を防げるのかも知れない。
興味無いけど。
小鳥は私の頭から飛び降りると、私の手の甲に乗った。
私はその手を目の高さまで持ち上げる。
小鳥は私の頭の上がいたくお気に召した様で大抵の場合そこで寛いでいるのだが、次に気に入っているのは視線を合わせて会話をする事である。
小鳥が目元で笑った。
この小鳥の目はとても雄弁で、それ程長く無い付き合いの私でも大まかな感情を見て取れるのだ。
「だが、暇を潰すのに適した客がおる」
小鳥はそう言うと、唐突に眩い閃光を放った。
虹色の閃光が私の右耳を掠めて背後へと飛ぶ。
「■■■■■!?」
背後から驚いた様な声が聞こえた。
振り返りそうになって、思い留まった。
下手に動くとこの閃光に頭を消し飛ばされそうだ。
「■■■■■だ。山を守るために我を殺しに来たのだろう」
背後で幾つも重い物が倒れる音がするのと同時に、小鳥が閃光を止めて飛び立つ。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには黒い何かがいた。
無理矢理表現するのなら棒人間か線人間と言った所か。
大凡の形は人型である。
頭の様な部分もあれば手足の様な部分もあるし、胴の様な部分もある。
しかしその全てが黒い線で構成されている。
遠近感が分かり難いのだが、背の高さは三メートル程度。線の太さは私の指程だろうか。
黒い線は常に動いていて、その様な形状の物体と言うよりは合成映像の様な印象だ。
そしてそれは人型ではあるのだが、私とは細部の形状が異なる。
手足と胴は細く長く、顔は無数の直線が丸い形状を造り出していて、全体を見ても曲線や折れ線は存在しない様に見える。
棒人間の足元には同じ色の布切れの様な物が落ちていて、薄い黒煙をたてながら燻っていた。
どうやら小鳥の閃光を受け止めるか逸らすかした様で、その背後で焼切られた樹木が周囲の木々を巻き込みながら倒れていた。
ギーギーと甲高い、歪んだ声で小鳥が鳴く。
それは言葉としての意味を持っていなかったのか、私には何の意味も感じ取れなかった。
「■■■■!」
小鳥の鳴声に呼応するかの様に棒人間が叫ぶ。
当然それは未知の言語であり意味は分からないし、そもそも意味のあるのかすら分からない。
もっと細かい事を言うなら、口はおろか発声器官があるのかも分からないので、それが棒人間の発した音であるのかも定かでは無い。
しかしそれは何かの呪文であったのだろうか。棒人間の手に槍状の何かが発生した。
棒人間と同じ様な質感が見て取れるその槍を両手の七本指が握り、穂先が歪んだ弧を描いて雪原に向けられた。
「我を見て逃げないとは重畳!」
小鳥が武人の様な喝を飛ばす。
「■■■■■■■■、■■■■■■■! ■■■■■■■■■■■■■!」
棒人間が何かの口上と思しき声を発した。
同時にその身体が動き――その後は目で追えなかった。
雪煙が立ち上がる。
重い音が衝撃となって私を張り、その時点でようやくそれらは棒人間が小鳥に向かって踏み込んだ事に付随する事象だと理解する。
縦横無尽に閃光が飛び交う。
色彩は虹色。それは灰色の異形と争っていた時に飛ばしていた閃光の色彩。
恐らくは、普段吐いている橙色の閃光より強力な閃光。
閃光が着弾した場所で雪が舞い、蒸気となって爆発する。
爆発によって更に雪が舞い、やがて煙幕の様に一帯を覆った。
寒気と熱気が交じり合い、雪煙と水滴と水蒸気が撹拌されて行く中、私は音がしなくなった事に気が付いた。
どうやら勝負は一瞬で着いた様だ。
真っ白な視界でその結果は判然としないが、漠然と小鳥が勝った事を確信していた。
私には棒人間が灰色の異形より強い様には思えなかったからだ。




