夜桜
明日も会えるかわからない。月の嘲笑が、部屋を青白く染めた。月光がお静の頬を滴る。一滴、一滴と光の雫が落ちてゆく。円らな瞳を閉じて、微かな寝息を立てている。その零れた僅かな息までをも盗みたいと、男は呟くのであった。
「時間」
小さな頭を抱きしめながら囁いた。
「かえりたくない」
お静は目を開けず、口を開く。同時に腕の中で、首を振った。重い瞼を上げても起き上がろうとしない。男が足を絡ませて、優しい抱擁をやめないからだ
「泊っていい」
お静が希う。
「帰れ」
男は言っている事とやっている事が違った。それも其の筈で、男が住む漁村は余所者との恋愛が禁忌でもあるからだ。今夜も逢引きし、そして早朝に別れなければならない。忍ぶ恋が、愛を深めてゆくのも皮肉なもんであった。
「時間」
お静も往生際が悪いわけじゃない。蓋し唇を奪いにいった。男の唇を甘噛みして、恐ろしい程の安堵を覚える。柔らかく温かい唇から、愛の純粋が流れ込み、お静は病みつきになる。お互いの気高き鼻が擦れあった。が、密着した唇をビリビリと花びらを引き裂くように男は顔を背ける。
「時間だ。他のものに見られたら、お前が殺されるぞ」
男は炯炯と叱った。
「そうね、あなたはこの村の王子ですもんね」
一等に大きい乳房を片手で隠し、もう一方の手で着物を召した。身支度が完了したことを確認した男は、颯爽と家を後にした。春でも早朝はまだ暗い。それに肌寒い。お静は邪魔なくらいに強かな腕をつかむ。
「足場、気をつけろよ」
振り向かずに注意を促した。鯔背な男に泣きじゃくり顔でお静は答えた。
「お互いにね!」
声色は満面の笑み。苔の生えた大きな岩をまたいで、浅瀬へと二人は駆ける。日が段々と昇ってゆく。群青色の空が、足元を照らした。風も温かくなり、潮のいい香りが二人を包み込む。潮風を男は激しく切って、大きな桜の木の下で立ち止まった。
「また明日な。明日の丑三つ時にこの桜の木の下で会おう」
お静は泣き止んでいた。今までの涙は潮風に靡かれ、乾燥していたのだ。頬がパリパリする。口角を能る限りに上げてお別れをした。
「必ずいくわ。まだ暗いから、桜の木の下で明かりを灯していてちょだい。あれが無いと、迷子になっちゃうのよ」
男は頷く。お静は足早に何度も振り返りながら、海を渡った。向こう岸までは、そう遠くはない。が、かなり深い。それを気にせず恋をするのがお静というものだ。
翌日も、翌々日も同様に二人は忍びあった。いつものようにお静が泳いでゆくのを見送ってから、男は振り返って帰ろうとした矢先、銛で背中を突かれるような一言が心を刺した。
「おい、あのお嬢ちゃんはなんだ。隣村の姫じゃないかい。それに、隣村って俺たちの村と仲が悪いことをしってんだよな」
鼓動が高鳴る。顔が青くなり、拍動が止まらない。口から心臓が飛び出しそうだ。これが罪、禁忌を犯した大罪というもの。
「なんか言ってみろ」
何も言えない。舌が硬直して、口内は乾燥している。顎が緊張でこわばってしまう。
「丑三つ時に会う約束をしておりました」
「なら、明日殺そう。お前も手柄だな。隣村の姫を殺せば、こっちのもんよ。よくやった」
皆は草むらに隠れて、桜の木に呆然と立ち尽くす男を見張った。村人は明かりを消して、身を潜める。奇襲をかけるつもりだ。男はいつものように桜の木の下で提灯に火を灯そうと試みるが、やめた。男はその場にしゃがみ、提灯を隠した。遠くをただ見つめて、お静が来るのをまつ。眉を固くして、眉間に皺を寄せる。だがその緊張も一瞬で綻んだ。
ジャバジャバと一か所だけ波がおかしい。一点のそこを凝視した。それでも男は火を灯さない。男は目頭を熱くさせる。
「凪」
男は呟いた。凪を確認してから、男は割腹した。丑三つ時を過ぎても姫が来ない事に村人は不思議がる。胡坐をかいている男の肩をゆすってみれば、あたりは血だらけになって男は絶命していた。小腸が零れ落ち、提灯を真っ赤に染めていた。草履は血の海でピチャピチャする。
「してやられた」
村人は男の屍を海に流した。こうしてお静の身体と男の身体は海の底で永遠に愛し合うのであったとさ・・・・・・