雪桜
春と冬が恋をした。夢で逢うならまだしも、冬は愛されたいと願ってしまったのだ。曇天に隠れたなごり雪が、あてもなくフラフラと淪落していく。誰と恋に落ちようか。素敵な黒光りをするアスファルトへとキスを交わしても、一瞬で殺されてしまうので、ならばいっそうの事、美しい桜の花びらに接吻をしようと寒風へ身を任せるのであった、
「なんてキレイなおとこなの」
と。
接吻の音が鳴り響く。寒いからなのか、その淫猥な旋律は遠くまで透き通る。チュッという音が聞えなくも無かった。快音が鳴り止むことはない。それは黒い唇よりも桜色した唇の方が甘い味がして、しこたま美味しいからだ。恋に酩酊した粉雪は、頬を紅潮とさせたのか、仄かに薄い桃色へと移り行くのであった。徐々に桜へと接吻をした粉雪は、蠱惑的な強かさで、堆く積もっていく。
「ひゃっこい!」
重力で雪が落ちそうになる。桜の花びらは、見知らぬ女にキスをされて、その冷たい唇を振り払おうとした。
「やめて、あたしをころさないで。ずっとキスをして。あなたの唇がフヤケテも、離さないで。ひとりにしないで」
こうして出会ってはいけない二つの季節が、殊に神様が眼を放した隙に落ち合ってしまうのであった。だから今年の四月だけは、桜の花びらの上に粉雪が積もっているのかもしれない。それでも桜の花びらからは、芳醇な香りが漂い始める。そして魅惑的な芳香の酸っぱい甘さが、蝶々を呼び寄せた。
「なんて良い香りなのかしら。キスしましょ」
「あたしのおとこに手をだすな!」
雪は桜の雌しべの首をへし折った。同時に淑やかな白らつく胸元で、桜の雄しべを挟み込む。斯様にして、雪は桜を自然界から切り離すのであった。あってはいけない雪の姿に昆虫たちは目を丸くした。いや、世界の表情も変わった。それでも気に留めないのが、何とも儚い。何故なら、気温が日ごとに上昇していくからだ。故に雪は少しずつだが融解するのも皮肉である。
「いけないよ、僕たちは愛し合ってはいけないんだ。僕はもう見てられないよ。だって君が僕の唇の温度で溶けていく姿なんか、僕にはもう見てられないんだもん」
「あたしの恋は溶けないわ。だからしんじてよ。二人でずっと暮らせる場所を見つけたからさ、あたしに付いてきて頂戴」
会ってはならぬ二つの季節を、神様は炯々(けいけい)と凝視した。神の目線が太陽光となりては、嫋やかな雪を融解点まで引き上げようとするのだ。そんでもって、太陽の光で溶かされない様に雪は桜を連れ去った。行き着く楽園は日陰。楽園で二人は裸になり、身体を絡め溶けあいながらも、うずくまって神様の背後へと隠れるのであった。殊に正義の光から逃げた楽園は背徳の日陰でもあるが、それでも気温は生暖かくも上昇するのが自然の摂理というものである。
春は陽気を好む。一方の冬は陰気でしか生きられない。この陽気と陰気が合わされば、何になろうか。何にもならない。何にもならないからこそ、二つの季節は頬を綻ばせながら、クククと喉を鳴らすのだ。一生懸命に共通点を探すのである。
「触れてほしいのに、そんな温かい御ててじゃだめよ。とけちゃう」
「触れたいけども、そんなに冷たい手を握ったら、枯れてしまうよ」
いくら日陰といえども、いくら神の死角へ逃げたとしても、蓋し神には逆らえない。殊に神様は日陰に隠れている二人へ、生暖かい吐息を吹きかけた。南の方から無邪気な春一番がやってくる。冬は温もりを孕んだ温風を嫌うので、残り少ない北風を呼び寄せる。役目を果たした鮭颪も復活させて、神の息吹へと反抗を試みた。
「どうして、あたしたちの愛を邪魔するのよ。やめてよ、やめてったら、やめて」
岩手県の四月は三寒四温が有名でもあるが、どうやら冬の未練に三寒は依存するのかもしれない。言葉の通りに、やはり神様の方が上手を取る。三という数字が来れば、一回りだけ大きい四でお返しをする。何ゆえに神様は、冬に勝機を匂わすような仕返しをするのだろうか。百千にしてやれば、冬も諦めて失恋を認めるはずだが、しかし、三寒四温だからこそ冬は胸が痛くなるのだ。剰え、日中だけしか冬へと攻撃をしない。そして日が落ちれば、冬の大好きな月が昇る。
「やった。たいように勝ったわ」
魔性の月光が、二人を青白く照らした。既に雪の身体は小さくなっている。望月がアドケナイ身体を溶けない様に、能る限りの延命に努める。安心を覚えた雪は、微睡みながらも、桜の花びらの上でユラユラと揺れるのであった。まるでしがみつくように、悲しいキスをするのであった。
「このままずっと、一緒にいてね。やくそくだよ」
白い瞼を甘く閉じながら、夜の帳よりも真っ黒な可愛い瞳で囁く。桜の前では甘えん坊さんになるが、しかし、昆虫や太陽を前にしては強かな女へと変身する。まるで蚕の様に、白い糸で桜を囲んでしまい、二人きりの世界へと籠ってしまうようであった。そんな二人が繭の中で何をしているのかは、解り切ったことである。恐らく雪が見ている野望は、いつか満月へと向かって繭を破り、一心同体の月光蝶へと変態することであろう。そして月光蝶は、鱗粉を落として勝利の軌跡を残していく、そんな儚い夢を繭の中で見ているのかもしれない。
桜は世間がどうなっているのかも、知る事はない。雪に覆われて、情報を遮断されている。いずれかは、自分も散らなければならない。でも、気温を感受できないほどに雪が娑婆と楽園を遮断するのだ。社会と通じたい思いが、現状の罪悪感の引き金となる。だから桜は甘い声で粉雪をあやした。
「そろそろ、俺は表の世界へと行かなきゃだめなんだ。ウグイスさんの声が聞えてくる。このままじゃ、俺たちは神様に怒られちゃうよ。それにまだな、俺には役目がある。蝶々さんとキスをしなければならないんだ。ほら見ろ。ついさっきに折られた雌しべも生えてきたところさ。俺は、君を愛してない。愛しているのは、蝶々の方だ。俺があの蝶々を見捨ててしまえばな、彼女は死んでしまうんだよ。俺はあの蝶々に蜜を吸わせてやらなければいけない。だから離れてくれ。
だめだって、あの蝶々の事を考えてしまうと身体が火照ってきちゃう。こんな苦しい思いを君にはさせたくない。俺が他の女を思って、その恋によって君が死んでしまうなんてさ、そんな心が痛くなる話があるかよ。早く俺から離れるんだ。蝶々への熱い想いで、君は溶けてしまうよ」
雪の水が花びらを滴り始める。ポトン、ポトンと雪は落涙しているのだ。雪色した頬を伝って、無垢な雫が頻りに落ちていく。桜の色素を奪い取ったのか、落涙は血涙へと移り変わるのであった。
「いやだよ。そんなに蝶々へと恋をしているならさ、あたしが冷ましてあげる。ほら、もっとキスをして」
ジュワッと音がした。どうやら、余りの熱さに雪が蒸発をしてしまったのである。
「やめろ!キスをするな」
「あたしの事がきらいなの」
そういう意味ではない。嫌いなわけがない。ただ、雪も雪である。自分への熱い恋心で桜に殺されたかったのだ。蝶々への恋心で殺されたくはない。それは当然である。それでも叶わぬ恋としりながらも、愛してしまったのだ。いずれかは、神様に地獄へと落される事を知りながらも、恋してしまったのだ。桜へとキスをしないで天国へと行くよりも、ほんの一瞬でもいいから接吻を交わして、地獄へと自由意志で行くことを決断したのである。殊に束の間の刹那と永遠の苦しみは、同等の価値というわけだ。
「そうだ、おれはお前が嫌いだ。もし、蝶々が明日にでも来た時にな、俺じゃなくてアイツを虐めようとするだろう。そしたら、容赦なく俺はおまえを振り落とす。そんな事は俺もしたくはない、だから、最後にお別れをしよう」
憎めないから、根っからの腐った人格者ではないからこそ、振り落とせないのだ。逆に悪い女であるならば、斯様な良心の呵責は皆無。だから容易に振り落とせるのは言うまでもない。だがしかし、雪女は全くとして違う。どこか憎めない純然たる罪にこびり付いた愛があるのだ。
「あと数時間よ。あたしが生きられるのは、もうあと何分ね。それまで側にいさせてください。お願いします。キスも何もしないから・・・・だから、あたしが神様に殺されていく姿を見ててください」
段々と雪は小さくなる。一つの塊が落ちるときには、アッと声をあげて桜もヒヤッとする。そして、死んでいく雪を見ながらも思い耽る事にした。桜は繭の中で誰にも見つからずに籠った出来事を、ゆっくりと回想するのであった。
繭の中では、外にも遊びに行けない。そんな時でさえいつも二人は、小説を読んで外国やら、時代を往来しながら旅行に耽った。段々と、自分たちだけの世界観を創りたくなり、あるいは自分たちだけの美しい言葉で、美しい物語を創りたくなる。桜は一生懸命に本を読み聞かせて小説を書く。雪はそれを批評して、さらに着想を与える。こうして仮想世界に依存をしてゆくにつれて、いや、現実では叶わぬ恋でさえも、小説の世界であれば、いつでも会える気がしなくも無かったのだ。それは永久に桜の花びらへと雪が積もるのと同じように。故にこの現象も現実ではありえない、だが繭の中では冬と春の両立が、完成できるかもしれないと慮る、いや、自分を嘯くのであった。
しかし鉄壁の繭の中にいても、気温が上がるにつれて、現実が押し寄せてくるのも、自然界の摂理というものであるが、同時に雪が徐々に溶け始めて日差しという現実が見えてくるのにも、桜は一種の勝利を覚えていた。雪には溶けてほしくないが、溶けてもらわないと現実が見えない。まるで元カノと別れて新しい彼女と付き合うような心境である。巷の俚諺のごとく、一人目の恋人、あるいは初恋は別れる辛さを覚えて、逆に二人目の恋人とは永遠の愛を学ぶというわけだ。
剰え、蝶々よりも雪の方が可愛い。性格も当然に雪の方が素敵だ。だが、あくまでもそれは非現実的な世界観を敷衍させるだけの、いわば、負け犬の遠吠えから出来た言霊の世界観である。そして万朶の桜の中でも、我々の主人公である一輪の桜だけが、何ゆえに粉雪と淪落をしてしまったのか。それは、単純に見たくないものをたくさん見て来たので、畢竟、白くて美しい雪に覆われたかった、ただそれだけの事である。例えばスズメと蜂の姦通をつぶらな瞳で瞥見し、そこから産まれてくる合いの子の雀蜂の哀れさにも同情をした、殊に桜が柔和に慰めてやれば、ツンツンと桜の実を食べられる始末。ついでと言わんばかりに、毒針も刺される。こうして生き物への不信感と、自己欺瞞の滑稽が誰よりも見えてしまうのであった。本音と建前の建前に染められたい思いが、次第に募っていく。そんな矢先に目を潰してくれる雪が舞い降りたのだ。悪魔と契約を交わすように、キスを交わしてしまうのは当然とも言えるかもしれない。
桜は一概に被害者ともいえない。雪が一方的な加害者とも言い難い。桜は雪を受け入れてしまったという罪があるからだ。これも立派な大罪。いくら凄まじい過去を背負っているからと言っても現実から逃げる事は、まさに死に至る病。そんな死に至る病を治す方法は、蝶々を愛する事である。すなわち現実を愛する事である。桜の場合はこれに尽きる。もう一度だけでも、閉じてしまった目を開き、そして現実を見る事である。確かに現実は汚いかもしれない、だが、美しいものも沢山あるのだ。故に桜はもう一度だけ目を開いて、愛する蝶々を守るためにも生きる事を英断したのであった。
思い耽りから目が覚めれば、雪はもうほとんどない。羸弱した体は非常に冷たくて、雪女は掠れた声で囁くのであった。
「ねえ、お願い。とどめは貴方がさして。あたしをおもいっきりアスファルトに叩き付けてちょうだい。蝶々への熱い思いで、あたしを溶かさないで。でもあたしを思えば、あなたは冷たくなってしまうわ。それもいけない。いけないのよ。貴方は蝶々と結ばれなきゃいけないの。だから、はやくあたしを殺しなさい」
「君は死んだらどうなるんだ。生まれ変わるのか、それとも地獄へ落ちてしまうのか。それとも、天国に行けるのか、もう二度と俺とは会えないのか!」
未練がましく一振りができない。雪は泣きじゃくりながらも満面の笑みで喉を鳴らした。
「蝶々に感謝しなさいよ。あたしは落ちます。でも、貴方は上げられます。あたしたちは二度と会えません」
こうして桜の心は何度も揺らぐ。このまま一緒に散りながらも、落ちてしまいたい思いが無くはない。咽び泣いているけども、強気を保つ雪女へと穴が穿つほどに桜は見つめた。
「あなたの手で殺して!甘えんじゃないよ」
「二度と他の桜に積もらない様に、俺が殺してやる」
桜は利他的に言った様な顔をしていない。これは利己的だ。嫉妬を覚えているのか、眉間に皺を寄せている。他の桜とキスをしないように殺すのだ。雪を殺すことで絶対者に仕立て上げる、それだけの事である。
「それでいいのよ」
雪女は歯がゆい笑顔で落ちていった。桜はそれを見下し、でも涙は止まらなかった。雪女がアスファルトとぶつかるすれすれの瞬間に、真っ白な唇だけが軽く動いているのが見えた。それを桜は口真似をしながら、声に出してみた。
「おやすみなさい」
桜は一文字に口を結んで、上を向いて生きる事を英断する。
落ちた雪はアスファルトの温度によって溶かされていく。満月を見ながらも、自分の罪を噛み締めた。苦渋の味がする。美酒ではない。でも、どこかしらか、誰かの為に死にたい思いが湧き起こる。せめてあの夜空に眠る星屑のように、みんなを照らしてあげたい。綺麗ごとでもなく、何だかんだ、雪女は強くないのだ。自分の恋の為だけに死ぬほど強くはない。誰かの為に死にたい、誰かの恋のために死にたい、そんな微かな思いが天へと届いたのか、飢え死にをしそうな蝶々が地面を這いつくばっているのを雪は見つけた。どうやら、桜に見捨てられて喉がカラカラなのだろう。このままでは餓死する。
「あら、今朝の蝶々さんね。こんばんわ。ここまで来て、あたしを食べなさい。ほんのちょっぴりだけどもね、桜の蜜をあたしは含んでいるわよ。飲んでもいいわ。その代わりね、あのバカな桜男児を大切にしてあげてちょうだい。今度はあんたがずっと面倒をみてあげるのよ」
蝶々は上品に粉雪を飲んだ。喉が甘く潤っていく。そんな余韻に浸るのは一瞬で、颯爽に望月へと向かって飛び立った。まるで月光蝶だ。月光蝶は、涙で濡れている桜の花びらの上に、チョコンと足を下す。
「月光蝶さん。君のものだよ、僕はね」
「テレちゃいます」
ニヤニヤしながら口を近づける。凄まじい勢いで月光蝶は桜の蜜を吸い尽くした。この長い、長い接吻の音が冬の終わりを告げる合図となる。月光蝶と月光花は、永遠にお互いの唇を離そうとはしなかった。ずっと、ずっと。






