彷徨う少年 ⑤
「それは事件に関係ないことではないですか?」
井上の頬は少し紅潮していた。
「事件の関係性の有無については我々が判断します」
先ほどの熊谷の穏便な口調から冷淡な無機質な声に変わる。
「しかし...」
どうしても話したくはないのだろう。井上の口は閉ざされたままだ。
「いいですか?確かにあなたの話が正しいのなら大貴さんはこの事件の極めて重要な参考人です。しかしそれがあなたへの容疑を晴らしてくれる掛替えにはならないのですよ。
この店の従業員はあなたと佑平さんしかいないのです。とすれば事件発生の直前まで犯人あるいはあなたしか佑平さんと接触した人はいない。さらにあなたは第一発見者ときた。言いにくいことではあるんですがあなたも立派な容疑者の一人なのですよ。この意味はわかりますね?」
熊谷はで井上で腕づくの口にかかった鍵をこじ開けた。
「つまり私がこのまま黙ったままと分が悪いとうことですか…
わかりました。お話ししましょう。でもあなたは随分と的外れな検討をしているらしいですね。私が閉口していたのは自分の容疑が深まるのを危惧していたわけではありません。これは私のプライバシーに大きく関わるからなんです」
「プライバシーの保護は私たちが厳守します」
しばらくの間無言だった。恐らくどこから話したらいいのか考えあぐねているのだろう。
ようやく話が始まった。そして熊谷と神田は痛感した。こじ開けたのは井上の口ではなく井上の内にあるパンドラの箱だったということを。
「私の過去から話しましょう。私は幼いころからずっと両親からネグレクトや暴力を受けて育ったのです。洋服はもちろんのことご飯も用意されず、おなかが減ったときは家に捨てられた残飯や近所の公園に実っている、名前の知らない木の実を食べたり、水道水を飲んでいました。
もちろんそんな生活を続けていたので私の体は壊れていきました。常に腹痛や嘔吐に襲われ“居場所”はいつもトイレやベランダでした。
両親は周りの目を気にしたのでしょう。というより自分たちの身を守るためかもしれませんが、私を家の外に出さなくなりました。これはもし私が道端で倒れたりし病院に運ばれると虐待が発覚することを恐れたためだと思います。
しかし6歳の時両親との別れの時が訪れました。暗闇の中にまるで涙のように白い雪が降り注ぐ冷たい季節でした。これは後から聞いたのですがベランダで倒れている私を近所の人が119番通報してくれたようなのです。そして両親はすぐに虐待がばれて警察に捕まりました。
私はしばらくの間、病院に入院し、その後高校生まで施設にいました。ずっと一人ぼっちだったんです」
井上はここまで話して一呼吸おいた。井上の大きな瞳には熊谷や神田は映っていなかった。そこには過去の幼い自分が映し出されていた。
なぜ両親は子供に無慈悲な暴力が振るえる?こんな加虐な行為を受けていたのに周りの人達は本当に6歳になるまで気づかなかったのだろうか。本当は見て見ぬふりをしていたのではないか。そう神田はぶつけどころがない怒りを覚えた。
「私はいつも“居場所”を求めていました。誰かに必要とされる場所を。高校生になってからは名前も知らない人に自分の体を委ねるようになりました。その時だけ男は自身の欲を満たそうと私を必要としてくれたのです」
また一呼吸。
「高校2年生の冬の日のことです。その日は両親がいなくなった日、“居場所”をなくした日と同じような冷たく白い雫が街中に積もっていました。
ふと悪魔が私に囁きかけてきたのです。何も前触れがない、まるで気まぐれかのように。
『君はもう頑張った。でもねこの世界に君の“居場所”はどこにもないだ。静かに眠るといい。そうしたら必ずこんな悪夢から解放される』
それから私は以前、医者から処方されていた睡眠薬を公園のベンチで飲み眠りました。何も抵抗がないままに自らの死を選んだのです」
先ほどまで自我を持たない人形のような井上の表情がうっすらと笑みを浮かべた。
「目覚めた時、そこは天国でも地獄でもありませんでした。そこは布団の中でした。そして1人の男性が優しく話しかけました。
『目が覚めたか。大丈夫か?』
その声を聞いた時、その時私が感じたものは、死ねなかった後悔やその男性に対しての恐怖心とは大きくかけ離れたものでした。体の内から湧き上がる安心感そのものでした。それは今までどこに行っても感じることができないものでした。
もうお判りでしょうけど、私を助けてくれた男性というのが佑平さんだったのです。
不思議なものですね。今まで私は自分の過去のことを誰にも話そうとしなかったのに佑平さんには一切を話したくなったのです。今まで蓋をしていた感情も何もかも佑平さんに知ってほしかったのです。
それからおそらく私を1人にさせることに危機感を覚えたのか、あるいは私に対して同情の念があったのかもしれませんが、私をこの店で働かせてくれたのです。それだけはなく私のためにアパートを借りてくれたりしてくれました。
佑平さんは暗闇を彷徨う私に太陽のように温かい光を与えてくれた恩人でした」
パンドラの中にある惨劇に幕が下がるとともに井上の目にはガラス玉のような大きな涙が溢れ出ていた。
「お気持ちは痛いほどわかりました。佑平さんがこの店を簡単に手放さなかったのはあなたの“居場所”をなくしたくはなかった。あなたをあの頃みたいに1人にさせたくなかったんですね」
井上は力なく首を縦に振った。ついには肩を震わせ大粒のガラス玉が地面に叩きつけられ、割れた。