安楽椅子探偵 VS 切り裂きジャック ②
「今年は暖冬ということらしいですけど、寒いのは変わりありませんな」
熊谷警部補は、さっき僕が座っていたソファーにもたれ掛かり、いつものヤクザ風味の顔を歪め、言った。警視庁の中で随一の腕前と評されている柔道で鍛え上げられた体も、自然の寒さには敵わないらしい。主にスキンヘッドが悲鳴を上げているようだ。
また、警官の中では名前と筋肉質で図太い体躯に由来し、「クマちゃん」とひっそりと可愛らしい愛称がつけられていることを教えてくれたのは、熊谷警部補の隣で背筋を伸ばして座っている神田刑事だ。
この人は、影山さんの読者の1人でもあり、何故か僕のことも慕ってくれている。熊谷警部補と違い、痩身で甘いマスクを被っており、刑事というよりは近所の面倒見のいい爽やかなお兄ちゃん的存在だ。
「すみませんね。わざわざこの狭苦しい部屋に来てもらって。私のことを良く思っていない刑事さんたちが大勢いますので、捜査本部に顔を出すのは憚れるのですよ」
影山さんは、作業机であるどっしりした木材で作られた古めかしいオフィスデスクと見事にマッチしている安楽椅子に座っていた。
「そんなことはありませんよ。影山さんのお陰で、暗礁に乗り上げられそうになった事件がいくつも解決されているのですから、警察にみんな頭が上がりません」
優しい心の持ち主である神田刑事は真摯に眼差しでフォローに入る。
この人は、刑事としてあるまじきことではあるのだが、感受性が高くまた素直すぎるので容疑者でもまた犯人でも情が移ることが多い。いい人なのだが、将来は出世や女性関係や苦労しそうだなと思いながら、僕は、先ほどまでマジック勝負を繰り広げられていた長方形のガラステーブルを挟んで、刑事2人の前に座った。
「前置きはこれぐらいにしましょうか。お二人方でも手に負えないとなりますと、やはりあの連続殺人ですか?」
「連続殺人というと、妊婦が立て続けに襲われている事件ですよね」
今、東京中を震撼させている悍ましい事件であり、テレビではほとんどのチャンネルで犯罪学者やキャスターなどが毎日のように肩時も議論を交わしている。切り裂きジャックと。
「お二人ともさすが察しが良いですね。捜査の基本は犯人が残した痕跡、あるいは疑わしい人物を徹底的に調べ上げることなのです。ですが今回ばかりは、そうは問屋が卸さない。事件の糸口が、まるで煙の中に吸い込まれていったかのようで一寸も見えてこないので、我々にはもう太刀打ちできないのですよ。そこで是非、お力をお借りできないでしょうか?」
この言葉は、僕よりも後ろで大仰に足を組んでいる影山さん、一点に向けられたものだ。僕が事件解決のために多大なる貢献ができたと自負できるほどそんな事実ないし自尊心も持ち合わせていない。
影山さんがゆっくり頷くと、熊谷は手帳を内ポケットから取り出し「コホン」と咳払いした。
「ありがとうございます。では、まず事件の概要から話させていただきます。これまでの被害者は3名。いや6名と言うのが正しいでしょう。いずれも荒川区と北区周辺と狭い範囲で犯行が行われており、最初の犯行は12月15日、最後の犯行が3日前の2月21日です。またこの5つの犯行の共通点は、被害者が妊婦であり、凶器は市販で流通している一般的な包丁と推定されます。天気は雨。それも小雨ではなく、視界が悪くなるほどの大雨です。恐らく犯人は、人目を気にしたんでしょうな」
ここまでは、影山さんもニュース得られる情報なので先刻承知のはずだと思ったのだが、右手を上げて、熊谷の報告に口を挟んだ。
「最後の事件と言いましたよね。それを決めつける決定的な根拠があるのでしょうか?」
熊谷は自分の額を叩き、苦笑いして見せる。
「すみません。語弊がありましたね。最後というのは5つ目の事件でして、これは刑事の勘というものなのですが、犯人を見つけない限りまだ犯行は続くと私は睨んでいます」
「なるほど。続けてください」と言い、手の平を差し出し報告を促した。
「ここからは世間では公にされていない情報であるんですが、もう1つ犯人にはルールがありました。被害者を刺し殺すときは必ず下腹部からです。そして息の根を止めるために喉に一突き」
熊谷は自分の血管が浮かび上がっている、太い首に人差指を当てた。
ここまで聞くと本当に1888年にロンドンに突如現れた売春婦5名に命を奪い、煙のごとく姿を消してしまった切り裂きジャックそのままではないか。
「ほう。不謹慎ではありますが、かなり興味深いではないですね。では今度は被害者について詳細に話を伺いましょうか」
影山さんの眼があの狩人の眼となり、心なしか声が震えていた。