彷徨う少年
まだ夏の蒸し暑さを感じ陽炎が立ち上る九月上旬。この季節になると思い出していまうのだろうか。一年前、影山英一と出会ったあの日のことを。
炎天下の中、僕は4月からほぼ毎日のように通っている「detective'scafe」に逃げ込むように入っていった。そこは目の前の大通りの喧騒すら感じさせない悠々とした時間が流れているようであった。
どっしりとした重い扉を開くとまず目に入るのは壁一面の本棚である。その本棚には世界中が尊敬、あるいは崇拝さえもしている古今東西の推理作家たちの著書が、店の名前に劣らず隙間なく埋まっていいた。
「いらっしゃい。いま淹れるから待っといてくれ」
と口ひげをたくわえたマスターの低い声がお出迎えしてくれる。
入ってすぐ左側にはカウンター席が4席あり、目の前にはキリマンジャロやマンデリンといった主要なものからグアテマラ、トラジャといった聞いたこともない豆が、ラベルが貼られた瓶に十何種類と並べられていた。
その中の「特製ブランド」と書かれたラベルの瓶から豆をマスターが取り出すのを、横目で見ながら僕は、店の右側に並べてられている3席しかないテーブル席の1番奥の席、大通りから一番番離れた席に座った。そこが僕の特等席なのだ。
店内は19世紀末を連想させるようなアンティークな雰囲気を醸し出しており、豆を挽く音と見事にマッチしている。客はカウンタに2人と僕を合わせて3人しかいない。休日の15時にこれだけの客数はいささか心配になるぐらいだ。
いつもの席でいつものように読書をするこれが僕の日課だ。本を読んでいるといつしか嫌なことも面倒なことも忘れることができる。自分の世界に入っていけるのだ。
「お待たせしました。いつも来てくれてありがとう」
カチャとカップの音が聞こえると共に甘く優しい声が読書中の僕の世界に飛び込んできた。
そうだ。僕はこの声が聞きたくていつもこの席に座っているのだ。カウンターに座ったら目の前にいるマスターがサーブしてしまう。わざわざテーブル席に座ているのはこの人との少しのおしゃべりの時間のためであった。
「ありがとうございます。まだ暑いですね」
「ええ。暑くて嫌になるわ。毎日毎日、頭がクラクラする」
そう言って甘美の声の持ち主は不機嫌そうに右頬を膨らませた。その仕草はまるで無垢の子供のようであった。
しかしこの人が街を歩いていたら、おそらく多くの男性はその端麗な容姿に魅了されてしまうだろう。もちろん僕も多くの男性の中の一人にすぎないが。この人は美しさの中に何処かミステリアスでまた芯のある強さを持っているようであった。
「はは。確かに。あと一か月は続きそうですね」
とくすりと笑いかえした。
「その本は?」
僕がさっき読んでいた本を指してきた。
「あぁ、この本は影や・・・」
と言いかけたところで扉が開かれ「いらっしゃいませ」とマスターの低い声が店中に響いた。
「ごめんね。後で詳しく教えてね」
そう言って話の途中であったが素早くお客さんの対応に美人店員は行ってしまった。
仕方ないか。と思いつつ自分の世界に入り込もうとしたところで思いがけない光景を目の当たりにした。
混乱しているに違いない。ただの見間違いだろうと一度は自分に言い聞かせた。
それでも確かに目の前にいる人物を見るとそれは確信に変わり、感動に似た感情が全身から感じられた。
「影山さん・・・」
今の僕が発せられる唯一の言葉だった。 微かに出た言葉だけで充分相手には聞こえたのだろう。
180㎝はあるだろう身長に長い前髪。その奥に光る獲物を狙うかのような鋭い眼光。その風貌はまるで19世紀末のロンドンに現れた名探偵。
シャーロック・ホームズ。
名探偵はうっすらと微笑みながら一歩一歩僕のほうにゆっくりと歩いてくる。そして僕の前に座り、こう言った。
「どうした?少年。深淵に追い込まれた犯人の顔をしているな」
これが僕と影山英一の最初の出会いであった。