62 宴
いつもよりも丁寧に髪を梳かしまとめ上げ、星羅は郭蒼樹に借りた着物を着る。上等な絹織物に母の朱京湖はうっとりと生地を撫でる。
「この国の織物はほんとうに素晴らしいわね。重厚で繊細で丁寧で」
「西国にもいいものがいっぱいあるでしょう?」
「うーん。緻密さが少し違うわね。国のせいかしらね。西国は暑いから」
「そうなのね」
くるりと一周して見せる星羅に「これならどこに出しても恥ずかしくないわ!」と京湖は感嘆する。
「晶鈴がみたら、どんなに立派になったかって思うかしら……」
歳のせいだろうか、キャラバンで胡晶鈴の噂を聞いたせいだろうか。京湖はまた涙もろくなっている。
「わたしが立派に見えるなら、それはかあさまが育ててくれたおかげだわ」
「ありがとう……」
力強く星羅は心からそう思っている言葉を発する。実際に京湖は子煩悩で、兄の京樹と星羅を大変慈しんだ。もちろん夫の彰浩に対しても思いやり深く優しく尽くしている。とても高官の娘とは思えない献身ぶりだ。
京湖に言わせると、娘時代は自由奔放で好き勝手しても誰にも諫められることはなく、毎日楽しいことばかりして過ごしたということだ。今は、贅沢もできず、一日中家事に追われて自由に遊ぶ時間はない。それでも愛する夫と子供たちに囲まれて幸せだという。
実の子ではない星羅が卑屈にならず、素直に明るく育ったのは京湖の、大らかで愛情深い育て方のおかげだろう。
今日の音楽会は王太子と妃たちが住まう、中央から離れた王太子宮の庭で行われる。美しい白壁に囲まれた宮は、高さを誇る王の住まい銅雀台とは違い、優美で可憐だった。王太子が王に即位すればここから離れて銅雀台へ住まう。
そっと白壁を撫でた星羅はその滑らかさに驚く。そしてこの宮は、穏やかで優しく優雅な隆明のようだと思った。
優美さとは裏腹に門番は物々しい。いかつく険しい表情の門番に声を掛ける。
「あの、王太子様に招かれたものですが」
じろりと見下げる大きな男に星羅は『軍師見習い 朱星雷』の札を見せる。確認して頷いた男は門の隣のやはり小さな扉を指さし「そこからどうぞ」と視線をやった。
頭を下げて星羅は扉を開く。
「あっ」
入るとすぐに庭があり色とりどりの花が咲き乱れている。自然の美しさがここに凝縮されたような典雅な様子だった。
「桃源郷とはこんなところかしら」
ぼんやり見ていると、「星雷」と声を掛けられた。振り返ると、郭蒼樹と徐忠正が立派な装いで立っている。
「お、見違えたぞ」
徐忠弘の明るい声に「こっちだって、どこの王子かと思ったよ」と星羅は答えた。
徐忠弘の着物は、明るいオレンジ色でざっくりとした荒い織り目だが、何層にも重ねられていて豪華だ。裕福な商家だと思わせるが、成金ではないので下品さはなかった。徐忠弘の気さくなキャラクターに良く似合っている。
郭蒼樹はもう軍師の貫禄がある。青みを帯びた灰色の渋い着物に黒い帯だ。あたりをきょろきょろと興味津々で見ている忠弘と違い、蒼樹は慣れた様子でじっとあたりを見ている。
「そこが会場だろう」
郭蒼樹の指さすほうを見ると、柔らかい草の上に赤い色の毛せんが何枚か敷かれている。きちんとした台座を作ることなく簡単に敷かれた様子を見ると、私的な集まりで堅苦しさはなさそうだ。
「僕たちはどこに座ればいいのかな」
星羅が尋ねると「おそらく、その下座だ」と蒼樹が答えた。遠目からでもわかる華やかな集団がやってきた。王太子、曹隆明と妃たちだ。一人の官女がさっとやってきて「軍師のみなさま、こちらへどうぞ」と案内してくれた。
「軍師だってさ」
徐忠弘は見習いが省略されただけなのに嬉しそうな顔をする。緊張していた星羅もおかげで硬さがほぐれた。王太子、曹隆明の前にいき三人は拝礼する。
「よい、面を上げよ。気楽にしてそこに座るがよい」
蒼樹の言った場所に案内され三人は座る。
「華やかだな」
「うん」
忠弘は隆明と妃たちの豪華絢爛な着物に目を奪われている。彼は目利きでもあるので、それらの着物や装飾品がどれだけ価値の高いものかよくわかっている。
目の前に、酒や肴、果物が運ばれる。豪華さに目を見張るが、白地に青い染付をされた器を見てふっと養父の朱彰浩を思い安心感を得た。彰浩が作ったものかもしれないと思うと、そばに彼がいるようで安らぐ。彰浩は無口であれこれいう人ではないが、一家を支え誠実な人だ。星羅のことを、京湖と同様、実の娘として愛情を注いでくれている。幼い星羅をロバの明々に乗せ、よく散歩に出かけた。
「おや、お妃さまたちは4人しかいないぞ」
「あれ、ほんとだ」
着飾った妃たちは、隆明の左右に2人ずつ侍っている。そのうち二人の、隆明に近い妃の後ろにはまだ幼い王女が官女と控えている。
小声で蒼樹は星羅と忠弘に囁く。
「王太子妃さまの具合はいつも良くないのだが、王女さまの具合もよくないのだ」
王太子妃の桃華はずっと臥せったままで、王太子の長子である王女も病弱で公の場に出ることがなかった。気の毒なことだと思い、気が沈みそうになると笛の音が聞こえてきた。
王太子の曹隆明が美しい音色を奏で、側室の周茉莉が高くかわいらしい声で歌いだす。『詩経』のような堅苦しいものではなく恋の歌で、明るく開放的な内容だ。おそらく周茉莉の出身地方の歌だろう。
「茉莉さまはかわいらしい歌声の持ち主だなあ」
耳に障りの良い声に忠弘はうっとりしている。歌が終ると、今度は新しく迎えた側室二人が、それぞれ琵琶と琴を演奏し始める。さきほどの隆明のしっとりとした演奏と違い、スピード感があり、転調が激しい。官女の一人が小さな鐘を鳴らすと、側室の申陽菜がさっと出てきた。
軽装な薄衣に、羽衣を何枚かと扇を持ち、まるで飛んでいるかのような舞を踊る。
「すごい!」
アクロバティックな動きの中に、優雅さと妖艶さを演出する申陽菜に星羅と忠弘は見入る。官女たちもため息をつきながら素晴らしいわと口々に囁いている。激しい動きなのに汗もかかず息も乱さない申陽菜は、まさしく国随一の舞姫だと誰もが思うだろう。
内輪の集まりとはいえ、やはり王族だ。庶民では観ることも聴くこともできない。子供のころから芸術に触れる機会が多かったという、徐忠弘でも舌を巻くようだ。
「いやあ、今までも国一番ってものを観てきたがそうでもなかったな!」
「本当だな。王太子様に感謝しなければ」
興奮している星羅と忠弘にに蒼樹は優しく微笑んだ。
「蒼樹は慣れっこなんだな。やっぱり代々軍師家系は違うな」
「いや、そういうわけでもないが」
単に感動が薄いだけのようで、蒼樹の関心は芸術にはさほど注がれないようだった。
「この桃もこんなに大きいものはないぞ」
「初めて見たよ、こんな大きい桃」
「古代では桃1つで大混乱が起こったこともあったからな」
星羅は美しい歌と舞、そして素晴らしい果物と酒にまるで夢のようだと思った。ふっと正面の曹隆明と目が合う。隆明は優美な笑みをみせじっと星羅を見つめた。星羅はなんだか胸がどきどき高鳴るのを感じ、酒を飲みすぎてしまったのかと頭を振る。
王女たちが隆明にじゃれるようにまとわりついている。周茉莉を母に持つ王女は愛くるしく膝に乗っており、申陽菜を母に持つ王女は幼いながらも色気があり、隆明の首に手をまわしている。それぞれの母は、隆明と二人きりの時にそうしているのだろうと誰もが予想できる。
そんな王女たちを見ていると、なぜだか星羅は胸が苦しくなってきた。なぜだかわからないが切なく辛くなってくる。
「さて、そろそろ終わりにしよう」
隆明が立ち上がると妃たちも立ち上がる。軍師見習いの三人も慌てて立ち上がった。
「どうだ。楽しかったか?」
隆明の言葉に3人は恐縮して礼を述べた。
「星雷は少し酔ったのか?」
「え?」
すっと隆明の指先が星羅の頬をかする。
「また軍師省で会おう」
くるっと隆明は妃と官女を連れて立ち去った。
「さて、俺たちも帰るか」
「あ、ああ」
ぼんやりしている星羅に忠弘が声を掛けた。
「楽しかったな。しかし隆明様はほんとうにお優しいかたであるなあ」
ますます隆明に信奉していく忠弘だった。
帰宅して蒼樹から借りた着物を脱ぐと、星羅はまるで夢からさめたような気がした。
「どうして胸が苦しくなったのかしら」
親ほど年の離れた隆明のことを思うと、やはり胸が苦しい気がする。そして早く軍師省に訪れてほしいと願うようになるのだった。




