54 香り
隣で眠る、花の香りの高い側室の申陽菜に背を向けて、今日、軍師省で思わず抱き寄せた朱星雷を思う。まだ若い青年のためか、抱いた感覚は柔らかく軽く華奢だった。一瞬のことだったが、星雷からスパイシーな香辛料の香りが漂った。中性的な雰囲気で透明感があり、かわいらしさもある。そして胡晶鈴によく似ていた。
「不思議な子だ……」
晶鈴に思いを馳せる。彼女もとらえどころのない不思議な人物で、隆明をそっと薄絹のように包み込んでくれていた。
ただ、今にして思えば、晶鈴は自分を受け入れてくれていたが、彼女が自分を求めたことはない気がする。晶鈴を自分のものにしてしまいたいと若かった隆明は男の欲望を彼女にぶつけてしまった。その劣情を彼女はそっと受け止めた。
「あれが母性だろうか……」
隆明は物心ついたころには、先の王妃であった母を亡くしていたので、母を味わったことはない。乳母や女官が優しく甘やかして育ててくれたと思うが、彼女たちを母のように思ったことはなかった。
「晶鈴だけだったな……」
改めて晶鈴は友であり、恋人であり、母であったのだと思う。そう思えば思うほど晶鈴が恋しくなる。
「身代わりにはできないだろう」
よく似ている朱星雷を、ついつい晶鈴の身代わりにそばに置きたいと願ったが、逆に虚しくなりそうだ。デリケートで心根の優しい隆明は、朱星雷にも嫌な思いをさせたくなかった。
「晶鈴は何も残さなかったな」
香りもまとわず、記憶に残るのは彼女の若かりし姿だけ。彼女の好きな桔梗の花を庭に植えたが、嫌いじゃないというだけだったかもしれない。
「今、私のことを少しでも想ってくれることがあるだろうか」
故郷にいるだろう晶鈴はおそらく家庭を持っているだろう。隆明は何度も彼女の故郷に行きたいと願ったが、無理な立場だった。また彼女に会ったところで何か変えられることもない。
朱星雷の登場で、久しぶりに胡晶鈴への想いを再確認してしまった。そのことを口にはもちろん出さないが、申陽菜と周茉莉2人の側室は隆明の様子がおかしいことに鋭く気づくのだった。




