40 陸家
星羅が陸家に出入りするようになると、教師の絹枝だけではなく、彼女の夫である陸慶明と息子の陸明樹にもよく顔を合わせるようになった。
池のほとりの東屋で陸慶明は若いころは晶鈴によく世話になっていたと話してくれた。育ての母、朱京湖も知らない晶鈴のことを知っている彼に、星羅は熱心に話を聞く。
「それで、慶おじさまはその薬をどうしたんですか?」
「晶鈴の占いを信じなかったばっかりに、飲んで腹を下したよ」
「へえ!」
「それからは晶鈴の占いを一度も疑ったことがないんだ」
陽気もよく、庭を眺めながら話が尽きないような雰囲気の中、書物を持ってきた絹枝が声を掛ける。
「あら、あなた。星羅さんの相手をしてくれていたの?」
「ああ、ちょっとだけね」
「今おじさまから母の話を聞いていたんです」
「ああ、晶鈴さんの。お会いしたことはなかったけど太極府では抜群の的中率だったらしいわね」
こほんと咳払いをして慶明は席を立つ。
「では、私はこれで。いつでも気軽に遊びにおいで」
「ありがとうございます」
去っていく後姿をすこし眺めて、星羅は絹枝の持ってきた書物に目を走らせる。学舎の図書室は古代思想家の哲学書と歴史書しかなかったが、絹枝は兵法書を所持している。
「これは高祖がわかりやすく書き直したものなんですよね」
「ええ。こっちは写本だけど本書は王宮図書館にあるの。それはもう保管されるだけの代物ね」
「じゃあまた写させてもらいます」
星羅は布袋から筆巻きと竹の書簡をとりだし机に広げる。
「墨はここにあるから」
絹枝はことりと墨壺を机に乗せる。絹枝には庭を愛でる趣味はあまりないらしく、何の花が咲いているのかも知らない。勉強がしやすい環境が大事だった。今日は室内よりも屋外のほうが程よい気温で、湿度もあり筆を走らせるのによいと思っている。星羅が写している間、絹枝は授業の進め方について考察し、メモを残している。さらさらと筆が静かに進む音だけが流れる穏やかな時間だった。
それを打ち破るような春衣の声が聞こえた。
「ぼっちゃま、おまちください!」
「ほっといてくれて平気だから」
賑やかなほうに目を向けると、陸家の長男、明樹が髪を振り乱し走ってこちらにやってきた。3つばかり年上の彼は、慶明によく似て背が高く、日焼けした肌は健康的だ。艶のある黒い髪はウエーブがかかっていて華やかに見える。
「お母さまただいま。やあ星羅」
「明樹さん幞頭はどうしたの?」
髪をまとめ上げる赤い頭巾を懐から出し、「剣先が当たって破れちゃったんだ」と机に置いた。
「え? 剣先が頭に?」
ぎょっとする絹枝に「実践じゃなくて型の稽古だから心配ないよ」と笑って手を振る。後ろに立っている渋い顔をした春衣にその頭巾を渡す。
「というわけで、縫っておいて」
「今はどうなさるんです? そんな好き放題の頭で」
「ん? これはこれで楽だからなあ」
「奥様からもおっしゃってください。身なりをもっときちんとする様にと」
「ああ、そうね。明樹さん、春衣の言うとおりになさい」
「へいへい。じゃ部屋に戻る。またな星羅」
父の慶明も、母の絹枝も明樹にはあまり口やかましくないようで、彼は自由気ままに明るい性格をしている。使用人頭の春衣が一番熱心にあれやこれやと世話を焼いているのだ。
口笛を吹きながら部屋に戻る明樹を、春衣が追いかけて去っていった。
「誰に似たのか騒がしいわね、明樹さんは」
「いえ、明兄さまはご学友にも人気で、私たちのあこがれの人でもありますよ」
「あら、そうなの? 気づかなかったわ」
「剣術がとても見事で」
「まあまあ。本当に誰に似たのか……」
インテリ家系のはずなのに明樹は学問よりも剣術、武術に秀でていた。将来は父親のように医局へ入るか、母親のように教師になるかと幼いころは期待されていたが、明樹本人は武官を目指している。
「今は大きな戦もないのにねえ」
明樹が武官を目指していることを星羅も知っていて、彼の希望には肯定的な感情があった。絹枝は親の後を継がぬとも、せめて文官を目指してほしかった。幼いころに机に座らせすぎたのがいけなかったのかと、愚痴をこぼす。
「きっと明兄さまには、絹枝老師のようなかたが奥方になるんですよ」
絹枝の気持ちを慮って前向きな意見を述べる星羅に、その手があったと絹枝は顔を明るくした。
「そうね、そうね」
目の前の学問に熱心で素直で明るいこの少女がいると絹枝がひそかに考え始めたことを、星羅は何も気づかなかった。




