15 宿場町
行く当てはないがとりあえず故郷に戻ってみようと晶鈴は、針路を北西に取った。背中を日光が押しているようで温かい。石で舗装された道は都から離れるといつの間にか硬い土の道になっている。まばらだった木々も増え風がしっとりしてきた。
「都は乾燥していたわね」
故郷の景色はどうだったか思い出せなかった。幼かった晶鈴には家畜に囲まれていた記憶しか残っていなかった。ロバの鼻面をなでながら「そうだ。名前をつけないと」と考え始める。
「えーっと何にしようかな。慶明がくれたロバだし――」
慶明のことを考えながら隆明を思い出す。
「そうだ。明々(ミンミン)にするわ。よろしくね、明々」
ロバの目をのぞき込むと明々は理解したのか「ホヒィ」と小さく鳴いた。
のんびり歩き、空腹を覚えたので荷台の上に乗って焼餅をかじった。ロバの明々も茂った草も顔を埋めて食べているようだ。
「もう少ししたら、宿場町があるから今日はそこで泊まろうかな」
北西の村まで歩きだとおよそ一ヵ月かかるだろう。馬だともっと早いがロバなので歩きと変わらない。急ぐことも目的もないので何も考えずに道を進む。
遠目でもわかる関所が見えてきた。行きかう人はまばらだが、商人が多そうだ。荷車に色々積んでいる人たちが多かった。空っぽの荷台を積んだロバと一緒に関所に向かう。小さな町なのだろう。門も町を取り囲む壁もそんなに高くはない。この高さを見ると周囲に危険な獣も部族もいないことがわかる。そもそも国家が統一され、周辺の部族たちもほぼ従属国となっているので危険なのは、人よりも自然の獣だった。獣もこちらがテリトリーを侵すことさえなければ牙をむくこともない。
通行手形を若い兵士に見せると「へえ!」と声をあげ、隣の恐らく彼より少し立場の上の者から「問題がないなら黙って通せ!」と叱られた。
「はっ! 通ってよろしい」
姿勢を正し兵士は晶鈴を通した。通行手形には『国家元占師 胡晶鈴』と書かれている。引退者としての身分表記だが、初めて見た若い兵士は珍しくて思わず声をあげてしまったようだ。胸元にしまって晶鈴は町の中に入った。都と違ってこじんまりとした様子だが、明るく活気があり見たことのない果物もあるようだ。色々味見しながらふらふらと宿を探す。市場の端っこにやってくると一人の男が荷車のまえで難しい顔をしているのが見えた。
「おじさん、どうしたの?」
男がよく自分に相談してきていた張秘書監に似ていたのでつい声をかけてしまった。
「ん? ああ、待ち合わせをしてるんだが相手が来なくてなあ。半日も待っているんだ」
晶鈴を追い返すことなく男はため息をついて答える。
「あら、半日も。それは大変」
袖口から晶鈴は流雲石の入った小袋をとりだし、つやつやした石を一つ選んでとりだした。刻み込まれた文字を眺めると晶鈴の頭の中にぼんやりと光景が浮かぶ。
「相手の方は反対の門で待っていると思うわよ」
「ええ? 反対? ちょ、ちょっとここでこの荷物見ててくれないか?」
「いいわ」
晶鈴の言葉を聞いて男は慌てて走っていった。
「ふふふ。やっぱり張秘書監に似てる」
あまり深く考えないが、善良で気の良い張秘書監は晶鈴が去ることを心から悲しんでくれた。図書を管理するものしか目にすることができない地図をこっそり模写して晶鈴にくれたのだ。
さっき買った豆をポリポリかじっていると、汗だくになった男が戻ってきた。
「娘さんの言うとおりだった! これから取引に行くが、どうだろう後でお礼をさせてくれないか」
「いいのよ。お礼なんて」
「まあ、まあそういわずに。とりあえずそこに宿をとっているから、後で落ち合おう」
髪を振り乱したまま、男は荷車を引いてまた急いで行ってしまった。
「まあ宿には泊まるんだけど」
ロバの明々を引いて宿屋に向かうことにした。
宿屋のまえに立っている若い男に部屋はあるか尋ねると、今はにぎわうシーズンではないらしく色々な部屋があると教えてくれた。
路銀に十分余裕があるが、贅沢をする気もないので個室で小さい静かな部屋を頼んだ。ロバを預けると若い男が案内してくれた。宿屋は二階建てで古い建物だが掃除が行き届き、柱などは磨かれて艶がある。階段も埃がたまることなくきれいだ。
こじんまりした寝台と小さな机だけがある部屋に通される。中からは木を扉に差し込んで閉めることができるが、外からのカギはないので貴重品を残して出かけないように言われた。
「ちょっと疲れたかな」
寝台にごろりと横たわる。平和なこの時代、旅は過酷なものではなくなり、女一人旅も珍しくなかった。今朝、別れた慶明と春衣には明日起きてももう会えないのだと思うと少し感傷的になってくる。初めて一人きりになったのだ。
のんきだった朝と夕暮れの今ではなんだか心持が変わってきてしまった。
「これが、寂しいという気持ちかしら……」
感傷に浸りそうなときに、一回の食堂から美味そうな肉のスープのにおいが漂ってきた。
「おなか減ってきちゃったな」
自分の気持ちに浸る前に空腹を覚え、寝台から起き上がると食事をしに一回へと降りていった。




