「この世には嘘しかない」なんてニヒリズムを気取ってみても
この小説の設定は、安保法案が成立したという前提の近未来です。
あの原発大国、フランスの原子力発電所運営は、今、経営危機に陥っているのだそうだ。原因は原発を安全に運用する為のコストが莫大過ぎて、どうにもならないから。だもんだから、国が原子力発電所事業を支援している訳だが、まぁ、それでもやっぱりコストがかかり過ぎるのか、それとも他にも理由があるのかは分からないが、フランスは原発を減らし続けている。
ここでちょっと疑問に思わないか?
フランスは安全性に関わるコスト増から原発の経営がピンチだ。なのに、日本の原子力運営は経営危機に陥ったりしてはいない。いったい、どうしてなのだろう?
まぁ、理由は単純だ。日本では原発の安全性を確保する為に、充分なコストをかけてはいないからだ。
だから、例えば、アメリカがやられたような航空機テロを日本で原発に対してやられたら、原発のある地域は一巻の終わりって訳だ。大惨事確定、万単位の人が死ぬ事態になり、最悪、原発から半径86キロ圏内では人は住めなくなるらしい。まぁ、大幅に国土を失ったのと同じ状態になる。もちろん、経済的にも大ダメージだから、原発が近くになくたって、この被害を国民全員が受ける事になる。
仮に日本全国で原発が稼働するようになって、複数同時多発テロを原発が受けたら、まぁ、日本社会は半壊する。本気で日本に住めなくなる事態だって考えないといけない。
(……もし、そうなったら、どこの国に逃げるべきだろう? まぁ、一応、僕は技術力で食っているもんだから、職は見つけ易いっちゃ易いかもしれない)
しかも、日本は「安保法制」で、アメリカに軍事協力しているから、アメリカに敵対している社会のほとんどが、日本を敵視するようになるだろう。そして、原発を狙えば、アメリカに協力している自民党政権を終わりにできる。テロの危険がありながら、原発を推進したその罪からは逃れられないからだ。その後、政権交代した他の政党は日本のアメリカへの軍事協力を止めるだろうから、テロリスト達には充分にその動機がある事になる。
つまり、かなーりやばい構図って事だ。
まるで、積極的に原発テロに誘い込んでいるようにすら思える。
そして、これだけの危険がありながら、日本の原発のテロ対策は脆弱なままな訳だ。福島原発事故を起こした当事国の日本が、なんとも呑気な話だと思う。……てか、本当によくこんな状態で再稼働に踏み切れたな。
さて。
もしも、これを読んでいる君が、この原発の脆弱性に対して、何も恐怖を感じなかったのなら気を付けた方が良い。君は何かしら問題を抱えているのかもしれない。
集団心理の陶酔か、原発に対する信心か、それとも根本的に恐怖心が麻痺しているのかは分からないが、本来恐怖を感じるべき事柄に対して恐怖を感じられないというのは大いに問題だ。それでは真っ当にリスク評価だってできない。
まぁ、人間が“盲信状態”に陥ると普通にそんな事になるみたいだから、それを異常というのは間違っているのかもしれないが。否、或いは人間なんて、みんな異常というのが正しいのかもしれない。
ただ、あれだ。なら、恐怖を感じさえすればそれで良いのかと言えば、それにもちょっと注意が必要だ。それはそれで人間の隙になる。
人間ってのは“不安”があると安心する為にその原因を知りたがるらしい。問題なのは、原因が簡単には探れなかった場合で、想像力でそれを補ってしまうのだ。そして、それが単なる想像だとは思えなくなって、現実だと信じ込んでしまう。陰謀論の類が生まれる原因の一つには、恐らくはそんな人間の性質があるのだろう。
原発に対してのそんな陰謀論の一つを、僕は最近になって見つけた。
『日米原子力協定によって、日本の原発はアメリカに支配されている。日本が脱原発できないのはアメリカの所為で、民主党が潰されたのも脱原発を進めようとしたからだ』
いやいやいやって感じ。
確かに日本の原子力政策に、アメリカは大きな影響力を持ってはいるのだろう。それに、日本が原発を維持製造すれば、アメリカの原発関連の企業やなんか(勘違いしている人も多いけど、日本は単独で原発を製造できる技術力は持っていない)に金が入るのも当たり前だから、日本に原発を維持して欲しい理由もある。ただ、それにしたって、アメリカに支配されているってのは言い過ぎだろう。
それに、普通に考えれば、民主党は自滅したようにしか見えない。どこに陰謀が入り込む余地があるんだ?(一部なら有り得るかもしれないけど)。そもそも、民主党は脱原発をそんなに熱心に進めていたか?
この陰謀論が間違っている証拠を、僕は直ぐに思い付いた。それは“小泉元首相が、反原発派になったこと”だ。
小泉元首相は、現役時代、それはもう驚くくらいの親米派だったし原発推進派でもあった。日米原子力協定だって知っているだろう。ならば、当然、そこまでアメリカの支配力が強かったのなら知っていなくちゃおかしい。
ところが、その小泉元首相が反原発派になったんだ。しかも、首相が本気になって脱原発をやればできるとまで言い切っている。なら、「日本が脱原発できないのはアメリカの所為」なんて本当であるとは思えない。
「――そう、あなたは信じたい訳ね」
ところが、僕のその意見に対し、キミコという占い師をやっている女は、そんな事を言うのだった。
それは彼女が僕の家に遊びに来ていた時の事で、彼女は僕のパソコンでネットサーフィンを楽しんでいた。今は僕のブックマークから適当にピックアップして、そのサイトの記事の内容を読んでいる。
因みに、キミコと僕はただの友達で、いわゆる男女の関係は一切ない。
「なんだよ、それ。僕の考えに何か間違いがあるってのか?」
僕は不機嫌になってそう尋ねた。するとキミコはこう返して来た。
「別に間違いなんてないのじゃない? でも、正しくもないわよ、飯野君。つまりは、そういう“信念”って事でしょ」
あ、書き忘れていたけど、僕の名前は“飯野”という。
「なんだ、そりゃ?」
「だって、民主党は本当に陰謀の犠牲になったのかもしれないし、小泉元首相はその話知らなかったのかもしれないじゃない。あなたはそれをどうやって確かめたの?」
「いや、だって、そんなの考え難いだろうが」
「考え難いってだけで、可能性はゼロじゃないわ」
「いやいや、そんなの疑い始めたら切りがないって」
「そうね。切りがない。だから、これは一体、どこで疑うのを止めるのか。逆に言えば、“何を信じるのか”って話なのよ」
「なんだって?」
「だからね……」
……キリスト教の聖書を信じる人間達が、男女平等を議論すると「初めの女性“イヴ”は、初めの男性“アダム”の肋骨から作られた。つまり、男性から作られた。だから、女性は男性よりも下等だ」なんて話が出てくる。もちろん、それに対しての反論もある訳だが、この議論はキリスト教の聖書を信じない人間達から観れば、物凄く馬鹿馬鹿しい議論に思えるだろう。しかし、キリスト教の聖書を信じる人間達は、そうは思っていない。
他の事もこれと同じで、“それ”を信じる当人にはそれが当然に思える。だけど、そう思えるのは途中で疑うのを止めてしまっているだけの話であって、本当にそれが当然なのかどうかは分からない。疑い始めたら切りがないから、どこかで“信じている”だけ。僕が陰謀論を馬鹿馬鹿しく感じるのも、一つの信念を信じているからに過ぎない。
どうもキミコはそんな事が言いたいらしかった。
「あなたは社会の常識を信じているわ。そしてそれに基づいて、“陰謀論なんて有り得ない”と馬鹿にしている。
だけど、本当にそう?
オウム真理教の地下鉄サリン事件だって、起こる前に聞いたら、きっと馬鹿にしていたわ。北朝鮮の拉致事件だってそう。実際、噂はあったみたいだけど、荒唐無稽だと思われて相手にされていなかったらしいし。
常識なんて、いつ覆るのか分かったもんじゃない。マスコミが誤報をやるのだってけっこう多いでしょう? “事実は小説より奇なり”よ。そして、実際にそんなケースがある以上は、陰謀論だって完全に否定はできない。もちろん、正しいと認めるのも間違っているのだけどね」
僕はそれを聞くと、こう返した。
「でも、確率的に考えれば、より“確からしい”って事はあるだろう?」
キミコは笑う。
「こういう話って、どうやって確率を求めれば良いの? 果たして確率を求められるような類の事なのかしら?
これって、科学でも似たような事が議論されているらしいわよ。その実験を正しいと認める為には、実験器具が適切な結果を出せるかどうかの検証をしなくてはならない。ところが、その実験器具が適切な物だと認められても、その実験器具の実験をやった実験器具の正しさを確かめなくてはならない。更にそれで正しいと認められても…
って感じで永遠に疑えちゃうのよね。だから、何処かで疑うのを止めて“信じる”しかなくなる。つまりは科学ですら本質的にはただの信念系って訳よ」
そうキミコが語り終えたところで、偶然、彼女が見ていたパソコン画面が僕の視界に入った。それで僕はこう言う。
「なるほどね。まぁ、言いたい事は分かったよ。だが、それでも、今、君がパソコンで読んでいる陰謀論は嘘だって僕は思うぜ」
「なんでよ?」とキミコ。
僕はこう答える。
「その陰謀論を書いたのが、僕だからだ」
「は?」
とそれを聞いて、キミコは目を丸くする。
『アメリカに敵対するテロリスト達は、「安保法制」によって日本がアメリカに協力する事を快く思ってはいない。何とかして止めさせたいはずだ。
ところが日本の政党で、アメリカに積極的に協力しようとしているのは自民党だけだ。つまり、自民党さえ倒してしまえば、アメリカへの協力を終わらせられる。
そして、原発テロを起こせば、それができる。何故なら、テロに対して極めて脆弱なまま原発を推進したのは自民党だからだ。もし、原発がテロの被害に遭えば、その責任からは逃れられない。
だからテロリスト達が、原発を狙う確率はかなり高いと言える。
つまり、今のこの構図は、原発テロを積極的に誘い込んでいるようなものだ。
そして実は、これは意図的に企まれたものなのだ。
ある組織が、日本を陥れる為に、仕組んだ陰謀なのだ。
嘘だと思うなら、テロに対して戦いを挑もうとしているのに、どうして自民党がテロ対策をほとんどしていないのか、説明してみてくれ………』
キミコが読んでいる記事には、そんな事が書かれてあった。
「まぁ、普通に考えれば、テロ対策をしちゃうとテロの脅威を認めているようなものだから、だろうな。そうなれば、国民が更に安保法制に反発するのは目に見えているから。
つまり、リスクがあるのは分かっているのに、敢えて自民党はスルーしているんだ。ま、もし大きなテロの被害があったら、その分、支持率を下げる事になる訳だけど。
こう考えると、ギャンブラーだよな、自民党は。考えてみれば、2014年の選挙も勝負師って感じだったし」
そう言い終えた後で、僕は自民党がカジノをやりたがっている事を思い出した。ひょっとしたら、本当にギャンブルが好きなのかもしれない。
「呆れた。皆が自分の嘘を信じるのを面白がっているんだ、飯野君は」
そうキミコが言った。
「いやぁ、面白半分でやってみたら、意外に信じる人が多くてさ。びっくりしている。悪意はなかったんだ。本当だぜ」
「それ、ネット上で悪戯をやって失敗をした人が言う常套句よね?」
「悪戯とは酷いな。まぁ、悪戯だけど。でも、これでも一応、問題提起になればと思ってやった事でもあるんだぜ。
その書き込みのお蔭で、テロ対策への意識が生まれて、日本を護れるのなら、有意義な事じゃないか」
「日本を護れるねぇ」
キミコはそれからパソコン画面を見やる。僕の書き込みへのたくさんのレスポンスを眺めているようだ。馬鹿にされたように思ったが、何故か不快には感じなかった僕は、それからキミコにこう尋ねてみた。
「実際のところ、日本の原発がテロの被害に遭う可能性ってどれくらいのもんなんだろうな?」
「何を言っているのよ。確率なんて求められる類の事じゃないでしょう?」
「いや、君は占い師だろう? 占ってくれよ」
「見料、取るわよ」
「勘弁してくれ」
その後でキミコは少し考えると口を開いた。
「そうね。核と日本の相性は、とても悪いとみてまず間違いないでしょうね。日本の固着の信仰は自然崇拝。神道なんかは思いっ切りそれだしね。だから神道の霊を祀りながら、原発を推進する事は神への冒涜にも等しい。そして、日本の政治家達はそれをやってしまっている。神様達は怒っているわよ。
世界で起こった最悪級の核の被害は、“広島、長崎”の原爆と“チェルノブイリ、スリーマイル、福島”の原発事故。なんと五分の三が日本で起こっている。これは核との相性が悪いからでしょうね。日本は核には手を出さない方が無難だわ」
それを聞くと僕は笑う。
「ははっ その神道がどうのとか相性が悪いってのとか、最悪級の核の被害の五分の三が日本で起こっているって事から逆に考えただろう?」
「当たり。
だって、あなた、占ってくれって言ったじゃない。占いなんて話術でその人を気持ち良くさせるのがほとんどなんだから、客が聞きたがっている事を、そのまま言うものなのよ」
「つまり、僕が日本と原発の相性が悪いと思いたがっているようだったから、そう思わせるようなてきとーな理屈を喋ったって事か」
「まぁ、そうね。
でも、実際に相性は悪いと思うわよ。世界有数の地震国で災害に遭う確率が高い上に、ウラン資源がないから、稼働させる為には海外から高騰しているウランを輸入し続けなくちゃならない。しかも、国土が狭いから原発のある場所は人の住んでいる地域にも近いし、もし航空機テロで原発を狙われたら対応が間に合わない可能性が大きい。かなーり、スリリングよね」
「占いでも何でもなくなったな」
「でも、あなたにはこういうのの方が良いでしょう?」
「まぁね」
そう言ってから、“本当に、日本が大きな原発絡みの災害に遭う可能性はどれくらい大きいのだろう?”とそんな事を僕は思った。キミコに言わせれば、僕が原発のリスクを高く評価しているのも、ただの“信心”という事になるのだろうか?
それで疑ってみようと僕は思った訳だが、リスクが高くないって材料をどう見つければ良いのかすら分からなくて止めた。
……世界の情勢は変わった。もう、世界は安全な場所ではなくなってしまった。そう、安保法制賛成派は言う。
なら、原発テロだって充分に起こり得るはずじゃないか。世界が危険な場所になったのに、どうして日本国内だけは安全なんだ? 普通に考えれば、こういうのを“平和ボケ”っていうのじゃないか?
ドラッグストアで、買い物をした。ちょっと思い付いて、色々な製品の製造元の国を見てみたら、中国製が矢鱈に多かった。まぁ、予想通りだ。全部ではなくても、部品の一部が中国製だったり、中国を経由したりって商品も多いだろう。チャイナリスクだ、脱中国だと言われているが、なんだかんだで中国と日本の経済は、もう密接に深いところで絡み合っている。経済では、ほとんど同化していると言っても良い。
まぁ、こんな事実を鑑みて、僕は思わず疑問に思ってしまう訳だ。
“一体、どうやったら、同化しているとまで言える程に深く結びついた日本と中国とで戦争ができるのだろう?”
戦争するには戦争をするだけの理由が必要だ。日本と戦争をして、その損失よりも利益の方が大きければ、中国には戦争するだけの価値がある事になる。
そう考えた場合、中国に本当に日本と戦争をするだけの理由があるのだろうか?
「まぁ、ないとしか思えないんだよなぁ」
僕は思わずドラッグストアに整然と並べられてある商品群を見渡しながら、そう独り言を言った。
全面戦争はもちろん、尖閣諸島を奪い合う局所的戦争だって、恐らくは中国にとって損の方が遥かに大きい。衰退しつつあると言っても、未だに日本の経済力は巨大だし、まぁ、尖閣諸島に膨大な資源が埋まっているという話はどうやら誤情報だったらしいから。
もし無理矢理に戦争をしたら、双方、凄まじい経済被害を受ける事になる。もしかしたら、開戦した途端に、あまりの経済被害の大きさに仰天して、瞬く間に停戦なんて馬鹿みたいな展開だって有り得るかもしれない。
中国が狙っているとすれば、本当に資源が埋まっているスプラトリー諸島だろうけど、それだって何処かの国と全面戦争なんて事態は避けながら、巧妙に脅し取るようなやり方をするつもなりなのじゃないだろうか?
まぁ、分からんけど。
その場合、果たして「安保法制」は役に立つのだろうか? 正直に言えば、僕は「安保法制」の対中国政策としての役割を疑っている。安保法制の日本にとってのメリットは、実は対中国じゃなくて、アメリカと共に軍事活動する事それ自体にあるのじゃないだろうか? つまり自民党は実質的な軍事力を手に入れたがっているだけなのだ。
安倍首相はアメリカに向けて、安保法制の成立をアピールしまくった訳だし、普通に考えるのならそう思うだろう。アメリカは軍事費の不足に苦しんでいるし。
実際、中国は安保法制の成立にそれほど大きな反応をしなかった。もし、仮に、安保法制が中国にとってそれだけ脅威なら、もっと邪魔して来ると思うのだが……。
もし、対中国の為というのが嘘なら、軍事力に興味なんてない人にとってみれば、安保法制は、軍事費の増大やテロリスクの増大といったデメリットがある分だけ損という事になる。
もちろん、これは憶測だ。憶測だが、これを否定するだけの根拠を僕は持たない。……って、まぁ、こういう話を考え出したら切りがない訳だが。キミコが言うように。
いやいや、陰謀論じゃないが、何を信じればいいのやら。
――しかし、
なら、僕が安保法制に完全に反対なのかと言えば、ちょっと違う。「反対したいけど、反対し切れない」というのが正直なところだ。
なんでかって?
それは「中国が利益を度外視して暴走した場合のリスクが大き過ぎるから」だよ。
中国に正常な判断力があるのなら、損の方が大きい戦争はしないだろう。が、暴走したらそんな理屈は通用しない。自国の経済がボロボロになっても戦争をするかもしれない。その場合、迅速な対応が求められる。もしかしたら、安保法制が必要になるかもしれない。
まぁ、分からんけど。
もちろん、反対し切れない理由はそれだけじゃない。
テロリスクは充分にテロ対策さえすれば、減らす事ができるんだ。完全に防ぐ事はできないだろうが、でも、少なくとも原発なんかの重要機関に的を絞るのは有効だろう。それをやってくれるのなら、デメリットが下がって反対する理由が少なくなる。
……もっとも、自民党は今のところ、そんな行動を見せてはいないが。
「更に言っちゃうと、これって“安保法制”だけの問題じゃないんだよな……」
ドラッグストアで買い物を済ませた僕は、外に出るとそう呟いた。
空が馬鹿みたいに青かった。綺麗だとは思ったが、それだけにそれは僕には皮肉に思えた。
“人間なんて、みんな異常。あいつもあの子もこの僕も。だから、全てを忘れて、放っておこうか”
それが一番楽に思えた。
まぁ、忘れてはいないが、今だってほぼ放っておいているのだが。
僕は。
その日、家に帰ると見知らぬ少女が玄関の前に立っていた。どう見てもまだ十代で、痩せているし背も低かった。顔色が悪く、健康状態も悪そうだ。不格好なオカッパ頭が、その病的な感じを演出していた。これで外見が可愛かったなら、何かを期待しないでもないが、生憎、それほど可愛くはなかった。もっとも、生理的に嫌悪感を覚える程でもない。ただし、表情がどことなく不自然で、堅いというか、なんというか、わざと目を剥いているような感じがして、それに僕は悪い予感を覚えた。
きっと、何かの勘違いか、偶然、僕の家の前で誰か他の人を待っているのだろう。そう思い込もうとした。
が、僕がその子を無視して、鍵を取り出してドアを開けようとすると、そこでその子はこう話しかけて来たのだった。
「お前が、我が組織の秘密を知った男か」
冗談か何かだと思いたかった。しかし、その子の目はマジだった。
「は?」
僕がそう返すと、その子はこう言う。
「知らない振りをして誤魔化しても無駄だ。お前が、我が組織の秘密をネットに書き込んだ事は分かっている。そんな妨害活動など、無意味だと分からせてやる」
「いや、何の事だか分からないんだけどな」
「だから、誤魔化しても無駄だ。お前が我が組織の陰謀を明るみにした事は分かっているのだ。どうやって我が組織の秘密を手に入れたのかは知らないがな」
「陰謀だぁ?」
それからしばらく話をして、ようやく僕はその子が言っているのが、例の“原発テロ陰謀論”の事だと気が付いた。
まぁ、早い話が、この子は自分は日本に原発テロを誘発しようとしている組織の一員で、それを僕が邪魔するのを防ぐためにここに来たと主張しているのだ。
僕は話しているうちに、その子が笑い出すのを期待した。それがただの悪戯で、僕をからかっていただけだという結末を。しかし、その子が悪ふざけだと打ち明けそうな兆候はまったくなかった。
“こりゃ、マジもんだ……”
そう思うと頭を抱えた。まっとうに相手なんかしていられない。僕はそれから逃げるように家の中に入ると鍵をかけた。しばらく放っておけば消えてくれると思ったのだ。ところが彼女は消えなかった。家の前にいつまでもいる。それどころか、大声で「出て来い!」とか「我らの邪魔をしても無駄だ!」とか「家に火をつけてやる!」とか喚き始めた。
近所迷惑になるし、本当に火をつけられたら堪らない。いや、言葉だけでも充分に脅迫罪だ。近所の人が通報して、警察が来たら色々と面倒そうだ。それで僕は、どうせ駄目で元々だと説得を試みようと考えた。チェーンをつけた上で、ドアを開けて話しかける。
「静かにしてくれ。近所迷惑になるだろうが。悪いけど、君の言っている事が、僕には何の事だ分からないんだよ。日本に原発テロを誘発しようなんて組織は存在していない。もし、本当にいるのなら、君以外のメンバーをここに連れて来てくれ」
すると、その子はこう言う。
「他のメンバーはいない」
「他のメンバーはいない?」
つまり、たった一人。それはまた斬新な“組織”もあったもんだ。その子の顔は、初めに見た時よりも怖い顔になっていた。怒りの形相を、そのまま凝固剤で固めたような。絶対に異常だ。
やれやれ、本当に勘弁して欲しい。
その子は続ける。
「正確には、人間のメンバーはいない。我々は超霊的な組織で、人間のメンバーはワタシ一人だけだ。ワタシはいわば、人間との連絡を取る為のインターフェースなのだ」
淡々と言い終えた。なんか色々と設定が凝って来た。僕は呆れながらも、少しそれを面白く感じ始めた。
で、思わずこう尋ねる。
「“超霊的な存在?” その超霊的な存在とやらは、どうして日本に原発テロを起こそうとしているんだ?」
「超霊的な存在は、この日本に存在している霊の集合体だ。本来、日本の霊は自然霊。しかし、人間はその自然を蹂躙して来た。もう、自然霊は人間の行為を許容できない。だから、この島から追い出そうと考えたのだ」
「ああ。つまり、それは神道の霊なのかな?」
ところが僕がそう言うと、その子は怒り始めてしまったのだった。
「“神道”などという名で呼ぶな! 神道はただ日本の信仰を馬鹿にした言葉だ!」
「は?」
「中国の道教では、鬼道、神道、真道、聖道と宗教は進化すると考えられた。つまり、日本の信仰を見て、まだ充分に進化していない宗教という意味で、神道と呼んだのだ。だからそれは本来、侮蔑の言葉なのだ。そんな言葉など使って堪るか」
僕はその説明を聞いてキミコを思い出した。どうもあいつが言いそうな薀蓄だ。そもそも、どうしてこの子は僕があの原発テロの陰謀論を書き込んだと知っているんだ? 僕があの話をしたのはキミコだけだ。
僕はそう思ってからようやく気が付いた。自分を馬鹿だとそう思う。
“そうだ。どうして、僕はそれに気付かなかったんだ? あいつが裏で糸を引いていると考えるのが普通だろう。あの話を知っているのはあいつだけなんだから”
それから僕は「ちょっと待ってろ」とそう言うと、家の中に戻って携帯電話でキミコに電話をかけた。あいつは直ぐに出た。
「やっほー、どうしたのかな? 飯野君」
「“やっほー”じゃないよ。今、うちに変な女が来ているんだよ。お前の仕業だろう?」
「変な女? ああ、もしかしたらあの子かな? アハハハ! 本当に行っちゃったんだ。うける!」
「うけないでくれよ!頼むから。なんて事をしてくれたんだ? なんか“原発テロの邪魔をするな”とか、そんな事を僕に言って来るんだよ。ずっと、家の前にいるし」
「わたしの客で来た時は、そんな事は言ってなかったけどな。妄想が短時間で進化したのかしらね? 凄いわ」
「呑気に言ってんな。てか、個人情報をあっさり漏えいさせてんなよ」
「まぁ、怒らないでよ。わたしだって被害者なんだから。その子、見料を払ってくれなかったのよ? 占い損だわよ」
「それ、僕はまったく関係ないよな?」
結局、情報漏えいの犯人が分かっただけで、何の解決にもならない。
「警察に通報すれば良いのじゃないの?」
キミコは軽くそんな事を言った。
「いや、警察は色々と面倒だろう?」
「面倒? ああ、ネットに悪戯書き込みしたのがバレるのを怖がっているんだ。そんなの平気だって、知らぬ存ぜぬで通せば。意外に恐がりよね、飯野君は」
誰の所為でこんな目に遭っていると思っているんだと、僕は彼女が個人情報を漏えいさせた事を警察に言ってやろうかと少し考えた。まぁ、それも面倒そうだからやらないけど。
しかし、それから僕は、このままでは埒が明かないと警察に通報してみる事にした。まぁ、もしバレても少し怒られる程度だろうし。キミコとの電話を終えると、僕はそのまま警察に電話をかける。警官は始めは面倒臭そうにしていたが、「火をつけると脅された」と言うと、急に態度を変えた。直ぐに来てくれると言う。
僕は警察を少し見直した。
が、
「……あー、難しいですな」
それから直ぐに来てくれた警官は、彼女を見るなり、また急に態度を変えたのだった。どうも彼女の外見で、危険はないと判断したようだ。
その警官は人の好さそうな中年で、事情を話すと一応は彼女に注意をしてくれたが、随分とやさしい口調だった。多分、彼女が明らかに警官の登場に怯えていたからだろう。少し観察眼があるのなら、彼女の表情のおかしさに気付けると思うのだが。こいつ、やる気ないのじゃないか?
「強制的に病院へ連れて行くのも、入院させるのも人権がありますからな。身内がやるにしたって裁判所で手続きを取らなくちゃならない。それは、事後で構わないのですが。いずれにしろ我々には無理です」
僕はそれに抗議するように言う。
「でも、この子、おかしいだけじゃなくて、助けが必要っぽいでしょう? 引き取って保護してくださいよ。いや、そもそも捜索願が出ているかもしれない」
「保護って言っても、本人が拒絶するんならやっぱり難しいんですわ。まぁ、捜索願の方はあるかどうか調べてみますけどね」
警官の対応は、それでお終いだった。面倒な仕事を増やさないでくれと言わんばかりに、さっさと引き上げてしまう。そして警官が去ると、彼女は僕を睨みつけて来た。動こうとしない。つまり、何の解決にもならなかったのだ。
さて、どうしたもんか?
相変わらず、血走った目で彼女は僕を見ている。痩せ細っている事も手伝って、鬼気迫るものがあった。
そこで僕は自分の腹が減っている事に気が付いた。考えてみれば、夕食の時間をとっくに過ぎている。まずは腹ごしらえをするべきかもしれない。そして、その時にふとこう思ったのだ。
“もしかして、この女も、腹を空かしているのじゃないか?”
キミコに見料を払わなかったらしいから、きっと金は持っていないのだろう。こんなに痩せ細っているのは、ずっと満足に食べていない所為なのかもしれない。
“……食ったら、少しはマシになるかもな”
そう考えた僕は、この女に夕食を食べさせてみる事に決めたのだった。
どうしようかと思ったが、家の中に上げてしまった。仮に襲われても、力では負ける気はしない。むしろ、世間的には襲うのは僕の方だろう。いや、襲わないけど。
チャーハンを作って「食べろ」と言うと、不思議そうな顔を見せはしたが、直ぐに彼女は食べ始めた。一口食べると、凄い勢いで食べ出して、最後には一緒に出してやった麦茶を一気に飲んだ。そして「ほぉ」とそう息を吐き出すように言う。
僕はそれを見て、昔、小鳥を預かった時の事を思い出した。犬や猫は可愛いと思うが、それまで小鳥を可愛いと思った事はなかったけれど、僕がやった餌を美味しそうに食べるのを見て、僕は小鳥を可愛いと思ってしまったのだ。何かが自分の作った飯を、美味そうに平らげるのを見るのは悪い気はしない。
飯を食い終えて、腹を膨れさせると、彼女は思った通り大人しくなった。もう僕を睨みつけてもこない。
“現金なものだな”と僕は思う。
「さて、食べさせてやったんだから、もう出て行けよ」
もう大丈夫だろうと僕がそう言うと、彼女はこう返して来た。
「いや、それはできない。あなたが、我々の邪魔をするかもしれないから」
「は?」
態度が大人しくなっただけで、言う事は変わっていない。僕はそれを受けると、頬を引きつらせながらこう訊いた。
「お前、まさかここに居つくつもりか?」
淡々と彼女はこう返す。
「あなたを監視しないといけない」
どうやらマジなようだ。
僕は冗談じゃないと、それから直ぐに彼女を無理矢理家の外に追い出した。ところが追い出すと、やはり前と同じ様に家の前で大声を上げる。警察を呼んでも無意味なのはさっき学習した。病院だって引き取ってはくれないだろう。僕は仕方ないと彼女を家に入れた。家に入れておけば、取り敢えずは大人しくなるからだ。対策は後から考えるしかない。
彼女は身体が少し臭かった。多分、ずっと風呂に入っていないのだろう。家の中に一緒にいる人間が臭いんじゃ堪らない。近くで下着と安い服を買うと、僕は風呂に入って来いと彼女に言った。彼女は特に反発もせずに、大人しく風呂に入った。
彼女は自分の名を名乗らなかった。名前がないと不便なので、僕は彼女に“ハナコ”と名付けた。深い意味はない。匿名希望に近いニュアンスでそう名付けただけだ。
“もしかしたら、懐かれてしまったのか?”
風呂から上がって、僕の買って来た服を着て居間で寛いでいるハナコを見て僕はそう思った。それから嫌な想像をしてしまった。
“もし、僕の家で楽をする為に彼女が演技をしているのだとしたら、どうする?”
もっとも、本気でそう考えた訳じゃない。いくら何でも演技には思えなかったからだ。だが、彼女が佯狂であろうがどうであろうが、彼女が得た利益は同じだ。つまり、結果だけを観れば同じだ。そして、異常か正常かを判断したのは飽くまで僕。キミコの言葉を借りるのなら、僕が信念に基づいて判断しただけだ。
それを信じ込んでしまっている僕は、そこで疑うのを止めた。
……世間には、統合失調症でありながら、偶然、それが明るみにならないで過ごしている人間もいるらしい。
この場合、世間は本当は異常な人間を、正常だと判断している事になる。これは病気だけに限らない。僕らが当たり前だと思っている事とはまったく別の価値観を有している人間が普通に生活している世の中だ。一体、何が異常で何が正常だと言えるのだろう?
こう考えると、異常と正常の線引きを何処でどう引けば良いのか分からなくなってくる。そんなもの、ないような気がしてくる。
どう判断しようと、それは誰かがそう思い込んでいるだけのもの。
実はそれだけじゃないのか?
便宜的に必要だから、あると思い込んでいるだけで……。
そう思ったその時、ふと目をやると、テレビで、安保法制に関するニュースが流れていた。
価値観。
信念の差。
普通の人は、多分、平穏無事に日常生活が送れることに価値を置いているのだろう。そして“安保法制”の議論においては、それを脅かす存在として、中国を念頭に置いている。多分、世間一般ではその認識のはずだ。
その中国を抑えるのに最も効果を発揮するのは“軍事力”ではなく“経済力”だ。北風と太陽の寓話じゃないが、軍事力をアピールし過ぎると、“反日”で中国は却ってその体勢を強固にしてしまうかもしれない。だが、経済力は中国の心臓部にそのまま影響を与える事ができる。
が、もしも、政治家達が、そんな事を望んでいなかったのなら? 彼らは僕らとは全く別の価値観を有しているのだ。平穏無事な日常生活など望んでいない。
そして、その別の価値観の為に、敵国としての中国を必要とし、それ故に経済的アプローチから、中国を抑える事をしない……、つもり、かもしれない。
まぁ、これは単なる憶測だ。陰謀論の類だと馬鹿にしてくれて構わない。
だが、ちょっと気になる事もある。一般の認識とはかけ離れた価値観を持っているとしか思えないある自民党議員の主張がニュースになった事があったのだ。
その自民党議員は、戦争に反対する若者を“利己的”と述べ、そればかりか民主主義の根本を否定する発言すらもした。どうも彼は“国民は国家の為に滅私奉公するのが美しい理想の姿だ”と思っているらしい。少なくともテレビのニュースの内容を、そのまま信じるのならそうとしか思えない(一応断っておくと、この議員は金銭トラブルが原因で、後に自民党を離党している)。
まぁ、僕なんかはそのニュースを聞いて心の底から怖くなった訳だ。
彼の考えは、そのまま全体主義だ。全体主義というのは、全体の為に個人が尽くすのが理想という考え方のこと。一見は、正しいように思えるかもしれない。ところが、ちょっと深く考えれば、直ぐにこの考え方には、おかしな点があると気付ける。
国民が奉仕すべき“国家”とは、果たして何なのか? 国家とは普通に考えれば国民そのものだ。なら、国民の為に国民が奉仕するのが理想という事になる。これなら、全体主義は民主主義とそう変わらないかもしれない。しかし、全体主義者が言う“国家”とは、どうも国民の事ではないらしい。簡単に言ってしまえば、権力者達の事だ。“権力者達の為に国民が奉仕する社会が理想だ”と、まぁ、だから、非常に簡単に言ってしまえば、全体主義はそう主張しているのと同じ事になる。
これはもちろん権力者達にとって都合が良い。彼らがそれを望むのは当たり前だ。
僕はある安保法制賛成者の主張を読んだのだが、その彼は“政治家は国の為に行動する”という前提を何の疑いもなく置いていた。嘘や数々の誤魔化しや不正を何度となく繰り返して来た政治家達をここまで信じられるのは、とってもピュアだとそうは思うが、流石にそんな甘過ぎる現実の捉え方には賛同できない。権力者達の夢は、ぶっちゃけ、“国民を奴隷にする事”だと、人間の歴史を観ればそう言えるからだ。
もちろん、中には本当に誠実な政治家もいる事はいるのだろう。だが、そんな稀有な存在には期待するべきじゃない。そもそも、そういった誠実な政治家は、誠実であるが故に実力者にはなり難い。悪い事をした方が、権力を手に入れ易いのなら、当然、悪い事をやる政治家が力を持つからだ。これには“権力の集中問題”も絡んで来る。
権力の集中問題。
ルールを決定する力を持った者が、何か自分達にとって都合が良いルールを敷いたとしよう。すると、そのルール決定者は、更に富と力を手に入れられるだろう。そうすれば、ルール決定者は、益々、自分達にとって都合が良いルールを作ろうとするだろう。これを繰り返す事で、瞬く間に“権力”が一部の者達に集中してしまう(これは、言い換えるのなら、“権力”には、“正のフィードバック”の性質があるという事だ)。
そして、これが起こると、専制政治や独裁政治のような体制に、瞬く間に社会は陥ってしまう。
民主主義という社会制度の役割の一つは、これを防ぐ事にある。また、憲法の役割の一つもこれだ。これらは数々の歴史上の失敗から学び、人間社会が手に入れたとても重要な機能だと言える。
だから、これらを否定するような行為には注意しなくちゃならない。油断していると、権力が一部に集中し、国民は恐怖政治や圧政に苦しむ事になる。
そして、昨今の自民党は、民主主義の選挙制度の穴を巧妙に突いたやり方をしているし、憲法だって無視をしている。更に加えて、先ほど述べた自民党議員の一人が、(後に金銭トラブルで離党したとはいえ)どう考えても全体主義者としか思えない発言をした訳だ。
これじゃ、不安を覚えない方がどうかしているだろう?
だからつまり「安保法制」は、安保法制だけが問題じゃないんだ。安保法制だけなら、僕の意見は「反対したいけれど、反対し切れない」だ。が、昨今の自民党政権はどう控えめに言っても、抑止力が必要とされる状態だ。
ネットで自民党政権を支持している人間達の多くは、すっかり盲信状態になってしまっているようで、仮に自民党が明らかに間違っている政策を執っても批判しそうにない。これじゃ、安全弁にはなってくれそうにない。
キミコが言うように、何処かで疑うのをやめなくちゃいけないのだとしても、程度の差ってものはあるだろう。少しも疑わないで、どうやって“それ”の正しさを確かめられるって言うんだ?
「安保法制」という自民党政権への逆風を利用して、少しでも抑止力を強めて欲しいと願ってしまうのは、もしかしたら、筋から言えば間違っているのかもしれない。が、それでも僕はそれを願ってしまう。
……ハナコは、なんだかんだで僕の家に居ついてしまった。特に何をするでもなく、一日中家の中にいるようだ。僕が仕事中に彼女が何をやっているのかは分からないが、家の中の様子を見る限りでは、特に問題のある行動を執っているようには思えない。
因みに、ハナコは部屋の掃除も洗濯も料理も家事の一切をやらない。
まぁ、それが問題行動と言えば、問題行動か。
一人で生活している間は、慣れてしまった所為か特に気にしていなかったのだが、家の中に誰かがいるってだけで、意外に孤独感ってのは癒えるものらしい。本当を言うと、自分が孤独を感じている事すら僕は自覚していなかったのだが、彼女と生活するようになってそれに気付かされた。
ハナコが気を遣わなくて良い相手だという事も良かったのかもしれない。
衣食住さえ提供してやれば、彼女は何も文句を言わない。放っておいても構わないのだ。一度、女の子なら服には拘りがあるのじゃないかと思って、量販店に連れて行ったのだが、酷く面倒くさそうにしていた。どうも、僕がてきとーに選んだ服で充分なようだ。下着だけは僕が買うのは気まずいので、彼女自身にまとめ買いさせたが、後の服はほとんど僕が選んだ安物だ。
ま、正直に言うのなら、彼女を煩わしく思った事もあるにはある。特にいくら彼女が病気だと言っても、ずっと怠けているのには納得がいかない。「少しくらいは家事をしろ」と文句を言いたくもなったし、実際に言った事もある。彼女は自分の食べた食器を台所に運ぶ事すらしないのだ。まぁ、しかし、それもそのうちに慣れてしまったのだが。
一応断っておくが、ハナコと男女の仲になるような事はなかった。分かってくれると思うのだが、僕はハナコから異性を感じない(ハナコを女性として相手にするなんて、想像すらもできない)。そしてハナコも僕を異性として意識していないみたいだった。恐らくは、お互い、一緒に生活する謎の生物がいるといったような認識でいるのじゃないかと思う。
一緒に生活するようになって、ハナコは原発テロの話をしなくなった。一度、僕がパソコンで動画を見ていたら傍に寄って来たので、例の監視とやらをするつもりなのかと思ったのだが、一緒になって動画を見始めただけだった。僕がパソコンで何をやろうと特に気にしている素振りはない。
なんだかな?と思ったので、ある日、食事の途中に、安保法制の話を振ってみたのだが、理解しているのかいないのか、首を軽く傾げただけで何も応えなかった。まさか、原発テロと安保法制の関係を分かっていないとは思えないが、少なくとも彼女がこの件について無関心である事だけは確かに思えた。
きっと、もうあの“自分が原発テロを誘発しようとしている組織の一員”という妄想には既に飽きてしまったのだろう。いや、あれは空腹状態の所為で浮かんで来た妄想で、だから僕との生活で“食”が安定したことで、すっかり消えてしまったのかもしれない。
まぁ、いずれにしろ、それは僕にとってありがたい話だった。後は、これからじっくりとハナコの本当の身内を探すだけだ。流石にいつまでもこのままって訳にもいかないだろうし。
警察にはあれからも何度か連絡を取った。ハナコを僕のところで預かっている旨を伝えて、早く身内を見つけてくれと頼んでいるのだが、返事は芳しくない。
「もしかしたら、その子は捨てられたのかもしれませんな」
などど、受話器の向こうで、そんな酷い事も言う。
「そんな事ってあるものなんですか?」
「今は、どんどん子育て世代の貧困率も上がっていますから、そういう事例も考えられますよ。もしかしたら、その子の身内には、病院へ連れて行く金も暇もないのかもしれないじゃないですか。それで追い出されたのだったら、身内が自ら名乗り出るとは思えませんな」
僕はそれを聞いてハナコを見てみた。ハナコは居間のソファに寝転がって、おやつのポテチなどを食べている。僕の視線に気付くと「なに」と一言だけ言った。僕はそれに何も返さなかった。
確かに、もし貧乏でこんな家事も何もしない大きな子供がいたら、追い出したくもなるかもしれない。僕はちゃんと飯を用意しているから平気なだけで、もしかしたら、空腹になったら問題を起こすのかもしれないし。
それは飽くまで想像からの憶測である訳だが、僕はハナコ自身にもハナコの元身内にも同情をした。
そして、全然まったく道理ではない事は分かっていながら、それでも、生活に余裕のある僕が、彼女の面倒を見るくらいの負担を引き受けても良いような気にもなったのだった。
まぁ、望みが少ない事は分かっているが、それでも統合失調症が自然に治る事だって有り得る訳だし。
そんなある日の夜中の事だった。バラエティ番組を観ていたら、突然に臨時ニュースが流れたのだ。そして、切り替わった先の画面でニュースキャスターが、慌てた顔と声で原子力発電所がテロリスト達によって爆発させられた事を告げたのだった。
僕はあまりの事に、現実感を感じられなかった。だが、それでもニュースは容赦なく、爆発した原発の様子と、そしてその犠牲になった人々の姿を映し出している。
「あ~あ、やっぱり起こっちまったか。そりゃなぁ、世界中でテロ事件が起きているのに、日本だけが安全なはずはないんだよ。安保法制をやるんなら、ちゃんとテロ対策しなくちゃ。だから日本は平和ボケだって言われるんだよ。……ったく」
と、僕は相変わらずに現実感を感じられないままでそう言った。それから政府が緊急記者会見をやり始めた。怒号が飛び交っている。青い顔をした官房長官が何かを言っているが、どんな言い訳をしたって既に時は遅すぎる。僕はまた言った。
「充分に議論されて、検証されて、それで安全だと分かった上でテロ対策を執らないってのならまだ分かるけどな。なーんにも検証しないで安全だって分かるはずがない。議論を避けて来た国が悪いよ、これは」
そう言い終えた後で、僕はハナコを見てみた。どうせ、いつも通りに無関心だろうとそう思って。
――あれ?
ところが意外にも、ハナコは愕然とした表情でテレビ画面を凝視していたのだった。僕は悪い予感を覚えて慌ててこう言う。
「でも、まぁ、国がテロ対策の議論を避け続けた原因は、国民にもあるっちゃあるから、国ばかりを責められないな。この国の人間は気分で政治を判断し過ぎなんだよ。その所為で、その場しのぎの嘘や誤魔化しで乗り切れちゃうもんだから、すっかり政治家達にその悪いクセがついちまった。それで、誤魔化しちゃいけないテロリスクを無視しちまったんだろう……」
だが、僕がそう言ってもハナコは相変わらずに表情を歪めたままだった。
僕は更に悪い予感を覚える。
――2014年の12月に行われた衆議院選挙。この選挙において自民党は大勝した。そして、この時既に自民党は「集団的自衛権の行使容認」を決めていた。つまり、既に憲法無視をしていたのだ。そしてだから、これから自民党が「安保法案」を成立させるだろう事も分かっていた。
なのに、自民党が「安保法案」を提出すると、“今更?”というタイミングで国民は猛反発をし始めたのだ。
確かに投票拒否した人も大勢いた訳だが、それでも僕は「安保法案」に対する国民のその反発に驚いた。
“え? ここでこれだけ反対するのなら、2014年12月の選挙の時に、自民党をあんなに大勝させなければ良かったじゃない”
正直、そう思った。
多分、自民党の議員達も驚いたのじゃないかと思う。多少は、予想していたはずだろうが(だから自民党は、嫌われる政策を実行する前に、選挙で勝って任期を確保したのだろうし)、まさかここまで反発が強いとは。
この国の人間達が、その時の気分で政治を判断しているのだとよく分かる事例だろう。だから、その場しのぎの経済政策を、政治家達が執ってしまうんだ。
この困った国民性は、少子化対策の遅れにも表れている。少子化対策というのは、長い期間をかけなくちゃ効果がない。が、日本人は気分で政治を判断するから、短期間で効果が出る政策しか評価しない。結果として少子化対策は、二十年以上も前から問題が指摘されて来たにも拘らず、ほとんど進んでいないのが現状なんだ。
この傾向は、他の国でも観られるらしいが、日本で特に酷い。
しかもだ。
仮に政治家や官僚が不正を行っても、よっぽどの事がない限り、国民はそれを直ぐに忘れてしまう。だからなのか、政治家や官僚達は嘘や誤魔化しの技術ばかり上達させてしまっているように思える。そして実際、国民はその嘘や誤魔化しにあっさり騙されてしまっている訳だ。その最たる例が、原子力発電所の事故である点は言うまでもない。
本来なら、福島原発事故なんて、あんな国家レベルの大事故を起こす原因をつくった原発推進派の政治家達は二度と当選させてはいけないはずだ。なのに、その本来なら原発事故の責任を取らなくちゃいけない政治家達が、何の責任も取らずに普通に政治家をやり続けているばかりか、懲りずにまた原発推進までしてしまった訳だ。
いくら何でも、この国の人間達は簡単に誤魔化され過ぎだろう。どうしてあっさりと忘れられるんだ? まだ、あの大惨事から、数年しか経過していないんだぞ? いや、それどころか、まだ事故は終わってすらいないんだ。
……まぁ、それで、また、失敗した訳だが。
原発テロの所為で、何十人もの人が倒れている映像が流れているところで、ハナコは顔を手で覆った。そして「わたしの所為だ」とそう呟く。
――何を言っているんだ?
僕は恐怖に近い疑問を感じた。
「わたし達が、原発テロを起こさせるなんて計画を立てたから、みんなが死んじゃった」
その後で彼女は突然に立ち上がると、駆けて外に出ていってしまった。
“――え? まだ、ハナコはあの妄想を覚えていたのか?”
一瞬、呆気に取られたが、そう思うと直ぐに僕は彼女の後を追った。彼女は近くにあるビルに向かっているようだった。案の定、中に入る。“――まさか”と僕は思う。
“何をやるつもりなんだ? お前には責任なんか一切ないんだぞ?”
ハナコは階段を駆け上がっていた。どうやらビルの屋上を目指しているようだ。ハナコはこんなに速く走れたのかと思う程の速度で、階段を上っていた。僕の方が足はかなり速いはずなのに、あいつの背中が少しずつしか近付かない。
“嘘だろ? このままじゃ……”
僕が屋上に辿り着いた時、ハナコはちょうど屋上の柵を乗り越えたところだった。まだ間に合うかもしれない。
「ハナコ! やめろ! お前が死んだって何にも変わらない。みんなに、迷惑をかけるだけだ!
そもそも、お前には責任なんか、何にもないじゃないか!」
僕はそう叫んだが、彼女は一瞬僕を少し見ただけで、そのままほぼ躊躇なくビルから飛び降りてしまったのだった。
……キミコが言うように、物事は疑い続ければ切りがないから、何処かで“ただ信じる”って事をしなくちゃならない。
だから、全ては思い込みに過ぎないのだ。
飽くまで、極論を言えばって話だが。
しかし、例えそうであったとしても、科学は少なくとも、その事実に抵抗しようとはしている。
“反証主義”という考え方が科学にはあるが、これは非常に簡単に言ってしまうのなら“反論できる構造を持った理論を科学と呼ぼう”という考え方の事だ。
反論を拒絶するのであれば、それが正しいかどうかを確かめようもない。だから、疑ってみる必要がある。
原発の安全性だって同じだ。疑わなくては、それが正しいかどうかは判断ができない。そして、もし安全じゃないという事実が分かったのなら、それから先は態度を改めなくてはならないのだ。
ところが、多少、原発の安全性の基準が上がっただけで、国の執っている態度は、福島原発事故前とほぼ同じだ。
安全性に関する議論をできる限り避け、充分に検証もしないままで、原発を推進している。
これでは、また大惨事が繰り返されても、不思議ではない。
多分、今回の原発テロ後、壮大な責任の擦り付け合いが始まるのだろう。まぁ、誰も責任なんて執れないのだろうが。一体、本来は罰を受けなければいけない人間の何割が、本当に罰を受けるのだろう?
疑問を覚えざるを得ない。
そして、数年が経ったなら、その罰から逃れた人間達が、また原発を推進し始めるのだろうか?
僕は柵を乗り越え、ビルの屋上から下を見てみた。
暗い中でも、街灯に照らされて、ハナコが倒れているのが見えた。黒いシミが広がっているようだった。多分、あれは血だろう。一応、携帯電話で救急車を呼んだが、もう手遅れだ。絶対に助からない。
彼女は死んだんだ。
「この世には嘘しかない」なんてニヒリズムを気取ってみても、そこにリスクがある現実は変わらない。ハナコが死んでしまった現実も変わらない。
原発を推進していた連中は、この現実に、ハナコと同じ様な罪悪感を、少しくらいは覚えてくれるのだろうか?
“せめて、それくらいは……”と、僕は心の中で祈るようにそう呟いた。
1.長期間停止していた原発を再稼働するとトラブルが発生する可能性が大きい
2.日本各地で火山活動が活発化している
再稼働した川内原発近くの桜島が小噴火していますが、大丈夫なのでしょうかね?
3.安保法制によってテロリスクが高まる(既に高まっているのかも)
以上の理由から、原発の危険性は、かつてよりもむしろ高まっているように僕には思えます。
実際、政府は原子力発電所が重大事故を起こした場合、責任は取らないと明言していますから、恐らくは、国の人間達も危険だと認識しているのではないかと。
何も起こらない事を祈りましょう。
この話を考えていた時に作った曲です。↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27138021
まぁ、一応。
因みに、ISが明確に日本をターゲットにしたようです(2015年9月12日現在)。
無事に済みますように……