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目を覚ました時、お日様の光が降り注ぎ、柔軟剤の香りがシーツから漂った。
いつもの家の柔軟剤と違う、シトラス系の香り。それは昨日初めて少年の胸の中で感じた匂いと同じ物だった。
そこで意識がしっかりとしはじめ、ここが家ではない事を思い出した。無機質な小さな部屋に最低限の家具だけ置かれている。清潔感のある部屋で、椅子には昨日私が着ていた服が綺麗にたたまれ置かれていた。
触れると暖かく柔らかい。たぶん乾燥機を使ったのだと思う。
なんだかまだ夢を見てるみたいだ……そんな風に思いながら昨日の事を思い出した。
「マキさん。悪い。こいつに何か飲ましてくれない?」
見知らぬ少年に無理矢理腕を引かれて着いたのは、雑居ビルに入っていた古びたbar。看板には『Rhapsody in Blue』と書かれている。大人の世界に入り込んだ気分でドキドキした。しかし店内にいたのが意外と若い女性で、少しだけほっとした。二十代後半位だろうか。ボブカットの大人っぽい色気の漂うお姉さんだ。
「なんだい鏡弥。ナンパしてきたのかい?」
「ちげーよ。ちょっと知り合いの知り合いっていうか……そういえばお前なんて名前だ?」
互いに名前を知らない事に、初めて気がついたようだ。鏡弥と呼ばれた少年は、まじまじと私の顔を見て尋ねた。私はまだ怖くてブルブル震えながら口を閉じている。
「ああ、ああ。また臆病な子猫を拾ってきたね。鏡弥、汚い手を離しな。さあお嬢ちゃんここ座って」
鏡弥はむすっとした顔をしたが、大人しくマキさんの言葉にしたがった。私はぺこりと頭を下げて示されたバーカウンターの隅に座る。
しばらくすると甘い匂いが漂ってきて、私の前にマグカップが置かれた。
「ホットココア飲める?」
私はこくりと頷いて、おそるおそる口にした。暖かく甘いその優しい味に緊張していた心がやっとほぐれてきた。
「私は槇和泉。ここのマスターだ。マキって呼んで。でこいつが氷室鏡弥。さてお嬢ちゃんの事はなんて呼んだらいいのかな?」
ゆっくりと優しく問われて、私も落ち着いて口を開いた。
「音無結花です」
マキさんはにっこり微笑んで私の頭をポンポンと撫でた。
「で、なんでこの子連れてきたんだ。鏡弥」
鏡弥は困った様に頬をかきながら言った。
「いや……知り合いの知り合いみたいで、ちょっと聞きたい事あったんだけど、びくびくおどおど全然話通じねーし」
「それはあんたのガラが悪いからだろう。まったくねぇ。困ったヤツだよ」
マキさんにやり込められる鏡弥の姿は、年相応の少年の物で、そうやってあらためて観察すると対して年齢も変わらなかった。もう怖い雰囲気もなくなっている。
それでも越境の事を考えると、まだ警戒心はぬぐえなかった。
「なあ。もしかして音無麗花がこっちきてないか?」
鏡弥がマキさんの入れてくれたコーラを飲みながら、私に尋ねてくる。視線をそらし気味なのは、マキさんにガラが悪いと指摘されたからだろうか?
私は素直にこくりと頷くと、鏡弥は盛大にため息をついた。
「やっぱな……アイツ着いてきたのか。巻き込みたくなかったんだけどな……。まあ仕方ない。なあ悪いけど今日俺と会った事、麗花には黙っててくれねえか?」
またこくりと頷く。余計な事をするつもりは無かったし、それで気が済むなら大したことではない。そしてやはり鏡弥も越境してきたのだなと思った。それを追って麗花も越境した。つまり鏡弥のせいで私は色々迷惑をこうむっているのだ。
「ところでマキさん、優弥の調子はどう?」
「だいぶ良くなってきたよ。もう粥は飽きたって文句言うくらいにはね」
優弥? 新しい名前に小首を傾げていると、トントンと階段をゆっくりと降りてくる音が聞こえてきた。
「おや。起きて大丈夫なのかい」
「はい。おかげさまで。大分調子いいです。だからそろそろ粥以外のもの食べさせて下さいよ」
そう言ったのは鏡弥に似た少年。ただしかなりやせ細って顔色が悪く、しかし鏡弥よりずっと優しい目をした少年だった。
「あれ? 音無さんがどうしてここにいるの?」
名乗ってもいないのに名前を言われてびっくりした。私が驚いているのを見て優弥は笑った。
「隣のクラスで同じ図書委員の……覚えてないか。まあ僕は影が薄いからなぁ」
隣のクラスの図書委員という、とても平凡な理由にほっとするとともに、覚えてなかったのが申し訳なくなってきた。
「ごめんなさい」
「いいって。気にしないで」
「よし優弥用にチーズリゾットを作ってあげよう」
「マキさんリゾットなんて粥と変わらないよ」
「病み上がりが文句言わない」
暖かい会話の中に包まれて、私はやっとほっとした。私を知る人がいる。ここには居場所があるんじゃないか……。そう思えてきた。そうしたら自然と言葉が漏れた。
「……帰りたくない」
私の呟きに驚く三人。そして三人はとても上手いとは言えない私の説明を、我慢して大人しく聞き続けてくれた。
麗花のせいで居場所が無くなった事。自分はいらない存在じゃないかという事。
マキさんは少し眉を歪めたが、優弥と鏡弥も一緒になって説得してくれて、私はここに居候させてもらう事になった。
ここでは私は音無結花。麗花じゃない。