標本少女
二本の針金を絡めたような足と、微細な編み目を持った羽は、閉じられた世界の中でもがく。その太古の息吹が、酸化含水炭素の隙間から漏れ出していた。琥珀に封じ込められた長い触角の虫たちは金茶色の樹脂に固められ、鉱物化してはいるものの、やはりまだ蠢きたそうに六本の脚をばらつかせている。
バルチック海岸に打ち寄せた波浪に乗って、琥珀は二千年の時すら越える。古びた標本に小さく収まる未来など知らずに、時代の明暗全ての風を吸い込んだそれは、飽和状態を超えて濃密な色を閉じ込めていた。隣にひっそりと眠る月長石の内部では、白ぼけた七色が虹のため息のように滲む。鋭いクラスターを放つ水晶とは正反対に、儚い淡さが寝息をたてる。無数に並列した薄板の微晶には窓からの光が反射し、角度によっては青光が冷涼に渦巻きだす。もしも時の流れを遡れたとしても、月長石の中に潜む深い霧の底には辿り着けないだろう。
「美しいでしょう。一番下の右端は何だか分かりますか」
「緑柱石です」
「ではその斜め左上は」
「尖晶石です。等軸晶系八面体の…」
「お堅いですねえ。スピネルでいいんですよ」
「ではその隣の貴蛋白石はオパールですね」
「ええ。でも、あなたのお好きにどうぞ」
先生は鉱石標本室を静かに歩いた。午後の柔和な光が白衣を撫で、青葉色の鉱石に重なった。
「好きなものを差し上げましょう。何が良いですか?」
「いいです。ここは先生の鉱石標本室だから」
「そんなこと言わずに。何かプレゼントさせて下さい」
困った時に浮かべる先生の笑顔は、灰重石のような懐かしい飴色の陰りを含み、ありもしない玻璃光沢を感じさせる。外見に似ず比重の重い灰重石と同じように、先生の笑顔には深い感情が波打ち、絡まり合っている。
「先生が選んで下さい」
「困りましたねえ」
暫く標本室を歩いた後、木造の小さな戸棚から、静かに小瓶を取り出した。まるで、手に取り日に当てる事が大層罪深い行為なのだと言わんばかりの仕草だった。雛鳥を起こさぬよう、ひっそりと巣から拐ってきた小さな罪人のようにも見えた。
「何だと思います?」
硝子小瓶の中には、数粒の石ころが眠っていた。傾き掛けた日の光、先生の眩しい白衣、私の黒い瞳。それら全ての介入を拒む、ただの灰色の石ころだった。
「……なんでしょうか」
先生はあまりにその小瓶を大事に持つものだから、私はいつ小石の中から雛鳥が飛び立つのだろうかと、目を離せずにいた。
「これはね、ダイヤモンドの原石です」
「ダイヤモンド?ダイヤモンドって、あのダイヤモンド?」
「ええ、そうです。あの、ダイヤモンドです」
私はもう一度、小瓶の中の小石を見た。
――そうか。ダイヤモンドなのか。
灰色の小石はどこもかしこもゴツゴツしていて、醜かった。
灰色と言っても、一色ではない。夜空の濃紺に近い色、雨に濡れたコンクリート、光が射し込んで柔らかくなった雲の色。それらが様々に点在しており、互いの調和など考えず、ただあるがままの形をさらけ出していた。
どの角度からでもどうぞご覧あれ、どなたの理想にも完璧に答えてみせますよ、とでも言いたげな、あのダイヤモンドには似ても似つかない。
「…あらゆる鉱石を仕立ててきた職人の手によって、内側の綺麗なところが、それは隅々まで見えるようになるんですよ」
さあ、受け取って下さい。そう言って、先生は私に小瓶を握らせた。小石は音もたてず、小瓶の底に沈黙するだけだった。
鉱石標本室は、踏み込んできたケイサツカンの手によって徹底的に解体された。
しんなりと眠っていた琥珀の虫は外へと飛び去り、月長石のクラスターは何光年も彼方へ消えていく。
小瓶を抱き締めた私は、ケイサツカンに「ナカタアキコちゃんだね?」と聞かれ、宙を見つめたまま頷いた。
先生は白い白衣を掻き消すように黒い布を被せられて、ケイサツカンに連れていかれた。
鋭い水晶で切り目をいれたようにきっちり区画されていた標本室は、あっという間に中国の湿った路地裏と見分けがつかなくなった。
「14時28分、高坂光人を監禁罪で逮捕する」
「アキコちゃん、これはただの石ころだよ」
私の耳に、そんな意味の言葉が入り込んだ。
この部屋が、土と黴の臭いに満ちていることに気がつた。