5億円と私ーその①ー
大したトリックもありません。さほど文章も上手くありません。それでもよければ、ごゆっくり。
私があの男と出会ったのは、もう一ヶ月、いやそれ以上前になる。記憶力に乏しい私は、あの男との出会いを鮮明に覚えているわけでもなく、ただ自分の記憶の一部にひっそりとだけ存在しているだけだった。
というのも、だ。あの男との出会いはさほどインパクトもなく、どことなく平凡な出会いであったためだろう。もし、かなりのインパクト、例えば……命を救われたとか、何か大きなことを成し遂げた、とかだったら、それなりに覚えてはいるということだ。
人間の初対面に関する記憶など、そういったかなりの衝撃がない限り、あやふやとなってしまうもので、私自身、親友との初対面の記憶は遠の昔に消え去っている。こんなこと、本人に言えば怒られてしまうだろう。
要は、あの男との初めての出会いというのはそれくらいどうでもいい日常の中で、流れてしまいそうなくらい、埋もれてしまいそうなくらいの存在だった、ということだ。
今となっては、どうして私がこんなことに巻き込まれたのか不思議で仕方がないわけだが、それも運命なのだろうと思っている。本当に、運命という言葉は便利なものだ。何にでも使えるのだから。
たまに、運命は変えられるとか、運命に流されるな、とか言う人もいるけれど、結局のところ誰もがその言葉を使う理由は私と同じで、便利だから、使い勝手がいいから、なのだろう。たった漢字2文字で、自分に降りかかる全ての事象、または世界各地で起きる出来事を片付けられるのだ。これほど楽な言葉はないだろう。
「考え事ですか?」
そんな、どうでもいい私の運命論を頭の中で考えていると、目の前に座っている男がそっと話しかけた。
「いえ、まぁ……考え事……でしょうかね」
あやふやな解答に、男は少しだけ笑顔を見せた。
「あなたは、考え事をするとき、どうも鼻先を触る癖があります。今も、触っていました」
男は自慢げにそう言った。
「あ、あはは……」
苦笑いが精一杯の私は、また鼻先を触っているのだろうか。癖なんて、自覚があるわけがない。自分が、気がつかず、自然に動いてしまう現象を癖と言うのだ。自覚があっては、癖ではない。
「それより、例の件の資料は揃いましたか?」
男は、そっと立ち上がると、私の背後からパソコンの画面を覗き込んだ。
「えぇ、できていますけど、これでいいんですか?」
「よくできています。さすが、僕の選んだ助手ですね」
どうやら、男は私の仕事に満足している様子だった。
「そりゃどうも」
そう言って私は、ゆっくりとパソコン画面を覗き込んだ。
『青空銀行5億円事件について』
我ながら、このタイトルはどうかと思ったが、男のセンスに比べればマシな方だった。最初、男が付けたタイトルは、売れない小説以下、いやこれじゃ誰の目にも留まらないいような酷いものだった。
「僕には、文才がないようです」
確か、男はそんなことを言っていたような気がする。そして、それが私のここでの存在理由。男より文才がある。それだけだった。
「でも、これって資料じゃないような気がします」
「いえ、僕と言う人間が存在した、という十分な資料になりますよ」
存在の証明。男が、少なくとも文才がないわけでない私にこんな駄文を書かせる理由が、それだった。あまり、他人を詮索するようなことはしたくはないが、男にとって、この資料は自分の存在理由であり、自分史に刻まれなくてはいけない事象の一つなのだろう。
何が男をそうさせるのか。答えはまだ出てはいないが、今回の事件で私は男を見なおすことになった。いつも、何を考え、何を生きがいとしているのかわからない男、辰巳直人という人間が少しだけ、本当に少しだけ分かったような気がする。