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万年補欠

作者: 白川 透
掲載日:2026/10/21

 久瀬の打球が二塁手の頭を越えた。


 ベンチのみんなが立ち上がり、俺も遅れてフェンスをつかんだ。白い球は右中間の芝で弾んだ。一塁走者が二塁を蹴る。三塁コーチの腕が回るのを見て、ようやく声が出た。


「回れ! 回れえ!」


 返球より先に、うちの主将がホームへ滑り込む。砂埃の向こうで両腕が広がった。


 隣の小田に肩を殴られ、俺も殴り返した。痛かった。小田のほうは、こっちの拳が当たったことにも気づいていなかった。


「同点!」

「まだ二回だぞ、取れる取れる!」


 二塁に立った久瀬がベンチへ拳を上げた。


 俺も両手を上げて応えた。たぶん、向こうからは同じユニフォームの塊に見えている。誰がどんな顔をしているかなんて分からない距離だ。


 さっきの球は外角低めだった。踏み込めば届く。でも、俺なら腰が引ける。バットの先に当てて、弱いゴロにする。そもそも振れなかったかもしれない。


 久瀬はあれを、右中間へ持っていった。


「森田、水!」


 振り向くと、主将の辻がヘルメットを脱いでいた。俺は足元のボトルを取り、差し出した。


「ナイスラン」

「足、死ぬ。あいつ、もうちょい飛ばせ」

「本人に言えよ」

「お前から言っといて」


 辻は息を切らしたまま笑った。額から落ちた汗が、胸の校名を濡らしていく。


 地方大会決勝。二回裏、一対一。


 スタンドでは、うちの学校の吹奏楽部が応援曲を吹いている。こんなに大勢が俺たちの試合を見に来たのは初めてだった。テレビカメラもある。朝、母さんから届いたメッセージには、録画予約をしたと書いてあった。


 俺の背番号は十七。いまのところ、テレビに映りそうな仕事は給水くらいだ。


 次の打者が打ち上げた球を中堅手が捕り、攻撃が終わった。久瀬が二塁から駆けてくる。俺はグラブを持って待った。


「ナイスバッティング」


 言うと、久瀬はヘルメットを脱ぎながら俺を見た。


「ありがとうございます」

「もうちょい飛ばせって、辻が」

「じゃあ次、辻さんに打ってもらいます」

「俺に言うなよ」


 差し出したグラブを受け取り、久瀬が笑った。俺より一学年下で、俺より頭半分背が高い。日に焼けた顔に、歯だけがやけに白かった。


 守備へ向かう背中の九番を見送って、ヘルメットを棚へ戻す。


 あいつが入ってこなければ、と思ったことがある。


 一度や二度ではない。


 *


 二年の秋、俺は一週間だけ、右翼の先発候補になった。


 三年生が引退し、空いたところを新しいメンバーで埋めていた時期だった。紅白戦の打順表に自分の名前を見つけると、何でもないふりをして一度通り過ぎた。すぐに戻って、もう一度見た。


 七番、右翼、森田。


 その日、俺は三打数ノーヒットだった。それでもライトを守ったし、打席に三回立った。次の紅白戦でも名前があったから、帰りにスポーツ用品店へ寄った。


 新しいバッティンググローブは四千円近くした。今まで使っていたものは、左の親指の付け根が破れていた。もう少し使えそうだったが、買った。白地に紺の線が入ったやつだった。


 翌週、右翼のところには久瀬の名前が書かれていた。


 久瀬は紅白戦で二安打した。そのうち一本は、俺の頭を越えた。


 控え側のライトから追いかけながら、取れ、と誰かが叫ぶのを聞いた。言われなくても走っていた。背中を向けたままグラブを出し、届かず、フェンスにぶつかりかけて足を止めた。


 転がった球を拾ったときには、久瀬は二塁を回っていた。


 中継へ投げた球まで逸れた。


 その日の練習が終わっても、買ったばかりの手袋は外せなかった。新品の革が手のひらに貼りついていて、外したらもう使う機会がなくなるような気がした。


 ほかの部員が引き揚げたあと、ネットへ向けてティー打撃をしていた。脇から軽く上げてもらった球を打ち込む練習だ。球を上げる役がいないので、台の上に置いて一人で振った。


 芯を外すたび、台のゴムまで叩いた。乾いた打球音のあとに、間抜けな音が混じる。


 十数球打ったところで、ネットの向こうから球が転がってきた。


「上げましょうか」


 久瀬だった。練習着のズボンが両膝とも汚れていた。


「もう帰ったと思ってた」

「自転車の鍵、なくして」

「見つかった?」

「前のかごに入ってました」

「お前、よく盗まれないな」


 久瀬は笑い、ネットの前にしゃがんで球を集め始めた。


 断ればよかったのかもしれない。でも、台から打つのはもう嫌だった。俺は台を脇へどけ、久瀬が持ってきたかごを足元に置いた。


「お願いします」


 冗談めかして頭を下げると、久瀬も同じように頭を下げた。


 最初のうちは、悪くなかった。球を上げる位置が一定で、振りやすい。俺は力を込め、ネットの真ん中を狙った。


 何球か打ったあと、久瀬が球を持ったまま首を傾げた。


「森田さん、前の肩、ちょっと早く開いてません?」

「そう?」

「バットが出る前に、胸がネットへ向いちゃってます」


 久瀬は立ち上がり、バットを持つ真似をした。左肩をネットへ向けたまま手を動かし、遅れて胸を正面へ回す。


「こんな感じで。もう少し横向きのまま我慢すると、たぶん」


 言われたとおりに振ると、詰まった。次も詰まった。その次は、低い打球が久瀬の足元へ飛んだ。


「ごめん」

「大丈夫です。もう一球」


 次の球は、いい音がした。


 ネットが膨らんだ。久瀬が「今のです」と言った。


 俺にも分かっていた。手に嫌な振動が残っていない。力任せに振ったときより、球が速かった。


 そのことが、腹立たしかった。


「分かってる」

「はい」

「今のは分かってるから」


 久瀬の手が止まった。


 俺はバットを肩に乗せ、グラウンドの向こうを見た。誰もいなかった。校舎の窓に夕日が当たり、野球部の部室だけが陰になっていた。


 そこでやめればよかった。


「お前はいいよな」

「何がですか」

「すぐできるから」


 久瀬は球を握り直した。縫い目を親指でなぞっている。


「すぐじゃないです」

「いや、俺と比べたらさ」

「俺も練習してます」

「知ってるよ」


 知っていた。


 俺より先に帰る日もあるが、最後まで残る日もある。練習中に手を抜いているところなんて見たことがない。監督に叱られれば黙って聞き、言われたことを次には直そうとする。


 だから余計に、言えることがなかった。


「できるやつには分かんないって」

「……じゃあ、何も言わないほうがいいですか」


 声が変わったので、顔を向けた。


 久瀬は笑っていなかった。


「俺、森田さんに打ってほしくて言ったんですけど」

「頼んでないだろ、そこまで」


 口にした途端、久瀬が持っていた球をかごへ戻した。


 軽い音だった。


「すみません」


 謝らせたかったわけではない。


 でも、違うとも言えなかった。久瀬は転がっていた最後の二球を拾い、かごの中へ入れて立ち上がった。


「お疲れさまでした」


 俺はバットを下ろしたまま、その背中を見送った。


 鍵はちゃんと持っているのか。そんなことが頭に浮かんだ。呼び止める言葉にはならなかった。


 一人になってから、台を元の位置へ戻した。球を置き、振った。ゴムを叩いた。


 もう一度置いた。


 今度は、振れなかった。


 *


 夕飯の唐揚げは冷めていた。


 母さんは流しで弁当箱を洗っていた。俺が帰ってくるまで置いておいたらしい。水の音を聞きながら、箸で衣の端を剥がした。


「温めれば?」

「いい」

「ご飯、足りる?」

「うん」


 皿には六個あった。普段なら、もっとないかと聞いていた。


 母さんが水を止めた。


「疲れた?」

「普通」

「そう」


 それ以上は聞かれなかった。


 俺は二個目を口に入れ、よく噛まずに飲み込んだ。


「俺さ」

「うん」

「野球、やめようかな」


 母さんは弁当箱を伏せてから、こっちを向いた。


「何かあった?」


 後輩のほうがうまい。試合に出られそうにない。助言されて八つ当たりした。


 どれも口にしたくなかった。


「向いてないんだと思う」

「そっか」


 もう少し頑張れば、と言われると思っていた。


 母さんは布巾で手を拭き、向かいの椅子を引いた。


「明日、先生に話すの?」

「まだ決めてない」

「じゃあ、決めてからでいいんじゃない」


 テーブルの上には、明日の弁当に使う小さなカップが重ねてあった。俺の弁当箱は、クラスの誰のものよりでかい。


「やめたら、弁当小さくていいよ」


 母さんは少し考えてから答えた。


「食べる量が減ったらね」


 俺は皿を見た。残りは四個だった。


 やめれば朝も眠れる。休日に練習試合へ行かなくて済む。泥のついたズボンを風呂場でこする必要もなくなる。教室で友達が話している映画を、公開中に見に行ける。


 それを全部並べても、打った球でネットが膨らんだ瞬間だけが、何度も頭に戻ってきた。


 久瀬に言われて打てた、あの一球だった。


 気づくと皿が空になっていた。母さんが立ち上がりながら「まだ二個あるよ」と言ったので、俺は頼んだ。


 *


 翌朝、目覚ましが鳴る前に起きた。


 制服に着替えてから、部屋の隅のバットケースを見た。一度はそのまま出た。玄関で靴を履き、鞄の横に水筒がないことに気づいて戻り、ついでみたいな顔をしてバットも持った。


 家には誰も見ている人がいなかった。


 学校のグラウンドには、まだ部員が二人しかいなかった。俺は部室で着替え、ネットを引きずり出した。車輪の片方が回りにくく、いつも左へ寄っていく。


 直そうとしていると、反対側から誰かが押した。


 久瀬だった。


「おはようございます」

「おはよう」


 二人でネットを所定の位置へ動かした。久瀬は止め具を下ろすと、何も言わずに離れようとした。


「久瀬」


 呼び止めると、足を止めた。


 俺はかごから球を一つ取った。縫い目のところに乾いた泥が詰まっている。親指でこすっても取れなかった。


「昨日、ごめん」

「……はい」

「お前に言うことじゃなかった」


 久瀬はうつむいたまま、スパイクの先で地面を押した。すぐに、いいですよとは言わなかった。


 俺は球を持ち直した。


「今日も上げてくれる?」

「言っても怒りません?」

「たぶん」


 久瀬が顔を上げたので、俺は慌てて言い直した。


「怒っても、お前には言わない」

「それでお願いします」


 かごを挟んで位置につく。久瀬は一度空を見てから、俺のバットへ視線を戻した。


「肩、昨日の最後の感じで」


 俺は構えた。昨日うまくいったときの感覚が、もう曖昧だった。肩を残そうとすると腕が出ない。腕を出そうとすると身体まで回る。


 上がってきた一球目を、また引っかけた。


 球はネットの隅を叩き、足元へ戻ってきた。久瀬はそれを拾うと、かごへ入れずに次の球として持った。


「もう一球」


 俺は握りを直した。


 打てるまでやっていたら、たぶん朝練が始まる。それでも、次を頼んだ。


 *


 冬になっても、俺の名前が先発の欄へ戻ることはなかった。


 久瀬は春に一度四番を打った。俺は練習試合の途中から出ては凡退した。ネット相手に直したはずの癖が、投手を前にすると戻っていた。


 三年になった四月の練習試合では、一打席で三球しか見られなかった。


 真っすぐに振り遅れ、変化球に泳ぎ、最後は外へ逃げる球を追いかけた。バットを止めたつもりで一塁側を見たが、塁審の腕は上がっていた。


 ベンチへ戻ると、監督が隣の空いた場所を指した。


「何を待ってた」

「真っすぐです」

「二球目は」

「真っすぐだと思いました」

「三球目は」

「……打たないと、と思って」


 監督はグラウンドへ目を戻した。次の打者がバットを構えていた。


「一球で全部直そうとするな」

「はい」

「速い球に遅れないように、足を上げるのを早くしてるんだろ」

「はい」

「振り出すまで早くして、変化球に崩されてる。足を着いてから待てるようにしろ。今日の練習はそれだ」


 俺は膝の上で手を握った。手袋の中の指が汗で滑った。


「次も使ってもらえますか」


 監督はこちらを見た。


「見て決める」


 それだけだった。


 その日はもう打席が回ってこなかった。帰りのバスで窓側に座り、袋の中のスパイクを揃えていると、隣に辻が座った。


「落ち込んでんな」

「三球だぞ」

「見てた」

「せめて五球くらい投げさせたかった」

「二球で終わった俺にも言ってる?」


 辻は自分の膝を指した。スライディングで破れたところから肌が見えていた。その試合では二打席凡退したあと、三打席目に二塁打を打っていた。


「お前は打ったろ」

「最後な」

「俺には最後が来ねえんだよ」


 窓に映った自分の顔が、嫌な顔をしていた。


 辻はしばらく黙っていた。バスが曲がり、肩がぶつかった。


「俺、森田には辞めてほしくないよ」

「球拾うやつ減るもんな」

「そういう言い方すんなって」


 低い声だった。


 俺は窓から目を離した。辻は前の席の背もたれを見ていた。


「ごめん」

「お前と野球するの、俺は楽しいんだよ。それじゃ足りないだろうけどさ」


 足りなかった。


 足りない、と言えばよかったのかもしれない。辻のせいではないのに、返事をするとまた何かぶつけそうで、俺は黙った。


 辻は鞄からパンを二つ出した。一つを差し出されたので受け取ると、俺のほうがクリームで、あいつのほうが焼きそばだった。


「そっちがいい」

「うるせえな。落ち込んでても選ぶんだな」


 袋ごと交換した。辻が先に吹き出し、俺も少し笑った。


 *


 五月の放課後、打撃練習の最後に、俺はいつもと違う頼み方をした。


「速い球、もう一回やらせてください」


 マシンの片づけを始めていた副部長が手を止めた。


 さっきの順番では、一球も前へ飛ばせなかった。


 副部長は時計を見てから監督を呼んだ。監督は片づけの終わっていない場所を確認し、俺と久瀬に球のかごを二つ運ばせた。


 投球を始める前に、いつもの防球ネットの位置と周りに人がいないことを確かめる。久瀬が球を入れる役につき、俺が打席へ入った。


 一球目は、振る前に捕球用のネットへ届いた。


「見送るやつじゃないですよ」


 ネットの向こうから久瀬が言った。


「分かってる」

「今の、言い方」

「怒ってない」


 二球目は空振りした。三球目はグリップに近いところへ当たり、右手の小指が痺れた。


 監督が打席の外から俺の足を指した。


「左足は先に着けておけ。バットはまだ出すな」

「はい」

「足を着けたところで球を見ろ。そこから振れ」


 構え直すと、下半身だけが置き去りになったようで気持ち悪かった。球が来るまで何もできずに待っているのが怖い。いつもなら、そこで肩から動いていた。


 四球目はファウルになった。


 五球目も同じ側へ飛んだ。六球目は空振り。七球目でまたバットに当たった。


 十球が終わったとき、まともに前へ飛んだ球はなかった。俺はバットを下げ、息を吐いた。


「代わる」


 久瀬はかごに残る球を見た。


「あと十球あります」

「お前の分だろ」

「俺もそのあと打ちます。森田さんが入れてください」

「帰るの遅くなるぞ」

「鍵はあります」


 久瀬はズボンのポケットを叩いた。俺は笑って、もう一度打席に立った。


 二十球目を打ったところで監督が切り上げさせた。俺がこぼれた球を拾っていると、久瀬が足元へ転がしてよこした。


「最後、正面でしたね」

「投手ゴロだろ」

「その前は、後ろでした」


 思わず言い返そうとして、やめた。


 確かにそうだった。


 それからは辻や小田とも交代しながら、速い球を打つ練習を続けた。控えの捕手も一緒だった。あいつは緩い球なら柵まで飛ばすのに、マシンの速度を上げるとバットが遅れた。空振りのあと、俺と顔を見合わせて苦笑いした。


 俺も人のことは言えなかったが、何日かすると、あいつが空振りした球をファウルにできることが増えた。


 六月の練習試合で代打に出たときは、二球ファウルにしたあと、二塁へのゴロだった。


 一塁を駆け抜けてから、アウトを示す手を見た。あと何歩足りなかったか、考えなくても分かった。球は正面へ転がったし、俺の足は速くない。


 ベンチへ戻ると、久瀬が手を出した。軽く叩いてから、ヘルメットを脱いだ。


 褒められなくてよかった。今のを惜しかったと言われたら、何も惜しくなかったと言ってしまうところだった。


 その日の帰りは、久瀬と途中まで一緒だった。


 あいつの自転車が段差を越えるたび、かごの中の金具が鳴った。チェーンの鍵だった。


「それ、ポケット入れろよ。またなくすぞ」

「ポケットだと忘れて洗濯するんです」

「どっちも駄目じゃん」

「どっちかしかないんですよ」


 久瀬の家へ曲がる道で別れ、一人で坂を上った。


 太ももが重く、坂の途中で降りて押した。明日の練習では、もう少し早く足を着いてみようと思った。


 *


 夏の背番号を渡されたのは、六月の終わりだった。


 十七番を受け取ると、監督は次の名前を呼んだ。俺は列へ戻り、四角く折られた布を開いた。


 一年の夏も二年の夏も、背番号はもらえなかった。スタンドで声を出し、負けた先輩を迎えた。三年になってようやく、同じ場所に座れることになった。


 九番を受け取った久瀬が横へ戻ってきた。あいつの布と俺の布は同じ大きさで、数字だけが違った。


 写真を撮って母さんに送った。すぐに「今日持って帰ってね」と返ってきた。


 その夜、母さんはテレビを消して背番号を縫った。俺は向かいで数学の問題集を開いていたが、針が動くところばかり見ていた。


「曲がってない?」

「まだ上しか留めてない」

「十七って、細いから曲がると分かるよ」

「じゃあ自分で縫う?」

「お願いします」


 母さんは眼鏡を押し上げた。


 あとから着てみると、背中に布一枚の硬さがあった。鏡には数字が逆に映るので、身体をひねって確かめていたら、母さんに写真を撮られた。


「送って」

「今送る」

「ばあちゃんには送らなくていいから」

「もう送った」


 遅かった。


 布団へ入ってから、その写真を拡大した。


 背番号は真っすぐだった。


 初戦は、八対一で勝った。


 俺はベンチの端でヘルメットをかぶり、いつ呼ばれても出られるようにしていた。七回が終わったところで試合が終わり、ヘルメットを棚へ戻した。


 二回戦では、一点を争う試合になった。代打に神田が出た。三回戦は先発投手が最後まで投げた。準々決勝で代走に出たのは、俺より足の速い一年だった。


 準決勝の終盤、ライトに入った控えは小田だった。小田は外野も内野も守れた。


 俺は準決勝の勝利のあと、辻と抱き合った。決勝だ、と何度も言った。帰りのバスではみんなで騒いだ。喉が痛くて、声が裏返った。


 家へ着き、ユニフォームを洗うために出した。


 ズボンの膝はほとんど汚れていなかった。球場の土より、試合前の練習の汚れのほうが多い。背番号を縫うときについた小さな皺が、まだ残っていた。


 洗面所でそれを見ていると、台所から母さんが呼んだ。


「明日のお弁当、おにぎりにする?」

「うん」

「何個?」

「いつもと同じ」


 決勝まで来た。


 俺はまだ、一度も打席に立っていなかった。


 *


「森田、ボール」


 小田に呼ばれ、俺は球を渡した。決勝のグラウンドでは、五回の表が始まるところだった。


 小田は捕手と軽く投げ合ってから二塁へ走った。八番、二塁。今大会の途中から、そこの先発に収まっている。


 得点は二対一。四回に一点を勝ち越されていた。


 うちの投手の大橋は、帽子を脱いで汗を拭いた。背中の一番が濡れている。連戦で誰の身体にも疲れがたまっていた。内野ゴロを一つ取るたびに、俺たちはベンチから声をかけた。


 五回は無失点だった。六回に、左翼線へ二塁打を打たれた。送りバントで走者が進み、外野へのフライで三点目が入った。


 三対一。


 捕手がマウンドへ行った。大橋は何度か首を縦に振り、球を受け取った。


 俺はベンチの裏で身体を動かした。腿を上げ、肩を回し、軽く跳ぶ。何も言われていなくても準備するようになっていた。急に名前を呼ばれたとき、身体が冷えていたら困る。


 今度こそあるかもしれない。


 七回の裏、辻と久瀬が倒れたあと、小田が左翼線へ二塁打を打った。打球が転がる間に俺は立ち上がり、喜びながら監督のほうを見た。


 次は九番の大橋だった。


 監督がベンチを振り返る。俺はバットを取ろうとしていた。


「神田」


 隣で、神田が返事をした。


 俺はバットの柄に置いた手を離した。神田は既にヘルメットをかぶっていた。俺と同じ三年で、左の代打の一番手だった。


「頼むぞ」


 背中を叩くと、神田は顎を引いた。


 相手の先発は、緩い球を低めへ集めてくる投手だった。神田は二球を見送り、三球目を振った。鋭い打球が一、二塁間を抜ける。


「小田、帰れ!」


 俺はフェンスから身を乗り出した。小田が三塁を回り、そのまま本塁へ滑り込む。


 三対二。


 神田は本塁への返球の間に二塁を狙った。しかし中継の選手が振り向き、二塁へ投げた。滑り込んだ足より先にタッチされ、三つ目のアウトになった。小田の生還は、その前だった。


 いい代打だった。俺が出ていたら、同じように打てたとは思えない。


 座ろうとしたが、腰が落ち着かなかった。次の回は誰から始まるのか、打順を目で追った。自分の名前がないことは分かっているのに、何度も見た。


 八回からは、二年生の早瀬が九番の打順に入って投げた。神田はベンチへ下がり、大橋は肩を冷やしていた。二人とも、もうグラウンドへは戻れない。


 早瀬が無失点で抑え、俺たちが攻撃に入る前に、相手の投手交代が告げられた。


 右翼を守っていた背番号十の選手がマウンドへ走る。代わって入った選手が右翼へ向かった。新しい投手は肩幅が広く、ユニフォームの袖が腕に張りついていた。


 最初の投球練習で、捕手のミットが大きな音を立てた。


「速っ」


 誰かが言った。


 俺はフェンスに指をかけ直した。右腕が上がってから、球がミットへ届くまでが短い。二球目も、三球目も低い位置で音がした。


 投球練習を終えた投手が、マウンドの土をならした。神田は俺の隣へ座り、その背中を見た。


「次、あいつか」

「速いな」

「お前、裏で振っとけよ」


 俺が顔を向けると、神田は自分のバットをケースへ入れていた。


「俺、もう出たから」

「……おう」


 八回の裏、一番打者の当たりは右翼の正面へ飛んだ。二番は速い球に振り遅れた。三番は変化球を打って三塁へのゴロだった。


 どの打球にも、俺は声を出した。打てないだろうと思っているように聞こえるのが嫌で、腹の底から叫んだ。喉が擦れて、途中から何を言っているのか自分でも分からなかった。


 九回の表が終われば、あと三人で俺たちの夏が終わるかもしれない。


 そう考えたとき、試合が終わったあとの荷物が頭に浮かんだ。


 バットを入れる。スパイクの土を落とす。母さんに迎えを頼むか、みんなで学校へ戻るか。明日の朝には、何時に起きればいいのだろう。


 俺は頭を振って、ベンチの裏へ回った。


 素振りをした。球はない。それでも、さっきの投手の腕を思い浮かべて足を着き、そこから振った。


 一回目は身体が流れた。二回目は力が入りすぎた。


 気づくと久瀬が、守備用のグラブをつけたままこちらを見ていた。九回の守備へ出る前だった。


「足、もう少し早くていいと思います」

「分かってる」

「怒ってないですね」

「今日は怒ってない」


 久瀬が口元だけで笑った。


「まだ終わってませんよ」

「知ってる。お前も打順、回るからな」

「はい」


 ライトへ向かう背中を見てから、俺はもう一度振った。


 あいつまで回れと思った。


 その先の俺まで、回ってこいとも思った。


 *


 九回の表、早瀬は先頭を歩かせた。


 捕手がすぐに立ち上がり、球を持ってマウンドへ向かった。小田も寄っていって何かを言い、三人で少し笑った。


 次の打者が送った。走者が二塁へ進み、外野が少し前へ出る。一本打たれれば、もう一点入る。


 俺はフェンスを握ったまま、投球のたびに膝を曲げていた。


 打球が上がったのはライトだった。


 久瀬が前へ走った。落ちるな、と思った。前へ出すぎるな、とも思った。


 久瀬は最後に腰を落とし、低い位置で捕った。グラブを上げるより先に内野へ投げ返す。二塁走者は動けなかった。


「よしっ!」


 隣の神田と拳をぶつけた。今度は遅れなかった。


 最後の打者を、早瀬は三振に取った。


 守備から戻ってくる連中に、ベンチのみんなが手を出した。早瀬の手は熱かった。俺が「ナイスピッチ」と言うと、あいつは頷く余裕もない顔で水を探した。


「あと、お願いします」

「おう」


 俺だけに言ったのではない。それでも返事をした。


 九回裏は四番からだった。


 円陣を組むと、辻は一人ずつ顔を見た。首筋に乾いた汗が白く残っていた。


「一本ずついこう」


 誰かが「おう」と言い、全員の声になった。辻は拳を上げてから、いつものようにヘルメットの位置を直した。


 俺はバットを手元に置いた。


 相手投手の球は、九回になっても速かった。四番打者は二球で追い込まれ、一球ファウルにしたあと、高めの球を空振りした。


 五番の打球も詰まった。


 しかし、遊撃手と左翼手の間へ落ちた。


 ベンチが沸いた。辻が打席へ向かう。俺は一度声を出すと止められなくなった。球が外れるたびに叫び、ファウルになるたびに手を叩いた。


 辻はフルカウントから外の球を見送った。


 一死一、二塁。


 次は久瀬だった。


 ここで打てば同点になる。長打なら逆転もある。俺はフェンスへ身を寄せた。


 久瀬が振った。


 打球は高く上がった。中堅手が下がり、やがて足を止めた。


「伸びろ!」


 俺は叫んだ。


 届かなかった。球はグラブへ収まり、二塁走者は動けなかった。


 久瀬が一塁の手前で足を緩めた。ヘルメットへ手をやり、そのまましばらく動かなかった。


 二死一、二塁。八番、小田。


 監督が俺を見た。


「森田。用意しろ」


 返事が裏返った。


 手元にあるバットを、もう一度探してしまった。神田が俺の肘をつかみ、柄の位置を教えるように触った。


「持ってる」


 分かっていた。分かっているはずだった。


 俺はヘルメットをかぶった。耳のところがうまく入らず、一度抜いてかぶり直した。いつも使っているはずなのに、顎の横がやけに狭かった。


 小田は一球も振らずに二つのボールを選んだ。


 投手が二塁を見て、捕手のミットを見た。三球目は真ん中へ来た。小田はそれを見送った。


「振れよ」


 声にしてから、唇を噛んだ。


 俺が怖いからといって、あいつに打って終わらせてもらおうとするな。


 四球目は低かった。五球目、捕手が外へミットを動かした。小田はバットを止めた。


 球審の手は上がらなかった。


 小田がバットを置き、一塁へ向かった。


 二死満塁。九番の早瀬に、代打。


 監督が俺の前へ来た。


「真っすぐに遅れるな。低いのは捨てろ」

「はい」


 俺は頷いたが、足は動かなかった。


 監督は俺を見ていた。


「森田。あの速い球、お前なら振れる。いけ」

「はい」


 打てる、とは言われなかった。


 俺はバットを握った。


 アナウンスが、早瀬に代わる俺の名前を呼んだ。


 森田くん。


 スピーカーから聞こえた声が、もう一度名前を繰り返した。自分の名前なのに、客席の誰かを呼んでいるように遠かった。


 神田がヘルメットを軽く叩いた。


「頼む」


 頷くと、打席から戻った久瀬が前に立った。いつもなら足の位置か肩の開き方を言うところだった。


 あいつは口を開きかけ、閉じた。それから、俺の拳へ自分の拳を当てた。


「打ってください」

「おう」


 今度は、声がちゃんと出た。


 *


 打席の土は、思っていたより深く掘れていた。


 右足の位置を探し、スパイクで少しならす。捕手が座り直す音がした。マスクの向こうから、ミットが低く出てくる。


 俺は球審に一礼してから、投手を見た。


 近い。


 ベンチで見ていた距離とは違った。あそこから、この速さで来るのか。


 三塁には五番打者。二塁に辻。一塁に小田。三人とも、俺の打球を待っている。


 俺がアウトになったら、終わる。


 考えた途端、右腕が固まった。


 投手がセットに入った。二塁へ顔を向け、正面へ戻す。足が上がった。


 左足を着いて、来た球へ振ったつもりだった。けれどミットの音が鳴ってから、バットが身体の前へ出た。


 空振りだった。


 捕手がすぐに返球した。投手は受け取り、手の中で球を回した。俺を見る時間はほとんどなかった。


 バットの先を土へつける。


 速い。でも、見えなかったわけではない。身体が動かなかった。


 ベンチから何か聞こえた。顔を上げる余裕はなく、俺はグリップを握り直した。


 二球目は低かった。


 振り出しかけた手を止めた。球が捕手の前で跳ねる。捕手が身体で押さえ、三塁走者が戻った。


 ボール。


 息を吐いた。胸の中に詰めていたものが少し出た。


 投手が球を受け取ると、捕手がマウンドへ声をかけた。短い言葉だった。


 俺は打席の外へ片足を出した。


 二塁の辻がこちらを見ていた。遠くて表情は分からない。あいつは膝を曲げ、もう走る用意をしていた。


 俺は足を戻した。


 三球目は、外寄りだった。今度は球が来る前に左足を着けられた。球へバットを出すと、先端で擦ったような音がして、白い球が一塁側へ飛んだ。


 ファウル。


 当たった。


 思わず打球を見送ったあと、球審の声で我に返った。まだ何も起きていない。むしろ追い込まれていた。


 あと一つ。


 指先が冷えた。夏の球場で、首から汗が落ちているのに、指だけが自分のものではないようだった。


 捕手の構えに投手が頷く。四球目は途中で落ちた。


 つられて膝が前へ出た。肩まで開きかけたところで手を止めると、球は低い位置でミットに収まった。


 捕手が球審を振り返った。


 何も言われなかった。


 ツーボール、ツーストライク。


 俺は打席の外へ出て、バットを一度だけ振った。汗が目へ入り、袖で拭った。


 速い球を待つ。低い球は捨てる。


 それだけに戻した。


 五球目は振りにいった。手元で球が詰まり、鈍い音とともにバットが押し戻される。打球は後ろのネットへ突き刺さった。


 捕手が立って、球の行方を見た。


 俺は右手を開いた。小指の付け根が痺れていた。手袋の中で一度指を曲げ、また握った。


 ベンチから声が届いた。


「合ってる! そのまま!」


 久瀬だった。


 俺は前を向いた。


 投手がマウンドの土を足でならしていた。捕手のサインに首を振った。もう一度サインが出て、今度は止まった。


 次の球が来るまで、いつもより長かった。


 早く来いと思った。


 来るなとも思った。


 俺は少しだけバットを短く持った。人差し指の位置を確かめる。視線を投手の胸から、右肩へ上げた。


 六球目は高かった。


 バットが動きかけたが、振らなかった。球が目の高さを抜け、ミットの音がした。


 ボール。


 捕手がすぐに球を返した。投手は帽子のつばへ手をやった。


 フルカウント。


 三塁コーチが走者へ声をかけた。もう二死だ。打球が落ちるかどうか待つ必要はない。次は投手が投げると同時に、三人とも走る。


 一塁側のスタンドが騒がしかった。名前を呼ばれている気がしたが、聞き分けられなかった。俺は一度だけベンチを見た。


 全員が立っていた。


 早瀬が、両手でフェンスをつかんでいた。神田が両手でバットを振り切る真似をした。久瀬は口を開けたまま、こっちを見ていた。


 監督は何も動かさずに、こちらを見ていた。


 俺は目を戻した。


 あと一球でいい。


 何年分とか、誰のためとか、考えられなかった。ただ、次に来る球を打ちたかった。


 投手が二塁を見た。


 辻がリードを詰め、また少し離れる。


 投手の顔が戻り、足が上がった。俺は左足を着いて、振り下ろされる右腕を見た。


 真っすぐだ。内側へ来る。


 腰を引かず、手を出した。


 芯で捉えた音ではなかった。


 球の重さが手のひらへ残り、バットの先が下がった。白い球が投手の脇を抜け、二塁ベースの右へ跳ねていく。


 俺はバットを放した。


「抜けろ!」


 誰かが叫んだ。


 二塁手が横へ飛んだ。俺の視界の端で、グラブが伸びる。


 球はグラブの先を抜け、芝へ転がった。


 足がもつれそうになった。俺は腕を振った。一塁が近づいてくる。ベースの向こうでコーチが何か叫んでいる。


 外野へ抜けた。


 俺が打った。


 一塁を踏み、勢いのまま回ったところで、コーチの声が聞こえた。


「ホーム!」


 振り向くと、一人目が生還していた。投球と同時に走った辻も、もう三塁を回っている。


 中堅から返った球が中継へ渡る。辻は腕を振り、ホームへ突っ込んだ。


「走れ!」


 俺は叫んだ。


 球がホームへ向かった。捕手がミットを伸ばす。辻が腰を落とす。


 砂が跳ねた。


 ミットと足が、重なって見えた。


 一瞬、何も聞こえなくなった。


 球審の両腕が、横へ広がった。


 *


 ベンチからみんなが飛び出した。


 俺は一塁を回ったところにいた。二塁へ向かうべきなのか、戻るべきなのか、分からなくなった。


 神田が真っすぐこっちへ来た。


 両腕を広げていた。


「森田あ!」


 ぶつかられ、後ろへよろけた。肩をつかまれた。頭を叩かれた。背中へ別の身体がぶつかり、誰かの肘が脇腹へ入った。


「痛い! おい、痛い!」


 誰も聞いていなかった。


 俺も、押し返すために伸ばした腕で、神田の背中をつかんでいた。


 ホームのほうから辻が来た。ユニフォームの前が土だらけだった。膝も肘も茶色くなっていた。


「帰った!」

「見た!」

「俺、帰ったぞ!」


 辻が俺の首を抱えた。


 その横から久瀬が手を伸ばした。ヘルメットを外され、顔を覗き込まれる。


 あいつは泣いていた。


 初めて見る顔だった。あんなに打てるやつが、目も鼻も真っ赤にして、子供みたいに口を開けていた。


「森田さん」

「何だよ」

「打った」


 俺は頷いた。


「打った」

「打ったんですよ」

「分かってるよ」


 返事の途中で喉が詰まった。


 久瀬の肩をつかんだ。ユニフォームが汗で濡れていた。俺のよりずっと汚れていた。


 あいつがいなければよかったと思った日を、忘れたわけではなかった。昨日だって、先発の名前を見れば悔しかった。


 それでも今は、あいつに見てもらえてよかった。


 声を出そうとして、うまく出なかった。息だけが何度も漏れ、目の前がぼやけた。


 久瀬が俺の肩を叩いた。俺も叩き返した。何度も叩いた。


「打ったぞ!」


 やっと出た声は、ひどく裏返っていた。


 辻が「知ってる!」と叫んだ。神田が笑った。俺も笑おうとして、また泣いた。


 誰かが整列だと叫んだ。俺たちは落ちた帽子を拾い、泣いたまま列へ走った。


 相手投手が目の前にいた。


 口を結び、こっちを見ていた。汗が顎から落ちても拭かなかった。


 俺は頭を下げた。顔を上げると、あいつも頭を下げていた。


 *


 校歌の歌詞を、途中から思い出せなかった。


 辻の声を頼りに口を動かした。途中で久瀬が鼻をすすり、それが聞こえたらまた危なかった。


 表彰が終わっても、なかなか試合が終わった気がしなかった。道具を片づけるためにベンチへ戻ると、ボトルが一本足りなかった。さっきまであれほど騒いでいたのに、みんなでベンチの下を覗いた。


 大橋が座っていた足元にあった。


「お前かよ」

「すまん」


 大橋がボトルを持ち上げ、空いた手で俺の肩をつかんだ。


「ありがとう」


 正面から言われると、返事に困った。


「俺も出たかったから」


 大橋は少し笑い、それからまた顔を歪めた。こっちも駄目になりそうだったので、俺はボトルを受け取って袋へ入れた。


 球場の外で、母さんを見つけた。


 人が多くて、すぐには近づけなかった。保護者も先生も、みんな似たような顔で笑っていた。泣いている人もいた。


 母さんは俺を見ると、口元へ手を当てた。


 俺は鞄を肩へかけ直した。


「録画」

「してる」

「ちゃんと?」

「してるよ」


 母さんの声が笑っていた。


「俺のとこ」

「入ってるってば」


 そこでようやく、俺も笑った。


 母さんは何か言いかけて、やめた。俺の肩に手を置き、二度ほど強く押した。


「お腹すいた?」


 試合前に食べたものが何だったか、思い出せなかった。ずっと腹が張っていた気がするのに、今は急に空いていた。


「すいた」

「何食べたい?」

「唐揚げ」

「また?」

「いっぱい」


 母さんは頷いた。


 集合を呼ぶ声がした。俺は鞄を持ち直し、バスのほうへ走った。


 乗り込む前にマネージャーの藤井が、スコアブックを見せてくれた。俺が見たいと言ったからだ。


 九回裏、九番の欄。


 途中から入った俺の名前の横に、打った結果が書かれていた。


「これ、ヒット?」

「ヒット」

「エラーじゃなくて?」

「センター前ヒット。打点二」


 指で触ろうとして、手が汚れていることに気づいた。触らずに、もう一度見た。


 森田。


 自分の名前だった。


「写真、撮っていい?」


 藤井はスコアブックを両手で開き直した。


 バスの中では、辻が何度も最後の走塁の話をしていた。小田がそのたびに訂正し、神田が動画を探そうとして先生に座れと叱られた。


 俺は窓側へ座り、撮った写真を開いた。


 後ろから久瀬が顔を出した。


「また見てる」

「まだ一回目」

「球場で三回見てました」

「スマホでは一回目」


 久瀬は俺の画面を覗き込み、少し黙った。


「明日、何時に行きます?」


 俺は顔を上げた。


 明日。


 朝起きたら、また練習がある。次の大会へ向けて、また先発の九人が選ばれる。俺が打った一本で、急に肩が強くなったわけでも足が速くなったわけでもない。


 九番の背中は、まだ久瀬のものだった。


「いつもと同じ」


 答えると、久瀬は頷いた。


「球、上げてもらっていいですか」

「お前が先?」

「明日は、俺が先で」

「じゃあ、片づけはお前な」


 久瀬は笑って引っ込んだ。


 バスが動き出した。窓の外で母さんが手を振っていた。俺も振った。見えなくなるまで振ってから、座席へ背中を預けた。


 スマホの画面が暗くなった。


 もう一度つけた。


 写真の中に、俺の一本があった。

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