万年補欠
久瀬の打球が二塁手の頭を越えた。
ベンチのみんなが立ち上がり、俺も遅れてフェンスをつかんだ。白い球は右中間の芝で弾んだ。一塁走者が二塁を蹴る。三塁コーチの腕が回るのを見て、ようやく声が出た。
「回れ! 回れえ!」
返球より先に、うちの主将がホームへ滑り込む。砂埃の向こうで両腕が広がった。
隣の小田に肩を殴られ、俺も殴り返した。痛かった。小田のほうは、こっちの拳が当たったことにも気づいていなかった。
「同点!」
「まだ二回だぞ、取れる取れる!」
二塁に立った久瀬がベンチへ拳を上げた。
俺も両手を上げて応えた。たぶん、向こうからは同じユニフォームの塊に見えている。誰がどんな顔をしているかなんて分からない距離だ。
さっきの球は外角低めだった。踏み込めば届く。でも、俺なら腰が引ける。バットの先に当てて、弱いゴロにする。そもそも振れなかったかもしれない。
久瀬はあれを、右中間へ持っていった。
「森田、水!」
振り向くと、主将の辻がヘルメットを脱いでいた。俺は足元のボトルを取り、差し出した。
「ナイスラン」
「足、死ぬ。あいつ、もうちょい飛ばせ」
「本人に言えよ」
「お前から言っといて」
辻は息を切らしたまま笑った。額から落ちた汗が、胸の校名を濡らしていく。
地方大会決勝。二回裏、一対一。
スタンドでは、うちの学校の吹奏楽部が応援曲を吹いている。こんなに大勢が俺たちの試合を見に来たのは初めてだった。テレビカメラもある。朝、母さんから届いたメッセージには、録画予約をしたと書いてあった。
俺の背番号は十七。いまのところ、テレビに映りそうな仕事は給水くらいだ。
次の打者が打ち上げた球を中堅手が捕り、攻撃が終わった。久瀬が二塁から駆けてくる。俺はグラブを持って待った。
「ナイスバッティング」
言うと、久瀬はヘルメットを脱ぎながら俺を見た。
「ありがとうございます」
「もうちょい飛ばせって、辻が」
「じゃあ次、辻さんに打ってもらいます」
「俺に言うなよ」
差し出したグラブを受け取り、久瀬が笑った。俺より一学年下で、俺より頭半分背が高い。日に焼けた顔に、歯だけがやけに白かった。
守備へ向かう背中の九番を見送って、ヘルメットを棚へ戻す。
あいつが入ってこなければ、と思ったことがある。
一度や二度ではない。
*
二年の秋、俺は一週間だけ、右翼の先発候補になった。
三年生が引退し、空いたところを新しいメンバーで埋めていた時期だった。紅白戦の打順表に自分の名前を見つけると、何でもないふりをして一度通り過ぎた。すぐに戻って、もう一度見た。
七番、右翼、森田。
その日、俺は三打数ノーヒットだった。それでもライトを守ったし、打席に三回立った。次の紅白戦でも名前があったから、帰りにスポーツ用品店へ寄った。
新しいバッティンググローブは四千円近くした。今まで使っていたものは、左の親指の付け根が破れていた。もう少し使えそうだったが、買った。白地に紺の線が入ったやつだった。
翌週、右翼のところには久瀬の名前が書かれていた。
久瀬は紅白戦で二安打した。そのうち一本は、俺の頭を越えた。
控え側のライトから追いかけながら、取れ、と誰かが叫ぶのを聞いた。言われなくても走っていた。背中を向けたままグラブを出し、届かず、フェンスにぶつかりかけて足を止めた。
転がった球を拾ったときには、久瀬は二塁を回っていた。
中継へ投げた球まで逸れた。
その日の練習が終わっても、買ったばかりの手袋は外せなかった。新品の革が手のひらに貼りついていて、外したらもう使う機会がなくなるような気がした。
ほかの部員が引き揚げたあと、ネットへ向けてティー打撃をしていた。脇から軽く上げてもらった球を打ち込む練習だ。球を上げる役がいないので、台の上に置いて一人で振った。
芯を外すたび、台のゴムまで叩いた。乾いた打球音のあとに、間抜けな音が混じる。
十数球打ったところで、ネットの向こうから球が転がってきた。
「上げましょうか」
久瀬だった。練習着のズボンが両膝とも汚れていた。
「もう帰ったと思ってた」
「自転車の鍵、なくして」
「見つかった?」
「前のかごに入ってました」
「お前、よく盗まれないな」
久瀬は笑い、ネットの前にしゃがんで球を集め始めた。
断ればよかったのかもしれない。でも、台から打つのはもう嫌だった。俺は台を脇へどけ、久瀬が持ってきたかごを足元に置いた。
「お願いします」
冗談めかして頭を下げると、久瀬も同じように頭を下げた。
最初のうちは、悪くなかった。球を上げる位置が一定で、振りやすい。俺は力を込め、ネットの真ん中を狙った。
何球か打ったあと、久瀬が球を持ったまま首を傾げた。
「森田さん、前の肩、ちょっと早く開いてません?」
「そう?」
「バットが出る前に、胸がネットへ向いちゃってます」
久瀬は立ち上がり、バットを持つ真似をした。左肩をネットへ向けたまま手を動かし、遅れて胸を正面へ回す。
「こんな感じで。もう少し横向きのまま我慢すると、たぶん」
言われたとおりに振ると、詰まった。次も詰まった。その次は、低い打球が久瀬の足元へ飛んだ。
「ごめん」
「大丈夫です。もう一球」
次の球は、いい音がした。
ネットが膨らんだ。久瀬が「今のです」と言った。
俺にも分かっていた。手に嫌な振動が残っていない。力任せに振ったときより、球が速かった。
そのことが、腹立たしかった。
「分かってる」
「はい」
「今のは分かってるから」
久瀬の手が止まった。
俺はバットを肩に乗せ、グラウンドの向こうを見た。誰もいなかった。校舎の窓に夕日が当たり、野球部の部室だけが陰になっていた。
そこでやめればよかった。
「お前はいいよな」
「何がですか」
「すぐできるから」
久瀬は球を握り直した。縫い目を親指でなぞっている。
「すぐじゃないです」
「いや、俺と比べたらさ」
「俺も練習してます」
「知ってるよ」
知っていた。
俺より先に帰る日もあるが、最後まで残る日もある。練習中に手を抜いているところなんて見たことがない。監督に叱られれば黙って聞き、言われたことを次には直そうとする。
だから余計に、言えることがなかった。
「できるやつには分かんないって」
「……じゃあ、何も言わないほうがいいですか」
声が変わったので、顔を向けた。
久瀬は笑っていなかった。
「俺、森田さんに打ってほしくて言ったんですけど」
「頼んでないだろ、そこまで」
口にした途端、久瀬が持っていた球をかごへ戻した。
軽い音だった。
「すみません」
謝らせたかったわけではない。
でも、違うとも言えなかった。久瀬は転がっていた最後の二球を拾い、かごの中へ入れて立ち上がった。
「お疲れさまでした」
俺はバットを下ろしたまま、その背中を見送った。
鍵はちゃんと持っているのか。そんなことが頭に浮かんだ。呼び止める言葉にはならなかった。
一人になってから、台を元の位置へ戻した。球を置き、振った。ゴムを叩いた。
もう一度置いた。
今度は、振れなかった。
*
夕飯の唐揚げは冷めていた。
母さんは流しで弁当箱を洗っていた。俺が帰ってくるまで置いておいたらしい。水の音を聞きながら、箸で衣の端を剥がした。
「温めれば?」
「いい」
「ご飯、足りる?」
「うん」
皿には六個あった。普段なら、もっとないかと聞いていた。
母さんが水を止めた。
「疲れた?」
「普通」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
俺は二個目を口に入れ、よく噛まずに飲み込んだ。
「俺さ」
「うん」
「野球、やめようかな」
母さんは弁当箱を伏せてから、こっちを向いた。
「何かあった?」
後輩のほうがうまい。試合に出られそうにない。助言されて八つ当たりした。
どれも口にしたくなかった。
「向いてないんだと思う」
「そっか」
もう少し頑張れば、と言われると思っていた。
母さんは布巾で手を拭き、向かいの椅子を引いた。
「明日、先生に話すの?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、決めてからでいいんじゃない」
テーブルの上には、明日の弁当に使う小さなカップが重ねてあった。俺の弁当箱は、クラスの誰のものよりでかい。
「やめたら、弁当小さくていいよ」
母さんは少し考えてから答えた。
「食べる量が減ったらね」
俺は皿を見た。残りは四個だった。
やめれば朝も眠れる。休日に練習試合へ行かなくて済む。泥のついたズボンを風呂場でこする必要もなくなる。教室で友達が話している映画を、公開中に見に行ける。
それを全部並べても、打った球でネットが膨らんだ瞬間だけが、何度も頭に戻ってきた。
久瀬に言われて打てた、あの一球だった。
気づくと皿が空になっていた。母さんが立ち上がりながら「まだ二個あるよ」と言ったので、俺は頼んだ。
*
翌朝、目覚ましが鳴る前に起きた。
制服に着替えてから、部屋の隅のバットケースを見た。一度はそのまま出た。玄関で靴を履き、鞄の横に水筒がないことに気づいて戻り、ついでみたいな顔をしてバットも持った。
家には誰も見ている人がいなかった。
学校のグラウンドには、まだ部員が二人しかいなかった。俺は部室で着替え、ネットを引きずり出した。車輪の片方が回りにくく、いつも左へ寄っていく。
直そうとしていると、反対側から誰かが押した。
久瀬だった。
「おはようございます」
「おはよう」
二人でネットを所定の位置へ動かした。久瀬は止め具を下ろすと、何も言わずに離れようとした。
「久瀬」
呼び止めると、足を止めた。
俺はかごから球を一つ取った。縫い目のところに乾いた泥が詰まっている。親指でこすっても取れなかった。
「昨日、ごめん」
「……はい」
「お前に言うことじゃなかった」
久瀬はうつむいたまま、スパイクの先で地面を押した。すぐに、いいですよとは言わなかった。
俺は球を持ち直した。
「今日も上げてくれる?」
「言っても怒りません?」
「たぶん」
久瀬が顔を上げたので、俺は慌てて言い直した。
「怒っても、お前には言わない」
「それでお願いします」
かごを挟んで位置につく。久瀬は一度空を見てから、俺のバットへ視線を戻した。
「肩、昨日の最後の感じで」
俺は構えた。昨日うまくいったときの感覚が、もう曖昧だった。肩を残そうとすると腕が出ない。腕を出そうとすると身体まで回る。
上がってきた一球目を、また引っかけた。
球はネットの隅を叩き、足元へ戻ってきた。久瀬はそれを拾うと、かごへ入れずに次の球として持った。
「もう一球」
俺は握りを直した。
打てるまでやっていたら、たぶん朝練が始まる。それでも、次を頼んだ。
*
冬になっても、俺の名前が先発の欄へ戻ることはなかった。
久瀬は春に一度四番を打った。俺は練習試合の途中から出ては凡退した。ネット相手に直したはずの癖が、投手を前にすると戻っていた。
三年になった四月の練習試合では、一打席で三球しか見られなかった。
真っすぐに振り遅れ、変化球に泳ぎ、最後は外へ逃げる球を追いかけた。バットを止めたつもりで一塁側を見たが、塁審の腕は上がっていた。
ベンチへ戻ると、監督が隣の空いた場所を指した。
「何を待ってた」
「真っすぐです」
「二球目は」
「真っすぐだと思いました」
「三球目は」
「……打たないと、と思って」
監督はグラウンドへ目を戻した。次の打者がバットを構えていた。
「一球で全部直そうとするな」
「はい」
「速い球に遅れないように、足を上げるのを早くしてるんだろ」
「はい」
「振り出すまで早くして、変化球に崩されてる。足を着いてから待てるようにしろ。今日の練習はそれだ」
俺は膝の上で手を握った。手袋の中の指が汗で滑った。
「次も使ってもらえますか」
監督はこちらを見た。
「見て決める」
それだけだった。
その日はもう打席が回ってこなかった。帰りのバスで窓側に座り、袋の中のスパイクを揃えていると、隣に辻が座った。
「落ち込んでんな」
「三球だぞ」
「見てた」
「せめて五球くらい投げさせたかった」
「二球で終わった俺にも言ってる?」
辻は自分の膝を指した。スライディングで破れたところから肌が見えていた。その試合では二打席凡退したあと、三打席目に二塁打を打っていた。
「お前は打ったろ」
「最後な」
「俺には最後が来ねえんだよ」
窓に映った自分の顔が、嫌な顔をしていた。
辻はしばらく黙っていた。バスが曲がり、肩がぶつかった。
「俺、森田には辞めてほしくないよ」
「球拾うやつ減るもんな」
「そういう言い方すんなって」
低い声だった。
俺は窓から目を離した。辻は前の席の背もたれを見ていた。
「ごめん」
「お前と野球するの、俺は楽しいんだよ。それじゃ足りないだろうけどさ」
足りなかった。
足りない、と言えばよかったのかもしれない。辻のせいではないのに、返事をするとまた何かぶつけそうで、俺は黙った。
辻は鞄からパンを二つ出した。一つを差し出されたので受け取ると、俺のほうがクリームで、あいつのほうが焼きそばだった。
「そっちがいい」
「うるせえな。落ち込んでても選ぶんだな」
袋ごと交換した。辻が先に吹き出し、俺も少し笑った。
*
五月の放課後、打撃練習の最後に、俺はいつもと違う頼み方をした。
「速い球、もう一回やらせてください」
マシンの片づけを始めていた副部長が手を止めた。
さっきの順番では、一球も前へ飛ばせなかった。
副部長は時計を見てから監督を呼んだ。監督は片づけの終わっていない場所を確認し、俺と久瀬に球のかごを二つ運ばせた。
投球を始める前に、いつもの防球ネットの位置と周りに人がいないことを確かめる。久瀬が球を入れる役につき、俺が打席へ入った。
一球目は、振る前に捕球用のネットへ届いた。
「見送るやつじゃないですよ」
ネットの向こうから久瀬が言った。
「分かってる」
「今の、言い方」
「怒ってない」
二球目は空振りした。三球目はグリップに近いところへ当たり、右手の小指が痺れた。
監督が打席の外から俺の足を指した。
「左足は先に着けておけ。バットはまだ出すな」
「はい」
「足を着けたところで球を見ろ。そこから振れ」
構え直すと、下半身だけが置き去りになったようで気持ち悪かった。球が来るまで何もできずに待っているのが怖い。いつもなら、そこで肩から動いていた。
四球目はファウルになった。
五球目も同じ側へ飛んだ。六球目は空振り。七球目でまたバットに当たった。
十球が終わったとき、まともに前へ飛んだ球はなかった。俺はバットを下げ、息を吐いた。
「代わる」
久瀬はかごに残る球を見た。
「あと十球あります」
「お前の分だろ」
「俺もそのあと打ちます。森田さんが入れてください」
「帰るの遅くなるぞ」
「鍵はあります」
久瀬はズボンのポケットを叩いた。俺は笑って、もう一度打席に立った。
二十球目を打ったところで監督が切り上げさせた。俺がこぼれた球を拾っていると、久瀬が足元へ転がしてよこした。
「最後、正面でしたね」
「投手ゴロだろ」
「その前は、後ろでした」
思わず言い返そうとして、やめた。
確かにそうだった。
それからは辻や小田とも交代しながら、速い球を打つ練習を続けた。控えの捕手も一緒だった。あいつは緩い球なら柵まで飛ばすのに、マシンの速度を上げるとバットが遅れた。空振りのあと、俺と顔を見合わせて苦笑いした。
俺も人のことは言えなかったが、何日かすると、あいつが空振りした球をファウルにできることが増えた。
六月の練習試合で代打に出たときは、二球ファウルにしたあと、二塁へのゴロだった。
一塁を駆け抜けてから、アウトを示す手を見た。あと何歩足りなかったか、考えなくても分かった。球は正面へ転がったし、俺の足は速くない。
ベンチへ戻ると、久瀬が手を出した。軽く叩いてから、ヘルメットを脱いだ。
褒められなくてよかった。今のを惜しかったと言われたら、何も惜しくなかったと言ってしまうところだった。
その日の帰りは、久瀬と途中まで一緒だった。
あいつの自転車が段差を越えるたび、かごの中の金具が鳴った。チェーンの鍵だった。
「それ、ポケット入れろよ。またなくすぞ」
「ポケットだと忘れて洗濯するんです」
「どっちも駄目じゃん」
「どっちかしかないんですよ」
久瀬の家へ曲がる道で別れ、一人で坂を上った。
太ももが重く、坂の途中で降りて押した。明日の練習では、もう少し早く足を着いてみようと思った。
*
夏の背番号を渡されたのは、六月の終わりだった。
十七番を受け取ると、監督は次の名前を呼んだ。俺は列へ戻り、四角く折られた布を開いた。
一年の夏も二年の夏も、背番号はもらえなかった。スタンドで声を出し、負けた先輩を迎えた。三年になってようやく、同じ場所に座れることになった。
九番を受け取った久瀬が横へ戻ってきた。あいつの布と俺の布は同じ大きさで、数字だけが違った。
写真を撮って母さんに送った。すぐに「今日持って帰ってね」と返ってきた。
その夜、母さんはテレビを消して背番号を縫った。俺は向かいで数学の問題集を開いていたが、針が動くところばかり見ていた。
「曲がってない?」
「まだ上しか留めてない」
「十七って、細いから曲がると分かるよ」
「じゃあ自分で縫う?」
「お願いします」
母さんは眼鏡を押し上げた。
あとから着てみると、背中に布一枚の硬さがあった。鏡には数字が逆に映るので、身体をひねって確かめていたら、母さんに写真を撮られた。
「送って」
「今送る」
「ばあちゃんには送らなくていいから」
「もう送った」
遅かった。
布団へ入ってから、その写真を拡大した。
背番号は真っすぐだった。
初戦は、八対一で勝った。
俺はベンチの端でヘルメットをかぶり、いつ呼ばれても出られるようにしていた。七回が終わったところで試合が終わり、ヘルメットを棚へ戻した。
二回戦では、一点を争う試合になった。代打に神田が出た。三回戦は先発投手が最後まで投げた。準々決勝で代走に出たのは、俺より足の速い一年だった。
準決勝の終盤、ライトに入った控えは小田だった。小田は外野も内野も守れた。
俺は準決勝の勝利のあと、辻と抱き合った。決勝だ、と何度も言った。帰りのバスではみんなで騒いだ。喉が痛くて、声が裏返った。
家へ着き、ユニフォームを洗うために出した。
ズボンの膝はほとんど汚れていなかった。球場の土より、試合前の練習の汚れのほうが多い。背番号を縫うときについた小さな皺が、まだ残っていた。
洗面所でそれを見ていると、台所から母さんが呼んだ。
「明日のお弁当、おにぎりにする?」
「うん」
「何個?」
「いつもと同じ」
決勝まで来た。
俺はまだ、一度も打席に立っていなかった。
*
「森田、ボール」
小田に呼ばれ、俺は球を渡した。決勝のグラウンドでは、五回の表が始まるところだった。
小田は捕手と軽く投げ合ってから二塁へ走った。八番、二塁。今大会の途中から、そこの先発に収まっている。
得点は二対一。四回に一点を勝ち越されていた。
うちの投手の大橋は、帽子を脱いで汗を拭いた。背中の一番が濡れている。連戦で誰の身体にも疲れがたまっていた。内野ゴロを一つ取るたびに、俺たちはベンチから声をかけた。
五回は無失点だった。六回に、左翼線へ二塁打を打たれた。送りバントで走者が進み、外野へのフライで三点目が入った。
三対一。
捕手がマウンドへ行った。大橋は何度か首を縦に振り、球を受け取った。
俺はベンチの裏で身体を動かした。腿を上げ、肩を回し、軽く跳ぶ。何も言われていなくても準備するようになっていた。急に名前を呼ばれたとき、身体が冷えていたら困る。
今度こそあるかもしれない。
七回の裏、辻と久瀬が倒れたあと、小田が左翼線へ二塁打を打った。打球が転がる間に俺は立ち上がり、喜びながら監督のほうを見た。
次は九番の大橋だった。
監督がベンチを振り返る。俺はバットを取ろうとしていた。
「神田」
隣で、神田が返事をした。
俺はバットの柄に置いた手を離した。神田は既にヘルメットをかぶっていた。俺と同じ三年で、左の代打の一番手だった。
「頼むぞ」
背中を叩くと、神田は顎を引いた。
相手の先発は、緩い球を低めへ集めてくる投手だった。神田は二球を見送り、三球目を振った。鋭い打球が一、二塁間を抜ける。
「小田、帰れ!」
俺はフェンスから身を乗り出した。小田が三塁を回り、そのまま本塁へ滑り込む。
三対二。
神田は本塁への返球の間に二塁を狙った。しかし中継の選手が振り向き、二塁へ投げた。滑り込んだ足より先にタッチされ、三つ目のアウトになった。小田の生還は、その前だった。
いい代打だった。俺が出ていたら、同じように打てたとは思えない。
座ろうとしたが、腰が落ち着かなかった。次の回は誰から始まるのか、打順を目で追った。自分の名前がないことは分かっているのに、何度も見た。
八回からは、二年生の早瀬が九番の打順に入って投げた。神田はベンチへ下がり、大橋は肩を冷やしていた。二人とも、もうグラウンドへは戻れない。
早瀬が無失点で抑え、俺たちが攻撃に入る前に、相手の投手交代が告げられた。
右翼を守っていた背番号十の選手がマウンドへ走る。代わって入った選手が右翼へ向かった。新しい投手は肩幅が広く、ユニフォームの袖が腕に張りついていた。
最初の投球練習で、捕手のミットが大きな音を立てた。
「速っ」
誰かが言った。
俺はフェンスに指をかけ直した。右腕が上がってから、球がミットへ届くまでが短い。二球目も、三球目も低い位置で音がした。
投球練習を終えた投手が、マウンドの土をならした。神田は俺の隣へ座り、その背中を見た。
「次、あいつか」
「速いな」
「お前、裏で振っとけよ」
俺が顔を向けると、神田は自分のバットをケースへ入れていた。
「俺、もう出たから」
「……おう」
八回の裏、一番打者の当たりは右翼の正面へ飛んだ。二番は速い球に振り遅れた。三番は変化球を打って三塁へのゴロだった。
どの打球にも、俺は声を出した。打てないだろうと思っているように聞こえるのが嫌で、腹の底から叫んだ。喉が擦れて、途中から何を言っているのか自分でも分からなかった。
九回の表が終われば、あと三人で俺たちの夏が終わるかもしれない。
そう考えたとき、試合が終わったあとの荷物が頭に浮かんだ。
バットを入れる。スパイクの土を落とす。母さんに迎えを頼むか、みんなで学校へ戻るか。明日の朝には、何時に起きればいいのだろう。
俺は頭を振って、ベンチの裏へ回った。
素振りをした。球はない。それでも、さっきの投手の腕を思い浮かべて足を着き、そこから振った。
一回目は身体が流れた。二回目は力が入りすぎた。
気づくと久瀬が、守備用のグラブをつけたままこちらを見ていた。九回の守備へ出る前だった。
「足、もう少し早くていいと思います」
「分かってる」
「怒ってないですね」
「今日は怒ってない」
久瀬が口元だけで笑った。
「まだ終わってませんよ」
「知ってる。お前も打順、回るからな」
「はい」
ライトへ向かう背中を見てから、俺はもう一度振った。
あいつまで回れと思った。
その先の俺まで、回ってこいとも思った。
*
九回の表、早瀬は先頭を歩かせた。
捕手がすぐに立ち上がり、球を持ってマウンドへ向かった。小田も寄っていって何かを言い、三人で少し笑った。
次の打者が送った。走者が二塁へ進み、外野が少し前へ出る。一本打たれれば、もう一点入る。
俺はフェンスを握ったまま、投球のたびに膝を曲げていた。
打球が上がったのはライトだった。
久瀬が前へ走った。落ちるな、と思った。前へ出すぎるな、とも思った。
久瀬は最後に腰を落とし、低い位置で捕った。グラブを上げるより先に内野へ投げ返す。二塁走者は動けなかった。
「よしっ!」
隣の神田と拳をぶつけた。今度は遅れなかった。
最後の打者を、早瀬は三振に取った。
守備から戻ってくる連中に、ベンチのみんなが手を出した。早瀬の手は熱かった。俺が「ナイスピッチ」と言うと、あいつは頷く余裕もない顔で水を探した。
「あと、お願いします」
「おう」
俺だけに言ったのではない。それでも返事をした。
九回裏は四番からだった。
円陣を組むと、辻は一人ずつ顔を見た。首筋に乾いた汗が白く残っていた。
「一本ずついこう」
誰かが「おう」と言い、全員の声になった。辻は拳を上げてから、いつものようにヘルメットの位置を直した。
俺はバットを手元に置いた。
相手投手の球は、九回になっても速かった。四番打者は二球で追い込まれ、一球ファウルにしたあと、高めの球を空振りした。
五番の打球も詰まった。
しかし、遊撃手と左翼手の間へ落ちた。
ベンチが沸いた。辻が打席へ向かう。俺は一度声を出すと止められなくなった。球が外れるたびに叫び、ファウルになるたびに手を叩いた。
辻はフルカウントから外の球を見送った。
一死一、二塁。
次は久瀬だった。
ここで打てば同点になる。長打なら逆転もある。俺はフェンスへ身を寄せた。
久瀬が振った。
打球は高く上がった。中堅手が下がり、やがて足を止めた。
「伸びろ!」
俺は叫んだ。
届かなかった。球はグラブへ収まり、二塁走者は動けなかった。
久瀬が一塁の手前で足を緩めた。ヘルメットへ手をやり、そのまましばらく動かなかった。
二死一、二塁。八番、小田。
監督が俺を見た。
「森田。用意しろ」
返事が裏返った。
手元にあるバットを、もう一度探してしまった。神田が俺の肘をつかみ、柄の位置を教えるように触った。
「持ってる」
分かっていた。分かっているはずだった。
俺はヘルメットをかぶった。耳のところがうまく入らず、一度抜いてかぶり直した。いつも使っているはずなのに、顎の横がやけに狭かった。
小田は一球も振らずに二つのボールを選んだ。
投手が二塁を見て、捕手のミットを見た。三球目は真ん中へ来た。小田はそれを見送った。
「振れよ」
声にしてから、唇を噛んだ。
俺が怖いからといって、あいつに打って終わらせてもらおうとするな。
四球目は低かった。五球目、捕手が外へミットを動かした。小田はバットを止めた。
球審の手は上がらなかった。
小田がバットを置き、一塁へ向かった。
二死満塁。九番の早瀬に、代打。
監督が俺の前へ来た。
「真っすぐに遅れるな。低いのは捨てろ」
「はい」
俺は頷いたが、足は動かなかった。
監督は俺を見ていた。
「森田。あの速い球、お前なら振れる。いけ」
「はい」
打てる、とは言われなかった。
俺はバットを握った。
アナウンスが、早瀬に代わる俺の名前を呼んだ。
森田くん。
スピーカーから聞こえた声が、もう一度名前を繰り返した。自分の名前なのに、客席の誰かを呼んでいるように遠かった。
神田がヘルメットを軽く叩いた。
「頼む」
頷くと、打席から戻った久瀬が前に立った。いつもなら足の位置か肩の開き方を言うところだった。
あいつは口を開きかけ、閉じた。それから、俺の拳へ自分の拳を当てた。
「打ってください」
「おう」
今度は、声がちゃんと出た。
*
打席の土は、思っていたより深く掘れていた。
右足の位置を探し、スパイクで少しならす。捕手が座り直す音がした。マスクの向こうから、ミットが低く出てくる。
俺は球審に一礼してから、投手を見た。
近い。
ベンチで見ていた距離とは違った。あそこから、この速さで来るのか。
三塁には五番打者。二塁に辻。一塁に小田。三人とも、俺の打球を待っている。
俺がアウトになったら、終わる。
考えた途端、右腕が固まった。
投手がセットに入った。二塁へ顔を向け、正面へ戻す。足が上がった。
左足を着いて、来た球へ振ったつもりだった。けれどミットの音が鳴ってから、バットが身体の前へ出た。
空振りだった。
捕手がすぐに返球した。投手は受け取り、手の中で球を回した。俺を見る時間はほとんどなかった。
バットの先を土へつける。
速い。でも、見えなかったわけではない。身体が動かなかった。
ベンチから何か聞こえた。顔を上げる余裕はなく、俺はグリップを握り直した。
二球目は低かった。
振り出しかけた手を止めた。球が捕手の前で跳ねる。捕手が身体で押さえ、三塁走者が戻った。
ボール。
息を吐いた。胸の中に詰めていたものが少し出た。
投手が球を受け取ると、捕手がマウンドへ声をかけた。短い言葉だった。
俺は打席の外へ片足を出した。
二塁の辻がこちらを見ていた。遠くて表情は分からない。あいつは膝を曲げ、もう走る用意をしていた。
俺は足を戻した。
三球目は、外寄りだった。今度は球が来る前に左足を着けられた。球へバットを出すと、先端で擦ったような音がして、白い球が一塁側へ飛んだ。
ファウル。
当たった。
思わず打球を見送ったあと、球審の声で我に返った。まだ何も起きていない。むしろ追い込まれていた。
あと一つ。
指先が冷えた。夏の球場で、首から汗が落ちているのに、指だけが自分のものではないようだった。
捕手の構えに投手が頷く。四球目は途中で落ちた。
つられて膝が前へ出た。肩まで開きかけたところで手を止めると、球は低い位置でミットに収まった。
捕手が球審を振り返った。
何も言われなかった。
ツーボール、ツーストライク。
俺は打席の外へ出て、バットを一度だけ振った。汗が目へ入り、袖で拭った。
速い球を待つ。低い球は捨てる。
それだけに戻した。
五球目は振りにいった。手元で球が詰まり、鈍い音とともにバットが押し戻される。打球は後ろのネットへ突き刺さった。
捕手が立って、球の行方を見た。
俺は右手を開いた。小指の付け根が痺れていた。手袋の中で一度指を曲げ、また握った。
ベンチから声が届いた。
「合ってる! そのまま!」
久瀬だった。
俺は前を向いた。
投手がマウンドの土を足でならしていた。捕手のサインに首を振った。もう一度サインが出て、今度は止まった。
次の球が来るまで、いつもより長かった。
早く来いと思った。
来るなとも思った。
俺は少しだけバットを短く持った。人差し指の位置を確かめる。視線を投手の胸から、右肩へ上げた。
六球目は高かった。
バットが動きかけたが、振らなかった。球が目の高さを抜け、ミットの音がした。
ボール。
捕手がすぐに球を返した。投手は帽子のつばへ手をやった。
フルカウント。
三塁コーチが走者へ声をかけた。もう二死だ。打球が落ちるかどうか待つ必要はない。次は投手が投げると同時に、三人とも走る。
一塁側のスタンドが騒がしかった。名前を呼ばれている気がしたが、聞き分けられなかった。俺は一度だけベンチを見た。
全員が立っていた。
早瀬が、両手でフェンスをつかんでいた。神田が両手でバットを振り切る真似をした。久瀬は口を開けたまま、こっちを見ていた。
監督は何も動かさずに、こちらを見ていた。
俺は目を戻した。
あと一球でいい。
何年分とか、誰のためとか、考えられなかった。ただ、次に来る球を打ちたかった。
投手が二塁を見た。
辻がリードを詰め、また少し離れる。
投手の顔が戻り、足が上がった。俺は左足を着いて、振り下ろされる右腕を見た。
真っすぐだ。内側へ来る。
腰を引かず、手を出した。
芯で捉えた音ではなかった。
球の重さが手のひらへ残り、バットの先が下がった。白い球が投手の脇を抜け、二塁ベースの右へ跳ねていく。
俺はバットを放した。
「抜けろ!」
誰かが叫んだ。
二塁手が横へ飛んだ。俺の視界の端で、グラブが伸びる。
球はグラブの先を抜け、芝へ転がった。
足がもつれそうになった。俺は腕を振った。一塁が近づいてくる。ベースの向こうでコーチが何か叫んでいる。
外野へ抜けた。
俺が打った。
一塁を踏み、勢いのまま回ったところで、コーチの声が聞こえた。
「ホーム!」
振り向くと、一人目が生還していた。投球と同時に走った辻も、もう三塁を回っている。
中堅から返った球が中継へ渡る。辻は腕を振り、ホームへ突っ込んだ。
「走れ!」
俺は叫んだ。
球がホームへ向かった。捕手がミットを伸ばす。辻が腰を落とす。
砂が跳ねた。
ミットと足が、重なって見えた。
一瞬、何も聞こえなくなった。
球審の両腕が、横へ広がった。
*
ベンチからみんなが飛び出した。
俺は一塁を回ったところにいた。二塁へ向かうべきなのか、戻るべきなのか、分からなくなった。
神田が真っすぐこっちへ来た。
両腕を広げていた。
「森田あ!」
ぶつかられ、後ろへよろけた。肩をつかまれた。頭を叩かれた。背中へ別の身体がぶつかり、誰かの肘が脇腹へ入った。
「痛い! おい、痛い!」
誰も聞いていなかった。
俺も、押し返すために伸ばした腕で、神田の背中をつかんでいた。
ホームのほうから辻が来た。ユニフォームの前が土だらけだった。膝も肘も茶色くなっていた。
「帰った!」
「見た!」
「俺、帰ったぞ!」
辻が俺の首を抱えた。
その横から久瀬が手を伸ばした。ヘルメットを外され、顔を覗き込まれる。
あいつは泣いていた。
初めて見る顔だった。あんなに打てるやつが、目も鼻も真っ赤にして、子供みたいに口を開けていた。
「森田さん」
「何だよ」
「打った」
俺は頷いた。
「打った」
「打ったんですよ」
「分かってるよ」
返事の途中で喉が詰まった。
久瀬の肩をつかんだ。ユニフォームが汗で濡れていた。俺のよりずっと汚れていた。
あいつがいなければよかったと思った日を、忘れたわけではなかった。昨日だって、先発の名前を見れば悔しかった。
それでも今は、あいつに見てもらえてよかった。
声を出そうとして、うまく出なかった。息だけが何度も漏れ、目の前がぼやけた。
久瀬が俺の肩を叩いた。俺も叩き返した。何度も叩いた。
「打ったぞ!」
やっと出た声は、ひどく裏返っていた。
辻が「知ってる!」と叫んだ。神田が笑った。俺も笑おうとして、また泣いた。
誰かが整列だと叫んだ。俺たちは落ちた帽子を拾い、泣いたまま列へ走った。
相手投手が目の前にいた。
口を結び、こっちを見ていた。汗が顎から落ちても拭かなかった。
俺は頭を下げた。顔を上げると、あいつも頭を下げていた。
*
校歌の歌詞を、途中から思い出せなかった。
辻の声を頼りに口を動かした。途中で久瀬が鼻をすすり、それが聞こえたらまた危なかった。
表彰が終わっても、なかなか試合が終わった気がしなかった。道具を片づけるためにベンチへ戻ると、ボトルが一本足りなかった。さっきまであれほど騒いでいたのに、みんなでベンチの下を覗いた。
大橋が座っていた足元にあった。
「お前かよ」
「すまん」
大橋がボトルを持ち上げ、空いた手で俺の肩をつかんだ。
「ありがとう」
正面から言われると、返事に困った。
「俺も出たかったから」
大橋は少し笑い、それからまた顔を歪めた。こっちも駄目になりそうだったので、俺はボトルを受け取って袋へ入れた。
球場の外で、母さんを見つけた。
人が多くて、すぐには近づけなかった。保護者も先生も、みんな似たような顔で笑っていた。泣いている人もいた。
母さんは俺を見ると、口元へ手を当てた。
俺は鞄を肩へかけ直した。
「録画」
「してる」
「ちゃんと?」
「してるよ」
母さんの声が笑っていた。
「俺のとこ」
「入ってるってば」
そこでようやく、俺も笑った。
母さんは何か言いかけて、やめた。俺の肩に手を置き、二度ほど強く押した。
「お腹すいた?」
試合前に食べたものが何だったか、思い出せなかった。ずっと腹が張っていた気がするのに、今は急に空いていた。
「すいた」
「何食べたい?」
「唐揚げ」
「また?」
「いっぱい」
母さんは頷いた。
集合を呼ぶ声がした。俺は鞄を持ち直し、バスのほうへ走った。
乗り込む前にマネージャーの藤井が、スコアブックを見せてくれた。俺が見たいと言ったからだ。
九回裏、九番の欄。
途中から入った俺の名前の横に、打った結果が書かれていた。
「これ、ヒット?」
「ヒット」
「エラーじゃなくて?」
「センター前ヒット。打点二」
指で触ろうとして、手が汚れていることに気づいた。触らずに、もう一度見た。
森田。
自分の名前だった。
「写真、撮っていい?」
藤井はスコアブックを両手で開き直した。
バスの中では、辻が何度も最後の走塁の話をしていた。小田がそのたびに訂正し、神田が動画を探そうとして先生に座れと叱られた。
俺は窓側へ座り、撮った写真を開いた。
後ろから久瀬が顔を出した。
「また見てる」
「まだ一回目」
「球場で三回見てました」
「スマホでは一回目」
久瀬は俺の画面を覗き込み、少し黙った。
「明日、何時に行きます?」
俺は顔を上げた。
明日。
朝起きたら、また練習がある。次の大会へ向けて、また先発の九人が選ばれる。俺が打った一本で、急に肩が強くなったわけでも足が速くなったわけでもない。
九番の背中は、まだ久瀬のものだった。
「いつもと同じ」
答えると、久瀬は頷いた。
「球、上げてもらっていいですか」
「お前が先?」
「明日は、俺が先で」
「じゃあ、片づけはお前な」
久瀬は笑って引っ込んだ。
バスが動き出した。窓の外で母さんが手を振っていた。俺も振った。見えなくなるまで振ってから、座席へ背中を預けた。
スマホの画面が暗くなった。
もう一度つけた。
写真の中に、俺の一本があった。
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