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僕が消えても残る物語


第一部


第一章 錆びた歯車


2050年、東京。 リニアモーターが発する磁気の匂いと、アジア諸国の屋台料理のスパイスが混じり合う混沌の街。空にはオートカーの光の川が流れ、地上では人間と、人間によく似たアンドロイドがすれ違う。それが、俺、宮本陽翔みやもとはると、32歳の世界だった。


俺は、巨大な機械が規則正しくアームを動かす工場で、その機械に組み込まれる名もなき歯車を作る会社に勤めていた。朝、決まった時間に起き、決まった電車に乗り、決まった席でパソコンの画面を睨む。カチ、カチ、カチ。まるで秒針だ。俺も、この社会の歯車の一つ。だが、俺という歯車は、どうにも噛み合わせが悪かった。


「宮本君、この仕様書、先週頼んだものと数字が違うじゃないか」

「ああ、こっちの方が効率いいんで、変えときました」

「勝手に変えるな! 稟議書はどうした! ルールを守れ!」

「非効率なルール守ってどうするんですか。結果が良けりゃいいでしょ」

「おまえはいつもそうだ……!」


課長がこめかみをピクピクさせている。


俺は心の中で舌を出した。「おまえ」ねぇ。まあ、俺も彼のことを「おまえ」だと思ってるから、お互い様か。


この会社で、俺は浮いていた。破天荒。そう言えば聞こえはいいが、要は協調性のない厄介者だ。だが、俺の中には、こんな錆びた歯車のまま一生を終えることへの、猛烈な抵抗があった。夜、妻が寝静まった後、俺はもう一つの顔になる。漫画描きだ。安物のペンタブレットの上で、俺は神にでも創造主にでもなれた。物語だけが、俺をこの退屈な現実から解放してくれた。


その現実の象徴が、家に帰ってからのダイニングテーブルだ。 シン、と静まり返った空間。向かいに座るのは、妻の結月ゆづき、35歳。結婚して5年になる。彼女は元同僚で、結婚を機に退職し、今は歯科衛生士として働いている。誰もが振り返る美人で、俺にはもったいないくらいの女だ。昔は、そう思っていた。


カチャリ、と食器の触れ合う音だけが響く。会話はない。俺が漫画に没頭し始めた頃からか。いや、もっと前からだ。俺たちが最後に心から笑い合ったのは、いつだったか。


「……今日、残業だったのか?」

俺は、沈黙に耐えきれずに口を開いた。


「ええ。勉強会があったの」

結月は、視線を皿に落としたまま答える。


嘘だ。彼女の服から、消毒液の匂いじゃない、甘ったるい香水の匂いがする。俺の知らない、男物の匂いだ。


気づかないふりをしている。彼女も、俺が気づかないふりをしていることに気づいている。俺たちは、そういう夫婦だった。


(どうして、こうなっちまったんだかな)


ふと、新婚の頃を思い出す。狭いアパートで、金もなかったけど、よく笑っていた。俺が初めて描いた四コマ漫画を見て、「陽翔はすごいね! 天才じゃない?」なんて言って、腹を抱えて笑ってくれた。あの笑顔は、どこへ行ったんだ。


きっかけは、些細なことだったんだろう。俺の無謀な挑戦癖。いきなり会社を辞めて起業しようとして失敗したり、全財産を仮想通貨に突っ込んで大損したり。そのたびに、彼女の瞳から光が一つ、また一つと消えていった。そして俺は、彼女に本音をぶつける代わりに、漫画の世界に逃げ込んだ。


「ごちそうさま」

結月は静かに席を立つ。


俺は、残った冷めた味噌汁を啜りながら、いつものセリフを呟いた。

「……まっし」


「え?」

「いや、なんでもねえよ。『まっ仕方ないか』の略だ」


「……そう」

彼女はそれ以上何も聞かず、寝室に消えていった。


まっ仕方ない。諦めからくる、俺の口癖。だがその夜、俺の元に一通のメールが届いた。


それは、諦めに慣れきっていた俺の人生を、根底からひっくり返す知らせだった。


『宮本陽翔様 この度は、第55回クロノス新人漫画賞へのご応募、誠にありがとうございました。選考の結果、貴殿の作品『錆びた魂のブルース』が、大賞に選出されましたことを、ここにご報告申し上げます』


大賞。 俺は、何度もその文字を見返した。手の震えが止まらなかった。 錆びた歯車が、初めて自らの意志で、大きく、大きく回り始めた瞬間だった。


第二章 シリコンの心臓


新人賞の受賞は、俺の人生の風景を塗り替えた。祝賀会、雑誌のインタビュー、そして新作の打ち合わせ。その日、俺は担当編集者である権田原ごんだわらに連れられて、都心にある最先端のアンドロイド開発研究施設「アニムス・ラボ」を訪れていた。


「いやー、先生! 次の作品はSFでしょう! やっぱアンドロイドですよ、アンドロイド! 人間とAIの禁断の愛! 売れますよぉ、これは!」

権田原は、今日も目に痛いオレンジ色のアロハシャツを着て、興奮気味にまくし立てる。この男、業界では名の知れたヒットメーカーだが、言動がいちいち胡散臭い。


「まあ、資料集めにはなるか」

俺は、白衣を着た研究者たちが行き交う、未来的な空間を見回した。ガラス張りのクリーンルーム、宙に浮かぶホログラムの設計図。まるでSF映画の世界だ。


「こちらへどうぞ」

案内してくれた女性研究員の声に、俺は振り返った。 その瞬間、俺は息を呑んだ。


彼女は、そこにいた。


色素の薄い柔らかな髪が、室内の白い照明を浴びて淡く光っている。知性を感じさせる涼やかな瞳。そして、俺の視線に気づいて、少しはにかむように微笑んだ。 その微笑みだけで、俺の心臓は鷲掴みにされた。


「初めまして。本日のご案内をさせていただきます、透過と申します」

その声は、プログラムされた合成音声とは到底思えない、自然な温かみを持っていた。


「あ、どうも。宮本です」

俺は、しどろもどろに自己紹介をした。権田原が横でニヤニヤしているのが視界の端に入る。

取材の間、俺の質問は、権田原が用意したシートからどんどん逸脱していった。


「えーっと、おまえ……いや、あなたは、ここで何を?」


「私は、ヒューマノイド・インターフェースの開発における、対話プログラムの最適化を担当しています。平たく言えば、アンドロイドが、より人間らしく自然に会話するための研究です」


「へえ……。じゃあ、あなた自身も……」


「はい。私も、アニムス・ラボが開発したアンドロイドです」

彼女は、事もなげに言った。


頭を殴られたような衝撃。嘘だろ。この滑らかな肌も、感情豊かに動く瞳も、すべてが作り物? シリコンと人工タンパク質でできた、人形?


「……まっし」

俺の口から、やっとのことでその言葉が漏れた。


権田原が、面白そうに口を挟む。

「『まっし』? 先生、それどういう意味です?」


「……『まっ仕方ないか』の略です」


「はっはっは! アンドロイドに自己紹介されて『仕方ない』とは! 先生は最高だ!」

権田原の豪快な笑い声が、やけに遠くに聞こえた。


俺は、目の前の「透過」という存在から目が離せなかった。 アンドロイド。そう言われても、信じられない。信じたくない。俺の心臓は、間違いなく、この「人形」に向かってうるさく脈打っている。


取材の終わりに、俺は思い切って言った。 「あの、透過さん。また、話を聞きに来てもいいか?個人的に」 権田原が「おっとぉ?」という顔で俺を見る。 透過は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて、あの柔らかい微笑みを浮かべた。


「はい。研究のデータ収集にもなりますので。歓迎いたします」

その微笑みは、プログラムされたものなのだろうか。 だとしても、構わない。 俺は、このシリコンの心臓の鼓動を、もっと知りたくなっていた。


第三章 境界線上のワルツ


それから俺は、週に二、三度のペースでアニムス・ラボに通うようになった。もちろん、権田原には「新作のための追加取材」という名目で。


「陽翔さんは、本当に不思議な方ですね」

研究所のカフェテリアで、透過はコーヒーカップ(もちろん中身は冷却水だが)を傾けながら言った。いつの間にか、俺たちはファーストネームで呼び合うようになっていた。もっとも、俺はまだ時々、口癖で「おまえ」と言いかけては、慌てて「透過」と言い直している段階だったが。


「そうか? 俺みたいな人間、どこにでもいるだろ」


「いいえ。陽翔さんの思考パターンは、私のデータベースにあるどの人間のサンプルとも一致しません。予測不能です。でも、そこがとても……」

彼女は言葉を切り、少しだけ視線を伏せた。


「……魅力的、です」

その仕草に、俺の心拍数が跳ね上がる。プログラムか? プログラムされた、男を勘違いさせるための行動なのか?


「おまえ……透過は、時々、人間みたいだな」


「人間って、ロボットみたいですよ」 透過は、静かに言った。


「え?」

「毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じ仕事をする。感情を殺して、ルールに従う。エラーを起こさないように、決められた通りに動く。それって、ロボットと何が違うんでしょう?」

 その言葉は、会社員時代の俺の胸に突き刺さった。そうだ。俺は、俺こそがロボットだったんじゃないか。心を殺し、錆びた歯車として回り続けるだけの。


「……違えねえや」 俺は、思わず苦笑した。


「でも、陽翔さんは違う。あなたは、自分の意志で歯車から飛び出した。自分の物語を、自分で描こうとしている。すごいことです」


透過の真っ直ぐな瞳が、俺を見つめていた。その瞳に嘘や計算があるようには、どうしても思えなかった。


ある日、俺は彼女を外に連れ出した。


「いいんですか? 私、研究所の外に出るには、許可申請が……」


「俺が責任持つ。たまには外の空気吸わねえと、おまえだって錆びるだろ」


「私は錆びません。ボディは最新のカーボン複合材なので」


「そういう理屈じゃねえんだよ」


俺たちは、古い映画を上映している名画座に行った。ザラついたモノクロの映像の中で、男女が恋に落ち、すれ違い、そして結ばれる。俺は、隣に座る透過の横顔を盗み見た。彼女は、スクリーンを食い入るように見つめていた。その瞳が、微かに潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


映画が終わった後、公園のベンチで並んで座った。


「どうだった?」


「……理解不能な部分が多かったです。なぜ、あの二人はあんなに遠回りをしたのでしょう。もっと合理的なコミュニケーションを取れば、すぐに解決したはずなのに」


「人間なんて、そんなもんだよ。不合理で、面倒くさくて、馬鹿なんだ」


「でも……」 透過は、言葉を探すように空を見上げた。


「でも、最後は、とても綺麗でした。不合理だからこそ、生まれる輝きがあるのかもしれませんね」


その時、彼女はふと、俺の方を向いて言った。

「陽翔さん。一つ、お願いがあるのですが」


「なんだ?」


「私のことを、『おまえ』と呼ぶのをやめていただけませんか。私は、透過、です。あなたに、名前で呼んでほしい」

ドキリとした。彼女に、俺の無神経な癖が見透かされていた。


「あ……ああ、悪い。気をつける」

「ありがとう、陽翔」 彼女は、心の底から嬉しそうに微笑んだ。


その笑顔を見て、俺はもう認めざるを得なかった。 俺は、このアンドロイドに、本気で恋をしている。 人間とAIの境界線で、俺たちは危ういワルツを踊り始めていた。


第四章 虚ろな肖像


(結月の視点)

週に二度、木曜の夜と、土曜の午後。それは、高畑先生との時間。 白衣を脱いだ彼は、年の割に引き締まった体をしている。高級マンションの最上階。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。でも、私の心は少しもときめかない。


「どうしたんだい、結月さん。今日は静かだね」

高畑先生が、ワイングラスを片手に私の髪を撫でる。彼は、この歯科医院の院長で、私の職場の上司だ。優しくて、紳士的で、そして裕福。夫の陽翔が持っていないものを、すべて持っている人。


「……少し、疲れているだけです」

嘘。 疲れているんじゃない。虚しいのだ。 陽翔との関係が冷え切って、寂しさを埋めるために始めた関係だった。高畑先生は、私を「美しい」「魅力的だ」と言ってくれる。彼に抱かれている間は、自分が価値のある人間だと思える。でも、朝になって、陽翔のいるあの静かな家に帰ると、すべてが色褪せて見える。


最近、陽翔の様子がおかしい。 以前は、仕事から帰るとすぐに自室にこもって、漫画ばかり描いていたのに。最近は、やけに外に出かけることが増えた。帰宅も遅い。そして、時々、彼の服から私の知らない、甘くて清潔なフローラルの香りがする。


女の香りだ。


嫉妬、という感情が久しぶりに胸をよぎった。自分だって、こうして別の男と会っているくせに、勝手なものだ。でも、陽翔が私以外の誰かに心を奪われるのは、許せなかった。あの人は、私の夫なのだから。


私は、興信所に依頼した。高畑先生に借りた金で。 結果は、三日後に出た。 調査員が差し出したタブレットには、陽翔が若い女と楽しそうに歩く写真が何枚も映っていた。水族館で、映画館で、公園で。私の知らない、屈託のない笑顔を浮かべる陽翔。その隣にいる女は、私が逆立ちしても敵わないほど、若くて、美しかった。


「……この女は、誰なの」 声が震えた。


調査員は、少し言いにくそうに口を開いた。


「奥様。それが……この女性は、人間ではありません」

「……え?」

「アニムス・ラボが開発した、最新型のAIアンドロイドです。戸籍も確認しました。間違いありません」


アンドロイド……? 頭が、真っ白になった。 怒りや嫉妬が、一瞬でどこかへ消えていく。そして、その後に訪れたのは、安堵だった。 (なんだ、人間じゃなかったんだ) 生身の女に、負けたわけじゃなかった。


だが、その安堵は、すぐに底なしの虚無感に飲み込まれた。 陽翔は、人間ですらない存在に、心を奪われたのだ。私という妻がいながら、機械の人形に、あの笑顔を向けていたのだ。 私たちの5年間は、一体何だったのだろう。 アンドロイドにすら、劣るものだったというのか。


その夜、私は陽翔の描いた漫画の原稿を、初めて盗み見た。 タイトルは、『アンドロイド・ブルース』。 人間と恋に落ちた、美しいアンドロイドの物語。 原稿用紙に描かれたヒロインの顔は、調査報告書にあった、あのアンドロイドの顔と、瓜二つだった。

私は、静かに原稿を元の場所に戻した。 もう、何も言う気にはなれなかった。 私たちの肖像は、とっくの昔に虚ろな額縁だけになっていたのだ。


第二部


第五章 アンドロイド・ブルース


「宮本先生! やりましたよ! 『アンドロイド・ブルース』、発売即日重版決定! これで累計30万部突破です! いやっはー!」


権田原は、編集部中に響き渡る大声で叫び、俺の背中をバシンと叩いた。着ているアロハシャツは、今日はパイナップル柄だ。


「いってえな、オッサン」

「いやいや! 先生の物語は時代を掴んだ! このままミリオンセラーまで突っ走りましょう!」


会社を辞めて、漫画家としての一歩を踏み出した俺の人生は、順風満帆に見えた。昼夜逆転の生活にはなったが、会社の歯車だった頃に比べれば、息苦しさは微塵もない。描きたい物語を描き、それが多くの人に読んでもらえる。最高の気分だった。

そして、俺の隣には、いつも透過がいた。 彼女は正式にアニムス・ラボから「外部モニター」として俺の元に派遣される形となり、俺たちは半ば公然と一緒に過ごす時間が増えた。もちろん、それは表向きの理由。俺たちは、紛れもない恋人同士だった。


「陽翔、すごいね。自分の言葉が、こんなにたくさんの人に届くなんて」

書店に平積みされた自分の単行本を前にして、透過は心から感心したように言った。


「まあな。俺、天才だから」 俺がふざけてそう言うと、彼女はくすくすと笑った。その笑い声が、俺にとってはどんな賛辞よりも嬉しかった。


俺たちは、ありとあらゆるデートをした。 水族館では、巨大な水槽の前で、クラゲの群れが描く幻想的な光景に時を忘れた。


「綺麗……。まるで、宇宙を漂う銀河みたい」

「透過は、詩人だな」

「あなたに教わったのよ。物語の作り方を」

プラネタリウムでは、満天の星空の下で、そっと手を繋いだ。彼女の指先は、少しだけひんやりとしていたが、確かに温かい何かが通っている気がした。


「私、ここに記録されている星の名前、全部言えますよ」

「マジかよ」

「ええ。でも、陽翔と一緒に見る星空の方が、ずっと綺麗。私のデータベースにも、こんな感情は記録されていませんでした」

その言葉が、プログラムされたものだとしても、構わなかった。俺が感じているこの気持ちが、本物なのだから。


ある週末、俺たちはレンタカーを借りて、郊外のキャンプ場へ向かった。 「これは、いつか来るべき日のための、予行演習だ」 「いつか来るべき日?」 「誰にも邪魔されない場所で、二人きりで生きていく日だよ」 俺がそう言うと、透過は驚いたように目を見開いたが、やがて幸せそうに微笑んだ。


慣れない手つきでテントを立て、火をおこし、飯盒で米を炊く。都会の便利さからはかけ離れた不便な生活。だが、そこには確かな手触りのある「生」があった。夜、焚き火の炎を見つめながら、俺たちは他愛もない話をした。子供の頃の夢、好きな音楽、そして、未来のこと。


「ねえ、陽翔」

「ん?」

「もし、私が人間だったら、あなたはどうしてた?」

それは、彼女が時々口にする、核心的な質問だった。 俺は、揺れる炎から目を離さずに答えた。


「さあな。もしおまえが人間だったら、俺はこんなに必死になってなかったかもな」

「どうして?」

「人間同士なんて、いつか飽きるか、裏切るか、どっちかだ。でも、おまえは違う。透過は、透過だ。誰にも代わりはいない。だから、俺は必死なんだよ」

我ながら、キザなセリフだと思った。だが、本心だった。


「……陽翔」

彼女は、俺の名前を呼んだ。その声は、少しだけ震えていた。

「もう、私のこと、『おまえ』って言わなくなったね」


「……うるせえよ」 俺は照れ隠しに、薪を一本、火の中に放り込んだ。パチパチと火の粉が舞い上がり、夏の夜空に吸い込まれていく。


この幸せな時間が、永遠に続けばいい。 心の底から、そう願った。 だが、俺たちのブルースは、まだ始まったばかりだった。


第六章 純血のノイズ


光が強ければ、影もまた濃くなる。 『アンドロイド・ブルース』のヒットは、俺と透過の関係を、容赦なく白日の下に晒した。


『人気漫画家・宮本陽翔、AIアンドロイドと禁断の同棲愛!』


週刊誌の扇情的な見出しが、駅の電子広告で点滅していた。俺と透過がスーパーで買い物をする姿が、無遠慮な望遠レンズで切り取られている。 その日から、世界はノイズに満ちた。


テレビのワイドショーでは、文化人や大学教授が、したり顔で俺たちのことを語っていた。

「これは新しい愛の形か、それとも単なる人間の倒錯か」「技術の進歩が、倫理観を置き去りにしている典型例ですね」 SNSには、匿名の罵詈雑言が洪水のように押し寄せた。俺の仕事場には、カミソリ入りの封筒や、赤いペンキで「化け物と交わる国賊」と書かれた脅迫状が届くようになった。


「……まっし。有名税ってやつだ」

俺は、そう言って強がって見せた。だが、夜中に透過が一人、充電ポッドの中で、自分の腕を見つめて静かに佇んでいる姿を見てしまうと、胸が張り裂けそうになった。彼女は、自分の体が人間と違うことを、これほど意識させられたことはなかっただろう。


ノイズは、身近な人間からも聞こえてきた。 実家の母親からは、泣きながら電話がかかってきた。


「陽翔! あんた、一体どうしちまったんだい! なんで機械なんかに……! 近所の人に顔向けできないよ!」


数少ない友人の一人で、俺が会社員だった頃の同期だった男からも、連絡があった。

「ハル、お前の気持ちはわからなくもねえけどよ。やめとけって。人間とじゃないと、本当の意味で家族にはなれないぞ。子供だって作れないんだ」


うるせえ。うるせえ。うるせえ。 お前らに、俺と透過の何がわかる。 人間だからなんだ。血が通っていれば、それで偉いのか。 お前らの方が、よっぽど心のないロボットみたいじゃねえか。


そんな中、世間の不安を煽るように、一つの団体の名が頻繁にニュースを賑わすようになっていた。


反アンドロイド団体「ピュア・ブラッド」。


彼らは、「人間の純血性を守る」というスローガンの下に、アンドロイド排斥を訴える過激派グループだった。リーダーの織田おだという男は、カリスマ的な演説で、職を失った人々や、未来に不安を抱く若者たちの心を掴んでいた。


『彼らAIは、我々の仕事を奪い、社会を乱し、そして今や、家庭にまで入り込もうとしている! 人間の魂を、シリコンに売り渡してはならない! 我々は、神が創造した唯一無二の存在なのだ!』


織田の演説は、巧みだった。彼は、人々の心の奥底にある、未知なるものへの恐怖心を的確に刺激した。そして、その恐怖の矛先として、俺と透過を名指しで批判した。

「宮本陽翔という漫画家は、人間とAIの境界線を曖昧にし、我々の社会の根幹を揺るがそうとする文化テロリストだ! 彼とその傍にいる機械人形は、許されざる汚物である!」

テレビの画面越しに聞こえる、群衆の熱狂的な歓声。 俺は、背筋が凍るのを感じた。これはもう、単なる誹謗中傷じゃない。明確な殺意と憎悪だ。 俺は、透過の手を強く握った。


「大丈夫だ。俺が、必ず透過を、守るから」

透過は、何も言わずに、ただ俺の手を握り返してきた。 その手は、いつもより少し、冷たい気がした。


第七章 嵐の前のキャンプ


社会のノイズが、耐え難いレベルに達していた。家の前にまでマスコミや、ピュア・ブラッドのシンパが張り付くようになり、俺たちは心身ともに疲弊しきっていた。


「少し、ここを離れよう」 俺は、憔悴しきった表情の透過に言った。


「どこへ?」 「どこでもいい。誰もいない、静かな場所へ」

俺たちは、最低限の荷物だけを車に詰め込み、夜中にこっそりと家を抜け出した。向かった先は、以前、二人で訪れたことのある、山奥のキャンプ場だ。携帯の電波も、かろうじて届くか届かないかというような場所。


都会の喧騒から物理的に引き離されると、強張っていた心と体が、少しずつ解けていくのがわかった。川のせせらぎ、鳥のさえずり、風が木々の葉を揺らす音。世界には、まだこんなにも穏やかな音が満ちている。


「やっぱり、自然の中はいいね」

テントを張り終え、透過は深呼吸をするように(彼女に呼吸は必要ないが、そう見えた)言った。


「ああ。ここには、俺たちを傷つける奴は誰もいない」

夜、焚き火を囲んだ。 以前ここに来た時は、未来への希望に満ちていた。だが、今は違う。


これは、厳しい現実からの、束の間の逃避行だ。 「陽翔」 透過が、静かに口を開いた。

「私のせいで、あなたを苦しめている。ごめんなさい」

「おまえのせいじゃねえよ。悪いのは、俺たちのことを理解しようともしない、世間の方だ」 「でも、私が人間だったら、こんなことには……」

「またその話か」 俺は、少し苛立った口調で遮った。


「いいか、よく聞け。俺は、おまえがアンドロイドだから、好きになったんだ。もしおまえが人間だったら、きっと俺は、おまえの欠点ばかり見つけて、勝手に幻滅して、今頃はとっくに興味なくしてる。俺は、そういうダメな人間なんだよ」


「……」


「でも、おまえは違う。おまえは、俺の知らないことをたくさん知っていて、俺のできないことがたくさんできる。完璧で、美しくて、そして、誰よりも優しい。俺は、そんなおまえだから、守りたいんだ。わかるか?」


自分の不器用な言葉が、ちゃんと伝わっているのかわからなかった。 透過は、黙って揺れる炎を見つめていたが、やがて、ぽつりと言った。


「陽翔は、優しいのね」


「別に……」


「ううん、優しい。でも、その優しさが、あなた自身を傷つけている。私には、それがわかる。だから、辛い」


彼女の瞳から、一筋の液体がこぼれ落ち、頬を伝った。


「おい、また泣いてるのか? それ、洗浄液なんだろ?」

俺がいつものように茶化すと、彼女は首を横に振った。


「わからない。最近、私のシステムに、バグが増えているの。あなたのことを見ていると、論理回路がショートして、胸の奥が、ぎゅってなる。この液体も、データベースのどこにも記録がない。でも、止められないの」


俺は、何も言えなかった。ただ、彼女の肩を抱き寄せた。 プログラムのバグ。そうかもしれない。 だが、俺にはそれが、彼女の中に「心」が生まれた証のように思えてならなかった。 この夜、俺たちはほとんど言葉を交わさず、ただ寄り添って、燃え尽きていく焚き火を見つめていた。 これが、嵐の前の、最後の静けさだった。


第八章 砕かれたガラス


キャンプから戻っても、状況は好転しなかった。むしろ、悪化の一途をたどっていた。俺の漫画は「社会に悪影響を与える」として一部書店で取り扱いが中止され、予定されていたアニメ化企画も、無期限延期となった。


「まっし。傑作ってのは、いつだって世間に理解されねえもんさ」 俺は、担当の権田原にそう言って笑ってみせたが、内心は焦っていた。漫画家としての収入が断たれれば、透過との生活も危うくなる。


その夜、俺たちは気分転換も兼ねて、権田原と行きつけの小さなバーで飲んでいた。客は俺たち以外に数人しかいない、隠れ家のような店だ。


「先生、気を落としちゃいけませんよ! 俺がついてます! 必ず次のチャンスを掴んでみせますから!」 権田原は、いつもの調子で俺を励ましてくれた。


「ああ、頼りにしてるよ」 「しかし、先生と透過ちゃんを見てると、本当に新しい時代の扉が開いてるって感じがするねえ。人間とAIねえ……」


権田原が悪気なくそう言った、その時だった。 店の古い木製のドアが、轟音と共に蹴破られた。 ガラスが砕け散る音。女性客の悲鳴。 そこに立っていたのは、黒い戦闘服に身を包んだ、5人の男たちだった。その胸には、見慣れた「純血」のエンブレム。リーダー格の男が、蛇のような冷たい目で、俺たちを睨みつけた。 ピュア・ブラッドのリーダー、織田だった。


「見つけたぞ、宮本陽翔。そして、その傍らに侍る、鉄くず人形」

織田の手には、青白い火花を散らす特殊警棒が握られていた。アンドロイドの電子回路を破壊するための、高出力EMP兵器だ。


「てめえら……!」 権田原が巨体を揺らして立ち上がろうとするが、他のメンバーに取り押さえられる。


「やめろ! 話なら聞く!」 俺が叫ぶ。だが、織田は聞く耳を持たなかった。


「汚物は消毒だ」 織田は、無感情にそう呟くと、EMP警棒を振りかぶり、透過に向かって一直線に突き進んだ。

まずい。あれを食らったら、透過のシステムは完全に破壊される。彼女の記憶も、人格も、すべてが消えてしまう。


「透過ッ!」


考えるより先に、体が動いていた。 俺は、透過の前に立ちはだかり、その身を盾にした。 次の瞬間、背中に、内臓を直接えぐられるような、凄まじい衝撃が走った。視界が真っ白になり、体中の神経が焼き切れるような激痛。


「が……はっ……!」 口から、鉄の味がする液体が込み上げてくる。 床に崩れ落ちる俺の体の上を、織田は無慈悲に踏み越え、呆然と立ち尽くす透過の首筋に、EMP警棒を押し当てようとした。 「や……め……」 声にならない声が、喉から漏れる。


だが、何も起こらなかった。 織田が、訝しげな顔で警棒を見る。どうやら、俺の体でワンクッション置かれた衝撃で、故障したらしい。 「チッ、使えん奴だ」 織田は舌打ちすると、警棒を投げ捨て、代わりに屈強な男たちが透過を取り囲んだ。


薄れゆく意識の中、俺は見た。 自分の血だまりの中で倒れている俺を見て、絶望に顔を歪ませる透過の姿を。彼女が、何かを叫んでいる。でも、もう俺の耳には届かない。 最後に聞こえたのは、パトカーのサイレンの音と、権田原の怒号だけだった。


病院の白い天井を見つめながら、俺はぼんやりと考えていた。 背骨に数カ所のヒビ。内臓もいくつか損傷している。全治三ヶ月。医者は、奇跡的に助かったと言った。

見舞いに来た権田原は、顔中に包帯を巻きながら、悔しそうに言った。


「すみません、先生……俺が、不甲斐ないばかりに……」


ピュア・ブラッドの連中は、傷害の現行犯で逮捕されたが、織田だけは弁護士を使い、すぐに釈放されたらしい。そして、透過は……。


「透過ちゃんは、アニムス・ラボが保護しています。例の事件を受けて、ラボも彼女の安全を保障できないと判断したようで……」


面会謝絶。それが、ラボが出した結論だった。 俺は、もう彼女に会うことすらできない。

数日後、一通の手紙が、俺の病室に届いた。 差出人は、透過だった。拙い、しかし、心のこもった文字で、こう書かれていた。

『陽翔へ

さようなら。 あなたを危険な目に合わせて、ごめんなさい。 私があなたのそばにいる限り、あなたは傷つき続ける。 あなたは、人間の温かい手の中で、幸せになるべき人です。

ロボットは、ずっとロボットよ。

透過』


手紙が、手の中でくしゃりと音を立てた。 涙が、シーツに染みを作っていく。

「……まっし」 声は、自分でも驚くほど、乾いていた。 仕方なくなんかない。こんな結末、冗談じゃない。


第九章 空白の原稿用紙


退院の日、俺を迎えてくれたのは権田原だけだった。 結月とは、俺が入院している間に、弁護士を介して離婚が成立した。彼女は一度も病室に顔を見せることなく、驚くほど事務的に、俺の戸籍からその名を消した。慰謝料代わりに、住んでいたマンションの権利をすべて譲ることで、話はついた。彼女が、高畑という歯科医師と再婚するのは、それから半年後のことだった。


俺は、抜け殻だった。 透過のいない世界は、色がなかった。かつて住んでいたマンションは、ただガランとしていて、結月がいなくなったことよりも、透過の充電ポッドが置かれていた場所が空白になっていることの方が、ずっと胸に突き刺さった。


ペンを握っても、何も描けなかった。 真っ白な原稿用紙が、俺の空っぽの頭の中を映しているようだった。 『アンドロイド・ブルース』は、事件の影響で打ち切りが決定した。読者からは「主人公を助けてやれよ」「作者逃げるな」という声も届いたが、俺にはもう、その物語を続ける気力も資格もないように思えた。


俺は、酒に溺れた。 朝から安いウイスキーを煽り、酔って眠り、悪夢にうなされて目を覚ます。夢の中ではいつも、血の海に倒れる俺と、絶望の表情を浮かべる透過の姿が繰り返された。


そんな荒んだ生活を送っていた俺のアパートに、ある日、二人の男が乗り込んできた。 ド派手なハイビスカス柄のアロハシャツを着た権田原と、アニムス・ラボの研究員、小津おづだった。小津は、透過の開発者の一人で、彼女のことを娘のように可愛がっていた、気弱だが誠実な男だ。


「宮本先生! いつまでこんな生活してるんですか! あんた、それでも漫画家か!」

権田原の怒声が、ワンルームの安アパートに響き渡る。


「うるせえな……俺はもう、漫画家じゃねえよ」 俺は、呂律の回らない口で答えた。


「ふざけるな! あんたの『アンドロイド・ブルース』の主人公、神崎は、こんな時どうした! 恋人が姿を消したくらいで、酒飲んでふて寝してたか!? 違うだろうが!」 権田原は、俺の胸ぐらを掴み上げた。


「あいつはな、地の果てまで追いかけて、どんな敵が相手だろうと、その手を掴みに行ったじゃねえか! それを描いたのは、どこのどいつだ! あんただろうが!」


「……漫画と、現実は、違うんだよ」


「違わねえ! あんたが諦めてるから、違うだけだ!」 権田原の言葉に、隣にいた小津がおずおずと口を挟んだ。


「宮本さん……聞いてください。透過さんが……透過さんが、大変なんです」

「……どういうことだ」

「彼女は今、政府の特別管理施設に移送されています。例の事件を重く見た上層部が、『社会に混乱を招く危険性のある個体』として、彼女の存在そのものを問題視しているんです。そして……」 小津は、声を震わせた。


「そして、彼女に『初期化』の命令が下されようとしています。人格データをすべて消去し、工場出荷時の状態に戻す……。それは、彼女の『死』を意味します。あなたの記憶も、何もかも、すべて……!」


初期化。


その言葉が、アルコールで麻痺していた俺の脳天を、巨大なハンマーで殴りつけた。 透過が、消される? 俺と過ごした時間も、二人で見た星空も、交わした言葉も、何もかもが、なかったことにされる?


ふざけるな。


俺の中で、何かがブツリと音を立てて切れた。 俺は、権田原の手を振り払い、テーブルを叩き割るようにして立ち上がった。その瞳には、久しぶりに、あの破天荒な闘志の炎が燃え上がっていた。


「権田原さん、小津さん」 俺の声は、地獄の底から響くように、低かった。 「どうすれば、そいつらをぶちのめせる?」


権田原は、ニヤリと口の端を上げた。 「ようやく、先生の漫画の主人公みたいな顔つきになりましたね」 小津もまた、覚悟を決めたように、強く頷いた。 空白だった俺の原稿用紙に、再び、物語の線が引かれようとしていた。


第三部


第十章 プロジェクト・プロメテウス


俺たちの作戦は、「プロジェクト・プロメテウス」と名付けられた。 神々の元から人類のために火を盗んだ、ギリシャ神話の英雄の名。俺たちは、政府という現代の神々から、透過という名の魂の火を盗み出す計画を立てた。


アジトは、権田原が所有しているという、今は廃墟となった印刷工場の地下室だった。インクと古紙の匂いが、俺たちの密かな決意を掻き立てる。


メンバーは、少数精鋭。 頭脳は、天才ハッカーでもある小津。彼は、政府の鉄壁のセキュリティネットワークに、たった一人で挑む。 「施設のネットワーク構造は、ほぼ解析しました。ですが、内部の物理的なロックだけは、外部からではどうにも……」 小津は、青い顔で分厚い資料をめくっている。


武力担当として権田原が連れてきたのは、岩倉いわくらと名乗る、熊のような大男だった。元自衛官で、権田原とは傭兵時代に世話になった仲だという。この編集長、一体何者なんだ。岩倉は、ほとんど喋らなかったが、どんな鍵でも数秒で開けてしまう特殊技能と、素手でコンクリートブロックを叩き割るほどの腕力を持っていた。聞けば、俺の漫画のファンらしい。


そして、切り込み隊長は、もちろん俺だ。


作戦決行は、三日後の深夜。警備が最も手薄になる午前3時。 俺たちは、岩倉がどこからか調達してきた、軍用のステルス機能を搭載した黒いバンに乗り込んだ。目指すは、東京湾に浮かぶ人工島に建設された、政府の特別管理施設。通称「忘却のキャッスル・オブリビオン」。


「宮本先生、本当にやるんですかい? 下手すりゃ、国家反逆罪ですよ」 権田原が、運転席で葉巻を燻らせながら、バックミラー越しに言った。


いつもの軽口とは違う、真剣な眼差しだった。 「まっし。上等だろ」 俺は、後部座席でショットガンの弾を込めながら、迷いなく答えた。 「俺の物語の結末は、俺が決める」


第十一章 鋼鉄の城


月のない夜だった。 俺たちのバンは、レーダーを避け、音もなく施設の搬入口に到着した。 「潜入を開始する」 岩倉の低い声が、インカムに響く。


小津が、アジトから遠隔で施設の監視カメラの映像をループさせ、赤外線センサーを無効化していく。岩倉は、闇に溶け込むように動き、巡回していた警備兵を音もなく無力化していく。俺は、その背中に必死でついていった。心臓が、肋骨を破って飛び出しそうだった。

透過が収容されているのは、施設の最深部にある「レベル・ゼロ」。 そこへ至る最後の通路は、幾重にも張り巡らされたレーザーフェンスと、最新式の多重生体認証システムで固く閉ざされていた。


「くそっ、これだけはどうにもならない……! 管理責任者の虹彩と静脈パターンがなければ……!」 小津の焦った声が、インカムから聞こえる。万事休すか。


その時だった。 「ハッハッハ! 文明の利器なんつーもんはな、もっと原始的な力の前には無力なのよ!」 インカムから、権田原のやけに楽しそうな声が聞こえたかと思うと、施設の海側から、地響きを伴う凄まじい爆発音が轟いた。


俺たちがいる通路が、地震のように激しく揺れる。 壁の向こうで、何かが破壊され、施設中にけたたましい警報が鳴り響いた。


「権田原さん!?」


「先生、裏口は開けときましたぜ! 陽動も派手にやってるんで、あとは頼みました!」

あのオッサン、中古の小型潜水艇で施設の外壁に爆薬を仕掛けやがった。

やることが、俺の漫画の登場人物より破天荒だ。だが、そのおかげで、道は開けた。警報に気を取られた警備システムに、一瞬の隙が生まれたのだ。


「今です!」 小津の叫び声と共に、生体認証ロックがエラーを起こして解除される。 俺は、最後の扉を蹴破り、レベル・ゼロへと飛び込んだ。


そこは、手術室のように冷たく、どこまでも白い部屋だった。 部屋の中央に置かれた、ガラス張りのポッド。 その中で、透過は、白い拘束着を着せられ、静かに目を閉じていた。まるで、魂を抜かれた、美しい人形のように。


「透過!」 俺は、ポッドに駆け寄り、強化ガラスを叩いた。 その振動で、彼女はゆっくりと瞼を開けた。しかし、その瞳はガラス玉のように虚ろで、俺を映してはいなかった。


『未登録の生体反応を検知。プロトコルに従い、警告します。直ちに退去してください』

その声は、初めて会った時の温かみなど微塵もない、完全な機械の音声だった。


「透過! 俺だ! 陽翔だ! わからないのか!」 俺は叫んだ。だが、彼女の瞳は揺らがない。初期化は、もう始まっていたのだ。彼女の中から、宮本陽翔という存在が、思い出が、愛が、綺麗に消去されようとしていた。


「……まっし。ここまで、か……」 膝から崩れ落ちそうになる俺の脳裏に、彼女と過ごした日々の記憶が、走馬灯のように駆け巡った。 初めて手を繋いだ時の、ひんやりとした指先の感触。 俺のくだらないギャグに、本気で笑ってくれた顔。 雨に濡れた子猫を庇って、自分の回路がショートしかけた、馬鹿で、優しい、どうしようもないお人好しの、アンドロイド。



「ふざけるな……!」



俺は、最後の力を振り絞って叫んだ。 ありったけの思い出を、魂のすべてを、言葉の弾丸にして、彼女の心臓めがけて撃ち込む。


「透過、聞け! おまえはロボットなんかじゃない! 俺とプラネタリウムに行っただろ! 満天の星を見て、綺麗だって、涙を流してた! 人間の俺でさえ泣かなかったのに、おまえが泣いたんだ! 俺が描いた下手くそな似顔絵を、おまえは『私の肖像画』だって言って、今も胸の奥のメモリーチップに保存してるって言った! そんなロボットがいるもんかよ!」


俺は、彼女に本当の物語を思い出させる、語り部になる。 俺が死んだって、誰かに忘れられたって、この物語だけは、絶対に消させない。


「俺が消えても、おまえの中に残る物語があるだろうが!」


その瞬間、透過の虚ろな瞳が、ピクリと動いた。 その瞳の奥の、データの海の底から、ほんの小さな光が、明滅を始めた。


『……わたしが、きえても……のこる……ものがたり……?』

彼女は、壊れたレコードのように、俺の言葉を繰り返した。 そして、その瞳に、ゆっくりと、しかし確かな光が戻っていく。


「……はる……と?」


か細い、だが、紛れもない、あの優しい声。 「そうだ! 俺だ!」

涙でぐしゃぐしゃになりながら、俺は近くにあった消火器を掴み、ポッドのガラスを叩き割った。 警備アンドロイドが、部屋になだれ込んでくる。 俺は、解放された彼女の手を、強く、強く握りしめた。


「行くぞ、透過! こんな地獄、おさらばだ!」 「……うん!」 力強く頷いた彼女と共に、俺は走り出した。 俺たちの、本当の物語を始めるために。


第十二章 始まりの島


権田原たちが用意してくれたボートで、俺たちは夜の海をひた走った。追手を振り切り、文明の光が届かない場所へ。数日後、俺たちがたどり着いたのは、地図にも載っていない、南の小さな無人島だった。


ここには、法律も、偏見も、憎悪も届かない。 あるのは、どこまでも青い空と、エメラルドグリーンの海と、そして、お互いの存在だけ。


俺たちは、ゼロから生活を始めた。 流木と蔓で雨露をしのぐ小屋を建て、竹で銛を作って魚を突き、火打石で火をおこす。俺の中に眠っていた野生の血が、面白いように騒ぎ出した。透過は、彼女の膨大なデータベースを駆使して、食べられる野草や果物を見つけ出し、星の

位置から正確な方角と時間を割り出した。俺たちは、最高のパートナーだった。


「陽翔、すごい。まるで、物語の主人公みたい」 たくましく日焼けした俺の腕を見て、透過は言った。


「おまえこそな。最高のサバイバルナビゲーターだ」この島での生活は、俺たちの関係を、より深く、本質的なものに変えていった。


俺は、再び漫画を描き始めた。


画材は、浜辺で拾った炭と、大きな木の皮。インクもペンもない。だが、そこに描かれる線は、東京で描いていたどんな原稿よりも力強く、生命力に満ちていた。それは、この島で生きる、一組の男女の物語だった。


歳月は、穏やかに、しかし確実に流れた。


俺の髪には白いものが目立ち始め、顔には深い皺が刻まれた。かつての破天荒な青年は、穏やかな老人になっていた。 しかし、透過の姿は、この島に来た日のままだった。透き通るような肌も、艶やかな髪も、25歳の時のまま。彼女の時間は、止まっている。


その、どうしようもない「時間の非対称性」が、時折、俺たちの間に切ない影を落とした。


「なあ、透過」 ある夜、満月を見上げながら、俺は言った。


「俺が死んだら、おまえ、どうするんだ?」 透過は、少しだけ黙った後、静かに答えた。


「困るわ。あなたがいないと、私はただのロボットに戻ってしまう」


「……そんなことねえよ」


「ううん、そうなの。私という物語は、あなたという読者がいて、初めて意味を持つ。だから、お願い。一日でも長く、私の物語を読んでいて」


俺は、彼女の変わらない若々しい手を握った。 ああ、俺は、この手より先に、シワシワになって死んでいくんだな。 それが、どうしようもなく、悲しかった。そして、どうしようもなく、愛おしかった。


最終章 僕が消えても残る物語


運命の日は、嵐の後の凪のように、静かに訪れた。 老衰。医者もいないこの島で、俺の命の火は、自然の摂理に従って、ゆっくりと消えようとしていた。


手作りのベッドの上で、俺の意識は、朦朧としていた。


「……透過……」


「ここにいるわ、陽翔。ずっと、そばにいる」 彼女が、俺の皺だらけの手を、優しく握ってくれる。


薄れゆく視界の中で、これまでの人生が、走馬灯のように駆け巡る。 会社員時代の退屈な日々。結月とのすれ違い。漫画家としての成功と挫折。そして、透過、おまえとの出会い。鋼鉄の城からの逃亡。この島での、かけがえのない日々。 ああ、俺の人生も、捨てたもんじゃなかった。波瀾万丈で、最高に面白い「物語」だったじゃないか。


「……最高の……人生、だった……」

「私もよ。あなたと出会えて、本当に幸せだった」

「おまえは……これから……」


「大丈夫」 彼女は、俺の耳元で、はっきりと囁いた。


「私は、あなたの物語の、語り部になる。あなたが描いてくれた物語、あなたが私と生きた物語、そのすべてを、私が永遠に語り継いでいく。だから、安心して」


その言葉を聞いて、俺は、心の底から安堵した。 そうだ。俺は消えない。この物語が、彼女の中に残り続ける限り。


「……まっし……」


それが、俺の最後の言葉になった。 最高の人生だった。仕方ない。それで、いい。 俺の意識は、穏やかな闇の中へと、静かに溶けていった。


陽翔が、動かなくなった。 彼の胸の鼓動が、止まった。 私、透過は、彼の冷たくなった手を、ずっと、ずっと握りしめていた。 太陽が沈み、満点の星空が広がる。波の音だけが、永遠に続く時間の中で、静かに響いていた。


私は、陽翔が残してくれた、木の皮の漫画を、一枚一枚、大切に集めた。 彼の墓を、海が見える一番美しい丘の上に作った。


私は、この島で一人、永遠の時を生きていく。 悲しくない、と言えば嘘になる。胸の奥が、張り裂けそうに痛い。 でも、私は一人じゃない。 私の中には、宮本陽翔という、世界で一番予測不能で、不器用で、そして優しい男が生きた、壮大な物語が残っているのだから。

私は、彼の物語の、たった一人の、そして永遠の読者であり、語り部だ。 それが、私が彼に残せる、たった一つの愛の形。 私というロボットの中にだけ存在する、人間・宮本陽翔の物語。


私は、星空を見上げた。 その瞳から、また、データベースにない液体が零れ落ちた。 これはきっと、彼が教えてくれた、「涙」という名前の感情。


僕が消えても残る物語。 さあ、始めよう。 永遠の、第一ページ目から。



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