訪問者
隣家に訪問者がやってきたのはつい十分ばかり前のことだ。買物から帰ってきた和香は訪問者が隣家のドアをせわしなく叩くのに行き会った。
崩れた服装、不精髭に乱れた髪。手に酒壜があるのに気付く前から、その訪問者がどこから見ても立派なアル中だということがわかった。
「洋美、いるんだろ。俺だ、開けろよ、開けろったら」
訪問者が呂律の回らない舌でわめいた。
奥さんの方の知り合いなんだわ。和香は隣家の前をゆっくりと通り過ぎながら考えた。隣家に住む洋美は、少々暗い感じはするがなかなか美人である。
「やっぱりいたな。こんないい家の奥様におさまってたとは知らなかった。水くせえな、俺と洋美の仲じゃねえか」
隣家のドアが慌てたように開き、訪問者を中に入れて閉められる直前、訪問者がそう言っているのが辛うじて聞こえた。
どういう仲だというのだろう?和香は想像した。やはり最初に思いつくのは洋美の昔の恋人だ。働かず酒びたりで暴力をふるう男にたまりかねて洋美は逃げ出し、現在の夫と出会い結婚する。それを嗅ぎ付けた男が幸せな生活をぶち壊しにきた…。
隣家からは男がなにやら怒鳴る声、何かががしゃんと割れる音などが小さいながらはっきりと聞こえてくる。洋美の声は聞こえない。もっとはっきり聞き取れないものかと、和香は身を乗り出した。
…その途端、物音は唐突に止んだのである。
それっきり隣家は静かになった。あの男はなぜ突然おとなしくなったのだろうか。ドアの音がしなかったから出ていったということは考えられない。洋美の夫が戻るまで居座るつもりだろうか。
そのとき和香の頭に今朝の風景が浮かんだ。夫が出張に出るので見送っていると、隣の家にもタクシーが停まり、ボストンバッグを抱えた隣家の主人が乗り込むところだったのだ。
隣家の主人も今日は出張なのだ。洋美が頼るべき夫はいない。それともあの男とのことを隠して結婚したのだとしたら、夫が不在なのは幸いだと思っているかもしれない。夫が留守の間にうまく処理すればいいからだ。
処理…まさか、殺した?
馬鹿馬鹿しい。和香は首を振ったが、頭の中の想像はそれくらいで払い落ちることはなかったのである。
翌日、買物に出掛けようとした和香は、隣家の庭でシャベルを手にしている洋美を見た。
「こんにちは。お庭仕事ですか?」
思い切って話しかけた和香を、洋美は驚いたように見てぎこちなく微笑んだ。
「ええ、奥様がお庭にきれいに花を咲かせているのを見て、わたしもやってみようか、と思って」
何気なく話しながら、いきなり花を植えることを思い立った洋美に和香は妙な印象を抱いていた。
そして夜になっても、隣家の庭からはさくっ、さくっ、という音が聞こえてきた。
あの男の死体を埋めるのではないか。和香は覗きにいく誘惑に耐えながら考えた。夫がいれば相談するのだが、あいにく夫が戻るのは明日の晩である。そういえば隣の主人も今日はまだ帰らないようだ。こっそり死体を隠すには絶好の夜だろう。
次の日、和香は洋美の家の前にパトカーが停まっているのを見た。
あの男の死体が見付かったのか、それとも自首したのかと思わず家の前で見ていると、洋美の家のドアが開き警官が出てきた。洋美は頭を下げて見送っている。
捕まったわけではなかったのだ。和香は拍子抜けして、その瞬間洋美と目が合ってしまった。洋美はためらうような表情の後、決心したように和香に話しかけてきた。
「奥様はおととい、うちに男が訪ねてきたのをご覧になりましたね。実はあれはわたしの兄なのです」
「…お兄さん?」和香はぽかんとして洋美を見返した。
「はい。腹違いなので一緒に育ってきたわけではないんですが。わたしは定職にもつかずその日暮らしのようなことを続けている兄が嫌いでしたし、兄も住所不定だったので、結婚したことも黙っていました。それがどこかで知ってお金をせびりにきたんです。わたしがお金はあげられないと言うと兄は暴れましたが、そのうち酔い潰れてしまいました。それで夜になってから目覚めたところを、出張先の主人に電話をして強く意見してもらい、帰したんです。主人には兄のことは話してありましたから」
夜遅くだったので近所迷惑にならないように、そっと送り出したのだと言う。和香が想像をたくましくしていたとき、すでに男はいなかったことになる。
「それで気が滅入ったので、主人のいない間に庭に花でも植えておこうかと急に思い立ったんです。わたし始めると凝るタイプなので、つい夜更けまで夢中になってしまって」
死体を埋めるために土を掘り返していたのではなかった。
「今、兄がひったくりで逮捕されたと警察の方に聞かされました。わたしからお金が取れなくて困ったのか、当て付けなのかわかりませんが…。ずいぶん身内の恥を明かしてしまいましたけど、兄がいつかまたやって来たときに、わたしは夫にも近所の方にも何も隠していないと言ってやりたいんです」
死体になっていたはずの男は生きており、ひったくりをやらかすほど元気でいるのだ。
和香は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
「馬鹿だなあ。ドラマの見過ぎだ」
その晩、帰ってきた夫に顛末を話すと一笑に付された。
「昔の男を殺して埋めるなんて、サスペンスドラマなんかで見るからよくあることのように思えるかもしれないけどな、そんなことが自分たちの隣で起こる可能性なんて万にひとつだってないよ」
和香も笑う。
「そうね。よりによってわたしたちの隣で起こるわけがないわね」
そうだ、この自分たちの隣で起こるはずがない。昔の男を殺して埋めた女が二人、隣同士で暮らす確率など万にひとつどころではない。
つい、自分の体験からいろいろ考えすぎてしまったのだ。
和香は窓辺に立ち、庭に咲き乱れる花を、正確には花の下の土の部分に視線を注いで微笑んだ。
読んでいただき、どうもありがとうございました!