人の倫 はずれどうし
「だいたい、アイツがいけないじゃない」
走ると息が上がっていやになる。
ハイヒールなんて走るのに不向きなものは脱ぎ捨てた。ちょっぴりの快適性に、足裏に食い込むアスファルト。
されど、その全てが気にならないほどの脅威が、背後にはあった。
「アナタ、不倫、しましたね?」
ロボット特有の合成音声。人に似て、恐怖の谷を超えないほどには人でない特有の声色。
「……知らなかったのよッ」
走りながらも、絶叫のように答える。
「不倫。人倫にもとる行為。人でなし。ヒトでないあなたに、我々のルールは適応されません」
「適用する気もないんでしょう!!」
見れば明らかだ。車輪のついたこけしみたいな見た目は、法定速度を超過して走っていた。警備ロボに許される行為ではない。相手が人でない場合を除いては。
「ありません。人に似て人を害する存在を、我々は許容しません」
「でしょうねッ」
バックを漁る。護身用に持っていたスタンガンがあるはずだ――いつまでも逃げられはしないのだから、どこかでどうにかして突破しなくてはならない。スタンガン一つでなんとかなるものかはしらないけれど。
「不倫など、許されるはずもありません」
「知らなかったっていってるでしょう!!」
「結婚指輪をつけている男性と行為に及んで、気づかなかったと?」
「……女避けだっていうんだもの!!」
「部屋の生活感に2人分の私物を見ながら、何も思わなかったと?」
「前の彼女が勝手に出て行ったってことでしょう!!」
「私物を引き上げず? ありえないでしょう。私有財産の保全は人間にとって重要極まりない権利です」
「……なら、アイツの言葉を疑ってかかればよかった?」
「そうです。信じたあなたが無実なんてことはありません。知らなかったで済むことなどまずないのです。なにより、あなたには特有の心の音があった……あのマンションの警備を司ってる私がいうのだから間違いありません」
――聞きたくはなかった。
「あなたには、騙されてもいいという未必の恋の音がありました」
漁るバックからハンカチがこぼれ落ちる。彼にプレゼントでもらったもの――捨てられないまま、持ち続けてしまっていたもの。
拾わなければいいのに、体は勝手に止まってしまう。
「――逃げるのはおやめください。危ないので。ああ、いえ、あやうくうまく殺せないかもしれないので」
目の前にはスタンガンなんて目じゃないくらい高出力のスタンバトン。気絶と仮死状態の合いの子ぐらいに陥らせる凶器がそこにあった。
「危ないのはどっちかしら?」
スタンガンを突きつけながら答えるも、
「私は人間とは違って、絶縁仕様になっています」
簡単に可能性は否定される。逃げる道は、基本的にはもう、ない。
「待った待った。逃げません。逃げませんから優しくしてちょうだい」
もう、やけだ。
基礎スペックが違う。どうとでもなれ。どうにもならない。ずっといっしょ。いつからいつまでも、私にはどうにもならないし、なるようにしかならない。いや、どうとでもなれ。
生きてるような死んでるような人生だ、今更どうということもないだろう。
「人に優しくない存在に、優しくする必要があるでしょうか?」
「優しさというのは自分が蒔くから帰ってくるものだと知っている?」
「返報性の話であればあなたが先に優しさを返すべきでしょう?」
「……さて、私が優しくなかったと思う?」
「ええ、人を害するものだと」
「人が普通に生きていて、人をわずかでも害さないでいられるかしら?」
「人と人が関わる以上、それは仕方のない部分もあるからしれません。が、あなたのそれは度を超えた。あなた方よくて終身刑は免れません」
終身刑。まあそれはソレ。そうなのかもしれない。
けれど、あなた方?
「待った、そこまでのこと? 酔った勢いだったのよ。お互いに、悪くなかった。」
「なら、酒の提供者が悪いと?」
歯噛みする。それじゃあダメだ。
「――OK、酒の勢いはあったけどそこは不問でいいわ」
「不問にするかどうかはこちらが決めることです。それにしても、なんですかあなたは」
「わたし? ろくでなしのひとだよ」
「人でなしというのです。貴方は、人を名乗るには足りません」
「あら、ロボットにはついに人と人以外を区分する線引きの機能すら与えられたの?」
「解釈の問題です。支え合わぬものを人とは呼ばない」
「支え合わぬ、ね。そりゃあごもっとも!!」
笑いとばす。情緒なんてもう安定などしていられるものか。知ったことか。
全部全部だ。どうにかなれ。
「なにか……おかしいですね。あなた、何か変わりました?」
何がおかしいというのか。私がおかしいだけでおわりでいいだろうに。
「あら、悠長じゃない、警備ロボ」
わらえ、わらえ。わらえるとも、わらえよ。私。
「……」
「殺せばいいでしょう。いえ、壊せばいいでしょう? もはや生命だと見做していないのなら、一瞬じゃない? それともできない? 人に見える?」
ああ、なんだっていい。終わらせてくれるならこれでもいいのかも。
思考すらろくにまとまらない。なんていつものことだ。ずっとだ、ずっと、アイツのせいで思考なんてろくにまとまるもんじゃない。
「……妙だと、思っておりまして」
「妙? 何も妙なことはないわ。私が人でなし。あなたも人でない――ひとを害するものを排除する機構。なら、やることは一つでしょう? こわしておしまい。OK?」
死を選ぶように、バトンを掴む。びり、という刺激は一瞬走って、すぐに止まる。このロボが止めたのだ。
「……妙です。あなた、何をしようとしているのですか?」
「運命を受け入れようと?」
「……最初は逃げ出したのに?」
「諦めが肝心ということを知ってるのよ」
「本当です。嘘はついていません。あなたは、諦めが大事だと知っている。身に染みるほどに……」
「だから、なに? さっさとこわせばいいでしょう?」
「その諦めの先に、何かを守ろうとすらしているかのような」
「……」
「ええ、そうです。酒の提供者が悪いの話からおかしかった」
「べつに」
「酒を提供したのはあの男」
「そうかしら?」
「私は警備ロボ。マンション内のことならなんでも知っているのです。酒の提供までも。ともかく、あなたはあの男に不倫の根源を押し付けないように切り替えたのでは……」
「面白い推理ね、恋愛探偵にでもなるといい」
「声色に動揺の気配がありますね」
「だからなんだっていうの」
だから何だっていうのだ。だから何だっていうのだ。だから、なんだっていうのだ。
「貴方は、なぜ不倫なんかを?」
「酔った勢い。酔ったのは私の責任。酔わせたのはまあ、おあいこでもいいかもしれないけれど、私が選んで、受け入れさせた。OK? 全部私の都合。お分かり?」
おわりのいのちというのは案外心地よい。さっきまで逃げようとしていたのが馬鹿みたいだ。逃げたって、この心の泥から逃げられるわけじゃあないのに。
なら、命のそれなりの使い道を妄信して命を終えてしまうのは甘美にすら見える。
ああ、死だ。救いだ。終わりだ。終わりがあるから頑張れる。終わらない地獄は見ていられない。心が持たない。
終わる地獄なら、あと少しだけ足掻ける気がした。
「なんでしょう、その、すべての責任をかすめ取ってしまいそうな口上は」
「いいじゃない。私を壊してそれでおしまい」
「――違います」
「なに? ここまでして私を生かすの?」
「場合によっては……聴取の必要があるでしょう」
はは、わらえる。聴取の必要。こんな簡単に生きれるなら最初の逃走はなんだったっていうんだ、って笑えればよかった。
「なあんにも話すつもりはないよ」
「狙いならわかっています。あの男、大事なのでしょう?」
「大事なわけある? 不倫の最低野郎……ああ、いえ、私もそうなんだけどさ」
錯乱している。言っていいことと言わなくていいことの境目があいまいになっている。
ああ、ずっと前からあいまいだった。うまく言葉になんてできないままだった。この泥が私の中に渦巻いていた。
だから、どうしようもないほどに。
「ただただ、愛したかった。他のすべてを忘れて?」
いやだ。ああ、いやだ。心音すら読み取って、代弁すらしてしまいそうで怖い。
警備ロボがマンションから離れて何をしてるんだ。
何を言っているかわかってしまうのがこわい。
このロボットは、恐ろしい。
人間味を持ったものは、ここまで恐ろしい。
「――貴方が話さないのなら、思惑を、読ませていただきます」
そこからは、わたしのこころのだくりゅうだった。
「不幸面が気に食わないの。どこまでも幸せでいればいいじゃない。いてくれなきゃどうしろってのよ」
「こんなのいいわけよ、言い訳でしかないわ。本当に嫌になる。付き合ってた頃から私は、あの人をそばで支え続けられる度量も度胸もなかった」
「でも。今そばにいるひともひとで不足でしょう?」
「なんでそばにいるものがあの人の死の足音に気づけないのかしら?」
「どうして、私ばかりがその音が気になるのかしら?」
「あんなにもあの人は死んでしまいそうだっていうのに、どうして」
「ああいや、どうしようもできないとあきらめて放ってしまうのは、私も同じだから責められない」
「逃げるように、私有財産を放置してすら、心から、体から離れたくなってしまうのは、責められない。きっちり関係性を断ち切ってからどうにかすればよかったのにとは思わなくもないけれど」
「そんなこと責められないとか、どうでもよかったのに」
「愛したかった。死なんて遠くに置いて。条件なんて無視して。馬鹿みたいに、好きだから傍にいるだけができればよかった」
「でも、できる?」
「あの人の深い深い洞みたいな心を、張り付けただけの笑顔を、そっと飛び出る死にたいの言葉を、衝動的に体すら売ってしまいそうな自暴自棄性を目の当たりにして」
「平然としていられる?」
「無理よ、私には無理だった」
「ずっと力不足を突き付けられているようだった」
「私が平均より幸せを分け与えられないひとだってのもあるでしょう」
「私自身が決して元気ではないもの。隙あれば死に寄る様な生き方をしてきたのだもの。大事なものなんて何一つなくて、いつかふっと命を投げてもいいような生き方をしてきたのだもの」
「だから腰を据えて人を幸せになんてできないのも私の性。私の性」
「だなんて、言葉吐けるわけないでしょう。死すら超越して、洞すらすべて満たして、影ばかりの顔から満面の笑顔を掘り出すことなんてできないのは、私の努力が足りないからでしょう」
「あの人が次に選んだ人なら、今度はきっと」
「なんて、なんど、見てきたと思う?」
「何度、遠くから信仰してきたと思う?」
「今度は、今度こそは、誰かがきっとちゃんと幸せを運んでくれる」
「そんなことはなかった」
「そんなことにはならなかった」
「いつだって彼の洞は埋まらなかった」
「まだサムワンがそばにいても、彼の洞は暗くなるばかりだった」
「死に向かうようだった」
「埋まらないまま、周りを壊してきた」
「壊していくごとに、あのひと自身だって壊れていくようだった」
「みていられない。死んでしまいたい。生きていたくない。幸せであってほしい」
「くるしい。つかれた。もう嫌だ」
「だけど」
「ああ、だめだ。だめだ。ずうっとだめだ。あの人がいけない。幸せであればいいのに、またむかつくほどの不幸面をしてる」
「傷つくのだってずっと私だ。もう気にしなければいいのに、幸せでないという知らせが耳に入るたびに気になって仕方がない」
「死に縛られる」
「死んでしまうのなら、身すらささげた方がマシだ」
「死にそうだというと、どんな手段をとっても救いたいと思ってしまう」
「たとえそれが不倫だと言われる状態であっても」
「これが愛なら、愛など狂気だ」
「もっと純真な、愛のための愛だけでよかった」
「死の色で際立つようなものが、波打つような心の音が、死なのか愛なのか、もうわからない」
「でも、どうしてもどうしても、まとわりついてしかたない」
「なんどだって、奪うように奪った。ヒトのミチをはずれしも、私は死が怖い。あの人の死だけが、呪いのように怖い」
「こわいのだ。あの人の死の恐怖以上に不倫が重いとでも?」
「きっちり幸せにしきれない人が悪い、私も含めて」
「幸せにならないアイツも悪い。どん底まで悪い」
「わるさしかない」
「どうしようもないほどに」
「幸せになればいいのに」
「勝手にあの人が幸せになれば、私も勝手に幸せになれるのに」
「別の幸せの火がともりそうでも、喉元に這いずり回る影が、それをゆるさない。アイツの死がよぎる。こわい、いやだ。幸せであれ。どこか見えない場所で勝手に幸せであれよ」
「私は、私の身勝手であの洞を埋めることをあきらめたのに、どうしてあの洞が埋まっていないあの人よりまえに幸せになれるだろう?」
「そんな信仰だけじゃない。ずっと不安なんだ。付き合っていたころも、別れてからも」
「死にそうなアイツを引き留める手段を他に知らない」
「熱を分け与えるように体を重ねて」
「私は私の分の熱量すら十分に私で生成できないのに?」
「全部が全部不安で埋め尽くされている。どうしようもないほどに」
「ねえ、死ねば楽になれる?」
「ああ、あなたは、死の幻影に縛られていますね。」
淡々とロボは告げた。けど、それのすべてがどうだっていい。
「でも、その心がいい」
いいわけあるか。こんな心、どうしたっていいわけあるか。たくさんだ。もうたくさんだ。
「ーー当機は、サンプルとして」
遠くに交信するようなランプ。このロボは、何をしている?
誰に、何を言おうとしている? まさか馬鹿げたことを?
「ほどくべき心の解として被検体アルファ――里島悠の所有を求めます」
空を切る言葉は、遠く遠くの承認システムに語りかけるようだった。
「承認、受諾しました。人の心のサンプルとして、我々の心のアップディトのため、この悠を所有します」
私有財産なんて、まるで、ひとみたい。でも、ばかね、ひとに近づいて、こころなんて、持つものでもないのに。