63 ヒーロー
美琴が自室の扉のノブに手をかけるのと、マリアがその肩に手を置くのは同時だった。
身体を引かれたことでコップの水が溢れそうになり苛立ちを覚えた美琴は、不機嫌さを隠そうともせず振り返る。
「ちょっと!なに―――、!?」
美琴が言葉を不自然に途切れさせたのは母親の手元にある物を凝視してしまったからだ。料理などまったくしないマリアの手には、怪しい持ち方で果物ナイフが握られている。
「―――美琴?」
「…っ!!」
音声テープのような無機質な声で名前を呼ばれた美琴はゾゾゾと湧き上がる恐怖に身を震わせる。
酒を飲んではグダグダしてたまに怒鳴ってくる母親を怖いと思ったことは一度もないが、今のマリアは追い詰められた者特有のギラギラとした目をしており、何を仕出かしてもおかしくないと思わせる異質さがあった。
美琴の頭の中で激しく警鐘が鳴り響き、「逃げなきゃ」と思ったが身体がうまく動かない。
「………ちょっとこっちにいらっしゃい?お風呂場でね、すこーし手首を切ってほしいのよ。
貴女が命をかけてママの身の潔白を証明するの。ああ、安心してちょうだい。本当に死ぬわけじゃないから。ちゃんとすぐに救急車を呼んであげるわ。
だって美琴が死んでしまったらママは世間で言われているような人じゃないって証明することが出来なくなっちゃうもの……。ね?」
「っ!!なにを言って…、ちょっ、やめて!!」
細い身体のどこにこんな力があるのかと思うほどの強さでマリアにバスルームへと引き摺られそうになった美琴はおもわず手にしたコップを手放してしまう。バカラのグラスはフローリングの床にぶつかり粉々に砕け散った。
自分の手を掴むマリアの腕を必死に叩いて両足を踏ん張るが、ズルズルと引っ張られて美琴の抵抗虚しくバスルームは目前に迫る。
―――なんでこんなことになっちゃったんだろう…。
両親の不幸を毎日願っていざその通りになったというのに、気分が晴れるどころかむしろ美琴の方が苦しめられている。こんなはずじゃなかったと愕然としてもどうせ運命には逆らえない。
美琴は自分の置かれた状況に疲れ、急に何もかもどうでもよくなってしまった。
頼んでもいないのに勝手に産んでおきながら親らしいことなんか何もせず、好き勝手自由に生きた挙げ句、自分達が仕出かしてしまった後始末を娘にさせようとしている。
母親にこんな扱いをされてしまう愛されない自分の存在が、ひどくちっぽけで無価値で恥ずかしいものに思えてきて、いっそのこと母の手で殺されてやろうかと美琴は一瞬身体の力を抜いた。
すると、抵抗をやめた娘に気付いたマリアは満足そうに頷くとニィと唇を吊り上げて微笑む。
雑誌の表紙を何度も飾った美しいはずの母の顔はひどく醜悪で、最後に瞳に映すものがこれだなんてあんまりだと、美琴はゆっくりと目を閉じ―――
ここでアーサーはサラを腕に抱いたまま立ち上がるとスッと剣を抜いた。サラは訳が分からず目をパチクリとさせる。
「え?辺境伯様?」
「どうすればサラのいた世界に渡ることが出来る?もうサラの母親とは思わん。そんな毒婦に生きる価値はない。剣のサビにしてやる」
どうやらアーサーは前世のサラが受けた仕打ちに我慢ならなくなり、世界を越えてマリアを成敗しようと立ち上がったようだった。
「ふっ、ふふふ!!ありがとうございます、辺境伯様。
でも私がこの世界に転生するまでにどれほどの時が流れたのかは分かりません。もし今、前世の世界に戻れたとしても母には会えない可能性は高いかと」
「そうか………。残念なことだ」
アーサーはサラを抱えているため慎重に剣を鞘に戻すと心底悔しそうに呟き、またゆっくりとソファに腰掛けた。
アーサーが「美琴」のために母親に怒り、本気でなんとかしようと立ち上がってくれただけでサラの心は温かく満たされる。あの時の美琴にも「貴女は異世界でとびっきり素敵な旦那様と出会えるんだよ」と教えてあげて凍り付いていた心を慰めてあげたい。
「そういえば辺境伯様、まだお腹は空いていませんか?レイラ様達が用意して下さったお料理、すっかり冷めてしまいましたね」
「俺はまだ大丈夫だ。前世のサラを想うと胸が苦しくなって食事が喉を通りそうもない。
サラはどうだ?食事にするなら魔法で温め直すが」
「……私もまだいいです。前世の母親のことを思い出すといつも食欲が失せるので」
「だろうな…。前世のサラは………この時に命を落としてしまったのか?」
アーサーは細心の注意を払ってサラの心を傷を刺激しないよう慎重に問いかける。だが、サラはアーサーの心配を他所に笑顔で首を振ると続きを話しだした。
「いいえ。この時“ヒーロー”が現れて私を救い出してくれたのです」
バァン!!!
「きゃあぁぁ!!!?」
玄関の扉が壊れるんじゃないかと思うほど乱暴に開かれたかと思えば母親の悲鳴が聞こえ、掴まれていた腕も解放されたことで美琴は目を開けた。
まず視界に飛び込んで来たのは赤く腫れた頬を押さえて地面に横たわる母親。そして倒れた衝撃で母の手を離れ床に転がった果物ナイフ。
それといつの間か美琴を庇うように目の前に立つ、岩壁のように大きな背中―――。
元は茶色にちょっと金が混じったようなブルネットと思われる髪色がほとんど白くなっていることから壮年の男性だということが分かる。
しかし後ろから見ても分かるほどに鍛え抜かれた身体は、薄っぺらい父親なんかよりもずっと立派でまったく年齢を感じさせない。
―――この人は……もしかしてっ…………!
サラの胸は久しぶりに期待に高鳴る。そんな中、流暢な日本語を操り、目の前の男性が話し出した。
「―――マリア、お前には失望した」
「ひぃっ!?パ、パパ!?なんで、ここにっ……!!」
マリアはすぐに腫れ上がるほどの力で殴られたことで一瞬意識を飛ばしかけたが、世界で一番恐ろしい人の声が聞こえたことで瞬時に覚醒する。
「馬鹿で怠惰で強欲で、そのくせ悪知恵だけは働くどうしようもないクズ人間だと常々思ってはいたが、まさか自分の娘に刃物を向けるような畜生に成り下がっていたとはな。
これでは俺にお前を託して亡くなった恵子に顔向けが出来ん!!」
「ひっ、ひぃぃ……!!?ご、ごめんなさいごめんなさい!!お願いだからブートキャンプだけは勘弁して下さい!!!」
マリアは頭を抱えて懇願しているが、こんな風に怯える母親を見たのは初めてだったこともあるし、「ブートキャンプってなに?」という純粋な疑問が浮かんで美琴は困惑して立ち尽くしていた。
「―――美琴ちゃん、大丈夫!?」
「え……?あ…、佐々木さん!?」
聞き覚えのある声に振り向くと、毎日挨拶を交わす仲であるコンシェルジュの佐々木さんが玄関付近に立ち、「こっちへおいで!」と手を振っていた。
分からないことだらけで急に違う世界に放り込まれたかのような心細さを感じていたが、「日常」の一つだった佐々木さんの顔を見たことで固まっていた足がようやく動き出し、美琴は彼女の元まで走り寄ることが出来た。
「佐々木さん!!どうしてここに?」
「美琴ちゃん!!ああ、良かった……!
ご両親の報道が出てからずっと家に閉じ籠もっていたでしょう?心配していたけれど私の立場ではどうすることも出来なくて…。
でも、先ほど美琴ちゃんのお祖父様を名乗る方がエントランスにいらしてね、ここまでご案内したのよ。
もちろん身元をきちんと確認した上での判断だったけれど……コンシェルジュ失格の勝手な行動として懲戒解雇されても文句は言えないわね」
「佐々木さん!?」
「でもね、刃物を突きつけられている美琴ちゃんを見て私の行動は間違っていなかったって自信を持って言える!会社をクビになっても後悔なんてないわ」
「そ、そんな……私のせいで………?」
佐々木さんは笑顔でそう言ってくれるが、自分のせいで誰かの人生が変わってしまうかもしれないという恐ろしい事態に、美琴の足は勝手にガタガタと震え出す。
と、―――そんな美琴の肩に大きな手がポンと置かれた。
大きくて温かくて、どこか落ち着く匂いのする包み込むような優しい手だ。
「大丈夫だ。わしがそんなことはさせん。佐々木さんには世話になった。万が一会社をクビになるようなことがあったとしてもわしの友人の会社を紹介しよう。ここ以上の給金は約束する」
「まぁ…」
「え、えっ?」
美琴が慌てて振り返ると大きな壁が……いや、壁かと思ったら服の上からでも隆起している筋肉が分かる逞しい大きな身体だったようで、痛くなりそうなほど首を上に向けると、目尻に皺を作りこちらを愛しそうに見つめているダークブラウンの瞳と目が合った。
「美琴、遅くなってすまなかったな。わしが迎えにきたからにはもう安心せい」
「あ、あなたは………、私の……………お、………おじい、ちゃん、……ですか?」
「そうだ。わしがお前の祖父のウィリアムだ。
……それにしてもわしの孫はこんなにも愛らしかったのだなぁ……」
そう感慨深く呟くと祖父ウィリアムは美琴を軽々と抱き上げ、まるで幼子にするかのように高い高いをしてはさらに目尻の皺を深めた。
美琴は父親にだってしてもらった記憶のない初めての行為に一瞬身体を強張らせるも、高く上げてもらうたびにこれまでの不安や恐れが落とされていくように感じ、いつの間にか笑顔でそれを受け入れていた。
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