英雄散華〜女神と悪魔の戯れ〜
※バッドエンド。残酷描写有り。
――これは、何も持たない哀れな男の話だ。
†
アベルという少年がいた。
凡庸な平民で、何の取り柄もない少年だった。
特別な計らいで貴族と同じ魔法学園――国の英雄を育成する機関――に入れたが、この時点では、それが彼にとって幸運と言えたかどうかはわからなかった。
彼は人一倍努力をしていたが、愚直な反復練習を繰り返すばかりで、お世辞にも効率的とは言えなかった。
だから、その努力が実を結ぶことはなかった。――本来ならば。
だが、あるとき気まぐれな女神がアベルに祝福を与えたことで、運命は変わった。
それはあらゆる才能を限界まで開花させるという、すさまじい祝福だった。
アベルは一躍、学園一の英雄候補となった。
誰もがアベルを羨み、称賛した。
しかし、ことカインにとっては、アベルを認めることはできなかった。
カインは誇り高い貴族で、アベルが女神の祝福を受けるまでは学園の頂点に立っていた。
カインは祝福を得たアベルに決闘を申し込み、そして敗れた。
それでも、カインにはアベルを認められなかった。
それはアベルが平民だったからかもしれない。
カインの妹ローザはアベルに心惹かれていたから、兄の態度が悲しかった。
「お兄様、どうしてアベル様をお認めにならないのですか」
ローザが兄カインに問うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「認められるものかよ。あんな平民が。たとえ女神が選んだのだとしても」
「アベル様のひたむきな努力が、女神様の胸を打ったのではないでしょうか」
ローザらしい率直な物言いは、このときは奏功しなかった。
カインはバシッと机を手で打った。
「お前は、この僕の努力が奴に劣るというのか?」
「それは……」
ローザは兄の問いに対し、返す言葉を持たなかった。
貴族のカインは幼い頃から英雄になるための教育を受けており、誰よりも優れた質の高い鍛錬を行っていた。
鍛錬に費やす時間こそ、愚直なアベルには劣っていたが、それは休息を考慮に入れた理にかなった計画だった。
だから、カインにはアベルが認められなかった。
カインはその後も何度もアベルに決闘を挑み、それと同じ数の敗北を積み重ねた。
カインとの何度目かの決闘の後、アベルは自分を恥じた。
一人だけ女神の祝福を受けている自分は、対等ではないと思ったのだ。
純朴なアベルは女神に祈った。
(女神様、聴こえますか?)
女神の返事はすぐにあった。
『親愛なる我が使徒アベル、どうしました?』
アベルは意を決して女神に訊ねる。
(私と同じ祝福を、他者に分け与えることはできるでしょうか?)
それは女神にとって意外な問いだった。人は自分の身が一番かわいいものだと、女神は思っていたからだ。だからこそ、深い思いやりを持つアベルの願いに女神は心を打たれた。
とはいえ、さしもの女神といえど、天界の決まりによって祝福を安売りすることはできなかった。
だから、代償が必要だった。
『ああ、心優しいアベル。あなたはそれによって自らの力が衰えても良いと言うの?』
(構いません。元々、私には過ぎた力です)
アベルの答えには一切の迷いがなかった。
女神は愛しい使徒の願いを叶えることにした。ただし、アベルを最優先にすることに変わりはなかった。
『慎み深いのね、アベル。それは可能よ。ただし、その者に祝福を受ける気持ちさえあればね』
これによって、アベルは望む者に自身の百分の一の祝福を与えることができるようになった。ただし、この計算はアベルが相手に祝福を与えるたびに行われるため、たとえ百人に祝福を分け与えたとしても、アベルの祝福が枯渇するわけではなかった。
アベルは女神の采配に深く感謝し、心中で平伏した。
(ありがとうございます。私の女神様)
『きゃっ! ……それって、愛の告白かしら?』
(――いいえ。ご冗談を)
アベルの思わぬ一言につい少女のような態度を見せた女神だが、朴念仁のアベルには通じなかった。
『……つれないわね』
(それでは、失礼いたします)
アベルの祈りは、現実世界ではまばたきの間に終わった。
祈りを終えたアベルは、自らが下したカインに向かって言う。
「カイン様、あなたが望むなら、女神様はあなたにも祝福を授けると仰っています」
誇り高いカインには、アベルの慈悲は侮辱としか思えなかった。
「貴様……俺に、乞い願えというのか! 貴様と同じ祝福を寄越せと! ――願い下げだ! 俺はそんなものに頼らずとも、貴様に勝ってみせる」
取り付く島のないカインに対して、アベルは祝福を与えることを諦めた。
一方で、アベルが他者に祝福を分け与えられるという噂は瞬く間に学園中に広まった。
翌日から、アベルの前には長蛇の列が並び、アベルはその全員に順番に祝福を分け与えた。
それによって、カインの学園での英雄候補としての序列は更に下がった。
今まで三番手、四番手に甘んじてきた者たちが、女神の祝福によって強化され、カインを追い抜いたのだ。
カインの学内順位は転落に転落を重ね、遂には最下位にまで落ち込んだ。
冬の貴族の社交の時期、カインはローザと共に故郷の領地に一時帰還することになった。
「お兄様……」
このとき、妹のローザはアベルの心を射止め、二人は学園公認の仲睦まじいカップルとなっていた。当然、ローザの学園内での序列もカインを上回っている。
そんな妹を前にして、カインは自嘲の笑みを浮かべた。
「……どうした、ローザ? 哀れな兄の姿が可笑しいか?」
「そんなことは……」
ローザには、兄を何と言って慰めれば良いかわからなかった。
故郷に帰ったカインを待っていたのは、彼の現状に怒り狂った公爵――兄妹の父親だった。
「カイン! この落ちこぼれめ! 貴様はこの家の面汚しだ! お前を勘当する!」
父のその宣言は、カインにとっては寝耳に水だった。カインは驚きのあまり、開いた口が塞がらなかった。
兄想いのローザは、慌ててカインを庇った。
「お父様、お許しください! お兄様は誇りによって女神様の祝福を固辞しているだけなのです」
しかし、公爵は聞く耳を持たなかった。
「ええい、黙れ! それで学園最下位だと? そんな誇りなぞ、犬にでも食わせてしまえ!」
こうしてカインは公爵家から寒空の下へと追い出された。
貴族でなくなったことで、カインは魔法学園に通う権利さえも失った。
カインは父の最後の言葉に大きなショックを受けた。
誰よりも誇りを重んじるのが貴族だと、そう教えてくれたのは父ではなかったか。
ははははは。
カインの口から乾いた笑いが上がった。
††
古来、人の心の弱みにつけ込むのが、悪魔という生き物である。
悪魔は打ちひしがれた元英雄候補、カインの心に目をつけた。
悪魔は旅の男を装ってカインに話しかけた。
「可哀想に。お前には何の落ち度もなかったのになあ」
「……誰だ?」
カインの目には、悪魔はただ薄汚い格好をしただけの人間の男に見えた。
「オレっちか? まあ、ちぃっとだけ不思議な力が使える、ただのうだつの上がらない親父だよ」
「……フン。それで、俺に何の用だ」
カインには容易く男を信用する気などなかったが、悪魔は言葉巧みにカインの心を擽った。
「ああ。お前さんがあんまり可哀想なもんで、手助けしてやりたくてなあ。どうだい。一つオレっちに手伝わせてくれないか?」
「貴様に何が出来るというのだ」
「そうだなあ。強い武器とかどうだ?」
「武器か。悪くない。使ってやらんこともないぞ」
「そう来なくっちゃ! よし、これで魔物退治でもしてみてくれよ」
公爵家を追い出されたカインは碌な装備を持っていなかったから、悪魔の提案にはしっかりと効き目があった。
悪魔が拵えた赤い魔剣は、優れた切れ味と耐久性を持っていた。
カインはそれによって容易に魔物を倒し、日銭を稼ぐことができた。
――もっと実績を積めば、学園に返り咲き、父にも認めてもらえるかもしれない。再び、英雄を目指せるかもしれない。
そう思ったカインは、魔物を退治するハンターの道を邁進することにした。
悪魔はそんなカインに装備を与えるだけでなく、手ずから甲斐甲斐しく世話をした。
「……これは何だ?」
ある日、悪魔――カインは「親父」と呼んだ――が用意したのは、カインが見たこともない真っ赤な野菜だった。
「南の方で採れた野菜でな。力が付くらしいぞ」
平然と答えた悪魔の言葉に対し、カインが疑いを持つことはなかった。
「ほう。ならば、もらっておこう」
「おう、食え食え」
人間に扮した悪魔と知り合って数か月が経った頃、カインはときどき幻覚を見るようになった。
人が魔物のように、魔物が人のように見える幻覚だ。
それによってカインは混乱し、戦いの中で不覚を取りそうになることもあった。
そんなカインの危機を救ったのは、悪魔――「親父」だ。
「カイン、大丈夫か?」
「親父か! すまない。また幻覚で……」
幻覚に苦しむカインを助け、悪魔は討つべき敵を容赦なく抹殺する。
「下がってろ。こいつらは俺が片付ける」
「恩に着る」
いつしかカインにとって、「親父」は背中を預けるに足る仲間となっていた。
また、カインの中では「親父」に対する借りが徐々に積み上がっていた。
††
出会いから一年余りが経ったころ、悪魔はカインからもう十分に信頼を得たと判断し、ある依頼を行う。
「……どうしてもお前にやってもらいたいことがあるんだ」
いつもと違って神妙な態度を見せる「親父」に対して、カインは真正面から向き合って話を聞いた。
「貴様から頼み事とは珍しいな。何があった?」
真摯なカインの態度を前にして、悪魔は内心でほくそ笑んだ。
「実は、俺には家族がいたんだが、ある魔物の連中に皆殺しにされちまったんだ」
「……」
「俺の力はあいつらとは相性が悪い。けど、お前なら……」
悪魔の話が途切れた後、一拍の沈黙を挟んでカインが口を開く。
「――その魔物共はどこにいる?」
カインのその台詞を聞き、悪魔はぱっと顔色を明るくした。
「やってくれるのか?」
「俺の力が及ぶのであればな」
悪魔はいよいよ跳び上がって喜び、カインはそれを柔らかな笑みで見るのだった。
「ありがてえ! あいつら、結構数が多いからな。作戦は任せてくれ。お前が何匹かずつ仕留められるようにお膳立てしてやるぜ」
「貴様の策なら問題なかろうが、抜かりなくな」
カインは「親父」の計算高さに、大きな信頼を寄せていた。
作戦決行の日、カインは森の中に潜伏し、悪魔が誘導してきた魔物たちを少しずつ間引いていくことになった。
どうやら魔物は知能が高いようで、武器や魔法を操る者さえいた。しかしカインはこの一年で、悪魔によって強力な装備を与えられ、絶え間ない実戦と魔界由来の食事によって大幅に戦闘力を伸ばしてきた。そのカインにとって、その程度の魔物が数匹ずつ襲いかかってきたところで、苦戦するほどのことはなかった。
魔物たちは口々に何かを喚いていたが、カインに魔物の言葉がわかるわけがない。カインは一切耳を貸すことなく、魔物を殺し続けた。
夕闇が迫る頃までに、カインは森の各所で合わせて百以上の死体を生み出していた。
「……よくやってくれたな。次で最後の二匹だぜ」
「ようやく終わりか。存外、呆気なかったな」
魔物たちを誘導しながら悪魔が声を掛けると、カインは拍子抜けしたかのように言った。
「油断するな。一匹は今までの奴らの十倍は強いぞ」
「ほう?」
カインは悪魔の台詞に、むしろ興味を抱いた。
それから間もなく、最後の二匹が現れた。
カインはまず、動きの鈍い一匹を串刺しにして首を刎ね飛ばした。すると、もう一匹は仲間を殺されて激昂したのか、何かを叫びながら突撃してきた。
確かにそれまでの魔物らと比べれば強力な敵だったが、冷静さを欠いていては野生動物も同然だ。
カインは易々とその動きを見切り、さほど苦労することもなく、最後の一匹にも止めを刺した。
†
悪魔に掛けられた幻覚が解けたのは、その直後だった。
「アベル……? ローザ……?」
カインが魔物だと思って切り捨てた最後の二人は、カインにとって馴染み深い人間たちだった。ローザの首は無造作に地面に転がり、苦悶にまみれた形相を覗かせていた。
森の中には、むせ返るほどの血の匂いが充満していた。
人間の死体は二人のものだけではない。それ以外にも、カインが魔法学園で見た覚えのある者たちが死体となってカインの眼前に現れていた。
英雄候補だった生徒たちは皆、カインの凶刃に掛かって物言わぬ屍と化していた。
「俺は、何を……」
カインは愕然となり、膝を地に着いた。
まるで、悪夢の中にいる心地だった。
「いや〜、助かったぜ。カイン」
聞き覚えのある声がしてカインがそちらを振り向くと、凶々《まがまが》しい姿の悪魔がそこにいた。そう、悪魔はもう人の姿を真似ることをやめていた。
カインは悪魔のその姿を見て、目を見開いた。
「貴様、その姿は……!」
目を血走らせて殺気を放つカインを前にして、悪魔はニヤニヤと嗤っていた。
「女神の使徒どもの始末に困ってたんだが、お前という最高の素材が見つかったんで、上手く行ったぜ。オレっちツイてるぅ!」
それが悪魔の目論見だった。
魔法学園に唐突に現れた女神の使徒とその一派。悪魔はその排除を目的として動いていたのだ。
「貴様、この俺を謀ったのか?」
カインが低い声で問い掛けると、悪魔は感心の声を上げた。
「お、気づいた? とっくにおかしくなったかと思ってたが、まだ考える頭が残っていやがったんだな」
小馬鹿にするような悪魔の台詞を聞き、カインの視界は真紅に染まった。
「おのれええぇぇ!!」
カインは怒りを爆発させ、遮二無二悪魔に剣撃を浴びせたが、その攻撃が悪魔を傷つけることはなかった。
「……バカだなぁ。お前の力はオレっちが与えたものなんだから、オレっちに効くはずないじゃん」
カインは獣のような猛攻を続けたが、悪魔の言葉通り、それは無為に終わった。
「じゃあね〜。楽しかったぜ」
そう言って、悪魔は姿をかき消した。
死体が蔓延る森の中に一人取り残されたカインは、やがて武器を落とし、ローザの首を抱えて亡者のような嘆きの声を上げ続けた。
その後のカインの姿を知る者はいない。
――これは何もかもを失った、哀れな男の話だ。
†††
『あ〜あ、死んじゃったかぁ……。あの子のこと気に入ってたのに、残念だなぁ。それにしても、カイン君って馬鹿だねぇ。悪魔なんかにまんまと騙されちゃって。
――まあ、いっか! これであの子は、悪魔たちに情け容赦のない強力な天使に生まれ変わってくれるでしょう。めでたしめでたし……なんちゃって。きゃはっ!』
(終)