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気付くと僕は枕を持って暗闇に立っていた。闇の中から、つまったポンプのような音が一定のリズムで聞こえてくる。姉のいびきである。闇に慣れてきた目に、仰向けで眠る姉の姿がうっすらと浮かんでいる。僕は姉を起こさないようにそっとベッドに上り、腹のあたりへ馬乗りになると、持っていた枕を姉の寝顔に押し付けた。耳障りないびきがくぐもった。姉の手が宙を掻いてもがきだし、僕は枕を押す手に力を込める。
「残しては行かない、こんな姿のまま」
さらばランドル・パトリック・マクマーフィー。姉が足をばたつかせて苦しみだして、僕は全体重を枕に乗せる。姉の手が僕の手首を掴んで力一ぱい握り締め、爪が深く食い込み血が流れるのを感じた。姉の体から力が抜けたあとも僕はしばらく枕を抑える手から力を抜かなかった。
朝になるまで、自分のベッドの上で天井を見つめたまま、まんじりともしなかった。人を殺してしまったのに不思議と気分は落ち着いていた。逮捕、裁判、投獄、家族や友人にマイクを突きつけるマスコミ、これから僕の身に起こる様々な面倒くさいことを思うと気が遠くなった。全国にさらされるはめになるであろう小学校の卒業文集になんて書いたか思い出せない。アンドリュー・デュフレーンよろしく獄中で貞操を奪われる覚悟もしておかなくてはならぬ。
朝の七時半を過ぎた。母親が階段を上ってくる足音が聞こえた。部屋をノックしながら母は早く起きるように促した。まだ姉が死んでいることに気付いていないらしい。起き上がってドアを開け、いつもと変わらない母親の顔を見ると泣きそうになった。
「早くしないと遅刻するよ」
「うん」
「蒼太が遅いから、お父さんとおねえちゃん先にご飯食べてるからね」
「おねえちゃん?」
ダイニングでは父親と姉が揃って朝食を食べていた。やややケッタイなと思いながら、昨夜のことは自分の願望が生み出した幻覚だったのかなと考えてみたが、手首には姉に握られた爪痕が赤く残っている。間違いなく、カッコーの巣の上で方式で殺めたはずである。さらに不思議なことには、姉の体格が昨日に比べて遥かに細くなっておりモデルのようである。この体型なら小栃若葉と人から揶揄されることもなさそうだ。姉が生きていたことにも一晩で急激に痩せたことにも納得のいく結論がでなかったが、結局僕はいつも通りに学校へと向かったのだった。
通学路の途中にあるクリーニング屋の前で眠そうな吉田と遭遇した。姉のことで舌を噛み切って死んじまいたくなるくらいからかわれるのではないかとびくついたが、何も言われない。寝ぼけた声で、バカでかいザリガニに追い回されたという昨夜見た夢の話をしているだけである。
学校でも自分に対する周りの反応は普段通りである。藤井も駒場もほかのクラスメイトも、僕と顔を合わせてもゲームやら動画配信サイトやらの話題に興じるだけで姉の件には少しも触れてこない。気を遣って話題から避けている様子もないし、だいいち藤井も駒場も吉田もそういったデリカシーを備えているという柄でもない。廊下を歩いていても取り立てて僕に興味を示す人間はいなかった。四、五人がでかい声で雑談している横を通り過ぎるときにそのうちの一人と目が合ったが、さして興味もなさそうにすぐ逸らされた。これが昨日だったら周りに目で合図を送って僕に注意を促し、みんなして忍び笑いを浮かべていたに違いないのである。安心もしたがそれ以上になんだか不気味であった。