表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/16

 一夜にして姉は我が学び舎の有名人となった。朝からクラスの話題は姉の画像で持ちきりである。クラスメイトの半数は、栃若葉と謎の女子高生があまりに瓜二つなので精巧なコラ画像と信じて疑わず、吉田と駒場は彼らに、本屋で遭遇した話を大袈裟に語った。あの本屋か、今度行ってみようぜなどと余計な提案をする不届き者も現れた。結果、本人の知らぬところで姉に「小栃若葉」などというあだ名がつけられたのである。

 小栃若葉の目撃情報は級友たちのあいだでブームとなった。「そごうの紀伊国屋でアイドル雑誌を立ち読みしていた」とか「ルミネの有隣堂でアイドル雑誌を立ち読みしていた」とか「ジョイナスの栄松堂書店でアイドル雑誌を立ち読みしていた」などといった比較的信憑性の高いものから、「関内のラーメン二郎で大豚全マシを二分で完食していた」「ズーラシアで颯爽とオカピの背中に乗っていた」「帷子川の水面から目だけ出してあたりの様子を伺っていた」といったもはや都市伝説レベルに近いものに至るまで、姉の目撃談は人気の収束に先が見えず、姉の知名度と反比例して僕は団子虫のように無口になっていったのである。

 小栃若葉との血の繋がりがいつか周りに露見するんじゃないかと不安になって胃がきりきりしてきたある日、珍しく駒場から映画に誘われた。

「最近なんだか思いつめてるようで暗いからさ、蒼太の好きな映画でも観に行って気晴らししようぜ。せっかく今週からゴールデンウィークなんだしさ」

 意味ありげな笑みを漂わせて駒場は言うのである。次の土曜、桜木町のブルグ13で某アカデミー俳優主演の新作を観ることとなり、午後の三時に桜木町駅で待ち合わせることにした。


 小学校低学年くらいの男の子と幼稚園児くらいの女の子が僕の前で追いかけっこをしてはしゃいでいた。若いお父さんが調子に乗ってそれに加わり、お母さんがその様子を見て楽しそうに笑っている。手を繋いだカップルが何かささやきあって笑いながら、ワールドポーターズの方へと歩いて行った。少し離れたところで、ストリートミュージシャンがどういう趣味か古いアニソンのカバーを歌っている。霞んだような春の空を背景に、観覧車がゆっくりと回っていた。

 ゴールデンウィーク初日の桜木町という大量の家族連れとカップルたちの醸す幸せな雰囲気の中で、僕は駒場からきたラインを睨んで怒りに暮れていた。すまん、行けなくなった。以上である。僕は怒りに任せて返信した。ふざけるな、今すぐ来い。十秒くらいで返信が来た。まあ待ってろ、おれの替わりに細貝が行くから。

「えっ、細貝さん?」

「うん、細貝。いやね、いつまでたっても告白できずにうじうじしているお前を見ていて、どっちもかわいそうだから後押ししてやろうと思ったわけよ。最近きみも思いつめてるように暗かったしね。細貝には五人で行くって言ってあったけどみんな行けなくなったってお前から言っといて。よろしくー。がんばってねー」

 説明を求めて電話してみると駒場は以上のことを言って一方的に通話を切った。慌てふためいてもう一度掛けてみたがもう繋がらない。困った顔を前へ向けるといつの間にか細貝さんが来ていた。

「こんにちは」

「こ、こんちは」

 薄くお化粧をした細貝さんは紅茶のような匂いがした。

「あれ?」細貝さんは周りをきょろきょろ見渡した。「みんなはまだ来てないの?」

「みんな急用でこられなくなったらしいよ」

 何て嘘くさい台詞だと思って阿呆らしかった。

「えっ、そうなんだ。どうしよ」

 細貝さんはすぐ顔が赤くなるタイプである。

「せっかくだから観てく?」

「飾磨くんが私と二人ででもいいなら」

「全然いいよ! むしろ最高」

 うっかり口を滑らせて唇を噛んだが、細貝さんの真っ赤な頬はまんざらでもない感じでにこっと笑った。危うく勢いで告白してしまいそうだった。


夕陽の名残りが空の縁を淡い紫色に染めていた。帰路についたカップルや家族連れがぞろぞろ駅へと歩いていく。大観覧車の電飾が夕闇を鮮やかに彩っていた。

「映画を見終わったあと外に出るじゃん、そうすると空が夕方の色に変わっててさ、それを見るのが好きなんだ」

 映画館を出るやいなやくさい台詞が口をつき、自分で言ってて鼻水吹き出しそうになった。ロマンティックな夕暮れの雰囲気に呑まれていたに違いない。いかんまた失言だ調子に乗りすぎたかしらと思って細貝さんの横顔を恐る恐る盗み見てみると、意外にも目をうるうるさせてちょっとうっとりしている感じですらあった。

 電車の中で細貝さんは終始無言だった。機嫌悪いんだろうかと心配になって顔を覗き込むと、嬉しそうににこにこ笑い、目をうるうるさせてこっちを見返してくる。その仕草があまりに可愛すぎて胸がたぎった。好きな子からこんな顔で見つめられて、夢じゃないかと思った。できればコマでも回して確かめたかった。倒れなかったら夢である。

 電車を降りたあとの家までの道のりも、どちらともなくゆっくり歩いたようである。空には月が出ていた。薄い雲が月にまとわりついて、ぼやけた光を透かしていた。

「もう少し話していかない?」

 児童公園の横を通り過ぎるときに思い切って切り出してみるとオッケーだったので、二人並んでベンチに腰を下ろした。

「今日観た映画の主演の人、ほかに何の映画に出てるの?」

「うんとね、フォレスト・ガンプとか、ターミナルとか、ハドソン川の奇跡とか。あとグリーンマイルも面白いよ」

 滑り台が水銀灯の光を浴びて鈍く光っている。ジャージ姿のお兄さんが、スマホをいじりながら犬の散歩をしている。

 しばらく映画の話をしていると、小さいビニール袋を持ったエプロン姿のおばさんが僕らの前を通り過ぎた。おばさんはちっちっちっちっ、と口の中で何度も舌を鳴らしている。何事だろうと思って見ていたらどこから出てきたのか、野良猫が七、八匹、おばさんの足元に集まってきて、急かすように鳴きながらまとわりつき始めた。おばさんは袋から発泡スチロールの皿を出して地面に置き、そこにキャットフードをあけた。猫たちが争うように餌にがっつき始める。猫を見ながら考えた。そういえばこの公園は昔みいちゃんを自分の無知によって死なせてしまった場所である。悲しい思い出にしんみりしながら、野良猫の中にみいちゃんの面影を重ねた。

「あれ?」

 野良猫の中に一匹だけ三毛がいる。背中にオーストラリアに似た黒い模様があった。タスマニア島もしっかりとある。はっきりとは覚えていないが、顔や体の毛の配色もなんだかみいちゃんに似ているようなのである。成長したみいちゃんがそこにいるように錯覚したが、その三毛は長い尻尾がすらりとしていた。みいちゃんは短くて曲がった鍵尻尾だった。

「三毛猫って、親子や兄弟でまったく同じ模様になることってあるのかな?」

「えー、ないと思うよ」

 ご飯タイムが終わると集まった猫たちは一匹二匹と減っていき、全員がいなくなったあとでおばさんは空の発泡スチロールの皿を袋にしまって帰っていった。

 二人きりの公園は静かだった。春の夜風は花の匂いがした。流れる雲が月の光をさえぎった。

「あのね」

 月がふたたび雲から現れて、細貝さんが口を開いた。

「今日ほんとはね、みんな来ないって聞いたとき、ちょっと嬉しかった」

 これは間違いなく細貝さん渾身のパスである。僕は今ここで決めなければならないのだ。僕は覚悟を決めベンチから立ち上がって、細貝さんの正面に立った。僕を見上げる細貝さんの潤んだ目が、外灯の明かりを反射していた。星を散りばめたように見えた。

「細貝さん」

 いきり立って名前を呼んだがあとが出てこない。なんと言うべきか腹案もないまま突っ走ると往々にして起こることである。細貝さんが切ない顔をして続きを待っている。ここはシンプルに「付き合ってください」で行こうと考えた。

「つ、つ、つ」

 緊張でめまいがした。荒い息を深呼吸で整え、ひとつ思い切り息を吸った。ここで言葉を噛んだりしたら失態である。将来子どもができた時に父親の失敗話として語られるのだ、パパはね、ママに告白するとき思いっきり噛んだんだよ、えー、パパってダサーい。何回か頭の中で練習する必要があるなと思って咳払いした。付き合ってください、付き合ってください、付き合ってください。

――つっぱりで。

つっぱり!

ここで鉄槌がきた。ぶつかり稽古をしている栃若葉の姿が浮かんだ。途端に意識が公園を離れていく――。


 小数に小数を掛けると掛ける前より数が小さくなることに混乱をきたしていた小学四年生の頃である。七月に入った頃から、うちの教室でカブトムシを飼い始めた。誰だかの家で飼っていたカブトムシが大量に繁殖してしまい、親御さんが処理に困って近所の子供のいる家に配って回ったが、それでもまだ沢山いるので二匹のつがいを虫かごごと学校に持たせたらしいのである。森に逃せばいいのにと思ったがあえて指摘はしなかった。教室の裏にはランドセルを入れるロッカーが並んでいて、その上に透明なプラスチックの虫かごは置かれた。休み時間になると虫かごの前には人だかりができた。他のクラスからも生徒が見に来るほどの人気であった。

 ある日の夕方、家で算数の宿題をやろうとしてランドセルを開けるとワークが入っていない。学校に忘れてきてしまったらしい。実はその日も宿題を忘れて先生に渋い顔をされたばかりである。僕は仕方なく学校へとワークを取りに戻ることにした。

 学校近くのセブンイレブンの前を通りかかると、同じクラスの岡田と鈴木がお菓子を買って食べていた。

「そうちゃん、どこ行くの」

「学校にワーク忘れたから取りに行く」

「ふーん。じゃあね」

 学校の隣にある公園を横切る時に、サッカーをして遊んでいるクラスメイトたちに声をかけられた。

「おう、そうちゃん、一緒にサッカーやろうぜ」

「ごめん、今から教室に宿題取りに行かなきゃなんだ」

 校庭では野球部とサッカー部がまだ練習をしている。体育館の方からもミニバス部のドリブルの音が聞こえ、三階の音楽室からは吹奏楽部の演奏する音楽が聞こえてくる。僕は昇降口で靴を脱ぐと教室へ向かった。

 夕陽の差し込む無人の教室で無事に算数のワークを机から引っ張り出したあとで、いい機会だから誰もいないうちにじっくりカブトムシの観察でもしてみようという気になった。虫かごの中を覗き込んでみると、つののない雌が昆虫ゼリーにむしゃぶりついているばかりで花形の雄がいない。おかしいなと思ってよく確認してみると、虫かごの上のぱかぱかする蓋が少し浮いている。どうやらここに体当たりでもしてこじ開け、逃亡を謀ったらしい。僕はさっと血の気が引いた。明日になって虫かごの中からカブトムシがいなくなっていたら教室はひと騒動である。放課後になって僕が忘れ物を取りに教室に来ていたことはすでに何人かの友人に知られている。下手をすると僕が盗んだことにされてしまうんじゃないかと不安になったのだ。慌てふためいて教室を見回すと、窓にかかった白いカーテンのところに楕円形の黒い染みがあり、どうも動いているように見える。よく見ると逃げ出したカブトムシの雄である。僕はほっと溜息をつき、そろりそろりとカーテンへと近付いていった。あと二、三歩でカーテンに手が届く距離まで近付いたとき、突然カブトムシが羽を広げて飛び立とうとした。急なことに動転した僕は、ほとんど反射的に手に持っていたワークをカブトムシに向かって叩きつけた。ワークは見事に命中し、カブトムシを下敷きにして床に落ちた。しまった、と思ったがもう遅い。ワークをこわごわ拾い上げると、その下では仰向けのカブトムシがひくひくする六本の足を腹の方に折り曲げ、どうやら天に召される最終段階に突入している様子である。尻の先から得体の知れない白い液体まで出ていてこれはもう助からない。どうしていいかわからなくなり、僕は震える脚に何とか力を入れて、教室から走って逃げ出した。

 部屋に帰って落ち着いて考え直してみると、自分の置かれている立場は人生最大の修羅場であった。クラスのアイデンティティでもあったカブトムシを殺したことが皆にばれたら、クラス全員から泣くまで罵詈雑言を浴びせられ、その後は誰も口を聞いてくれるものがいなくなり、孤立した僕は次第に学校に行きたくなくなって不登校、登校拒否となった息子の育て方の責任をめぐって両親は衝突、そんで離婚、家庭は崩壊、すべてに絶望した僕は顔を白塗りにして頬まで裂けた口紅を塗り悪のカリスマへ、たかがカブトムシ一匹のせいで人生棒に振る破目になる。どうしようどうしようどうしましょうと五分くらい考えていたら、死骸をこっそり処理して違うカブトムシを虫かごに入れておけば案外ばれないんじゃないかと思いついた。昨日までカブトムシだったものがセミやカマキリになってたらさすがにみんな気づくが、少し大きさが違う程度の誤差ならなんかおかしいなぐらいで誰も口には出さないだろうと思った。確か朝刊に挟まっていたホームセンターのチラシにカブトムシの写真が載っていた気がする。早速母親に聞いてチラシを出してもらい、確認してみると、雄の成虫が三百円で売っているようである。僕は財布を掴んで自転車に飛び乗ると、ホームセンターまで全力でペダルを漕いだ。

 翌朝、いつもより早起きすると朝食もとらずに家を出て、カブトムシの入った白い箱を持って学校へと急いだ。

 用務員のおじさんが花壇に水を撒いていた。朝の挨拶をかけながら横を走りすぎると、お、一番乗りだなと笑いかけてくれたがこっちはそれどころではない。昇降口で急いで靴を履き替えて、階段を二段跳ばしに駆け上がった。

 勢いよく教室のドアを開けると同時に、何かが飛んできて顔にぶつかりそうになったので、僕は悲鳴をあげて尻もちをついた。何事かと顔を上げて驚いた。やたらとでかい金色のカブトムシが、天井の辺りをぶんぶん円を描いて飛んでいるのである。図鑑でしか見たことのないヘラクレスオオカブトだった。ヘラクレスはうるさい羽音を立てながらしばらく廊下を飛んでいたが、風を通すために用務員さんが開けておいたのだろう、全開にしてあった廊下の窓をくぐり、そのままどこかへ飛んでいってしまった。

 ヘラクレスオオカブトが教室から出てきて廊下の窓から飛んでいってしまったのを見たと言っても、誰ひとりとして信じてくれなかった。信じさせようと熱くなればなるほど周りは冷めていった。うーそつき、うーそつき、蒼太のうーそつき。妙な抑揚を付けてみんなが合唱するのである。ほんとだよ、嘘じゃないよ、ほんとに見たんだよ。うーそつき、うーそつき――。


「飾磨くん、ねえってば、飾磨くん」

 はっと我に返ると細貝さんがしきりに呼びかけていた。

「大丈夫?」

「あれ、俺、いまどうしてた?」

「目がいっちゃってて、ずーっとぶつぶつ一人でなにか呟いてたけど」

「いや、ヘラクレスオオカブトがね」

「は? ヘラクレスオオカブト? 何それ。いま関係あんの?」

 温厚な細貝さんには滅多にないことだが声と口調がキレ気味である。僕はアホのようにつっ立ったまま黙っていた。公園の外灯の下をこうもりがひらひら飛んでいた。原チャリが一台、すぐ横の道路を通っていった。眉間に皺をよせた細貝さんは白けきっていた。

「お母さんが心配するので私そろそろ帰りますね。失礼します」

 細貝さんは立ち上がり、僕の顔も見ずに早足で帰っていった。

「そうですか……」

 遠ざかる背中を見つめながら、好きな女の子に敬語で話されて淋しいなと僕は思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 主人公かわいそすぎる。吹いたけど。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ