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「昨日兄ちゃんが新しいギター買ったんだけど、前使ってたのもう使わないからって俺にくれたんだ。テレキャスターってやつ」

「おめー、ギター始めたのか」

「兄ちゃんに教えてもらって、Cコードは昨日弾けるようなったぜ」

「優しい兄貴だねえ。うらやまー。うちは妹だけだからぎゃーぎゃーうるせえんだ」

「わかるわー。おれんちも週末になると姉ちゃんが友達連れてきて女子会やるからうるっさくて遅くまで眠れない」

 友人たちの雑談が兄弟の話題になると僕は路傍のお地蔵様よろしく無口になって気配を消す。会話の内容がほかへ移ることを冷や汗かきながらひたすら待つのである。

「藤井んちのにいちゃん何歳なの」

「今、高二だから、高二って何歳だっけ」

「十六か七でしょ」

 今日に限って兄弟話は逸れていかない。黒板の上の時計に目をやると朝のホームルームまではあと二十分もある。

「蒼太んちは?」

 ずっと黙ったままでいるといらない気を回す奴がいる。今回は吉田である。僕は吉田の死を願った。

「え、なにが?」

「兄弟だよ。いる?」

「あ、兄弟? 兄弟ね……。人類みな兄弟とも言うからね……。そう言った意味ではいるかも。うん」

「なにそれ。結局いるの、いないの? どっちよ?」

 僕はしどろもどろになって額に汗を浮かべた。

「ねえ、飾磨くん。いまちょっといい?」

 唇をぷるぷる震わせて困っているところへ天の助けである。細貝さんが手招きして呼んでいる。立ち上がって行こうとすると、駒場が耳元で「もしかして、愛の告白」と囁いたので、僕は沸騰したように赤面した。

 細貝さんは僕を廊下まで連れだした。

「どうしたの?」

「あのね、先週借りたブルーレイ返そうと思って」

 細貝さんはスクールバッグの中からガタカのブルーレイを取り出した。自分の家では映画の配信サービスに加入しているが、僕は好きな映画は現物として手元に置いておきたいタイプである。大事にしているので滅多に人には貸さない。細貝さんは特別だ。

「なんだ、別に教室ででも良かったのに」

「うん、実はね」

 細貝さんはにわかにもじもじしながら、バッグからピンク色の包みを出して僕に渡した。可愛らしい緑のリボンで口を結んである。

「貸してくれたお礼に、クッキー焼いてきたんだ。おいしい保証はないけど」

 細貝さんの頬が赤くなる。僕は嬉しすぎて気が狂いそうだった。好きな子の手作りのお菓子が食べられるのだ。リノリウムのつまらない廊下が僕の楽園に変わった。

「ほんとに? すげえうれしい。ありがとう」

 細貝さんの色白の頬が茹でたように真っ赤になり、手で顔を仰ぐようにばたばたさせた。

「余計なお世話かもだけど、ほら、飾磨くん痩せてるからさ、もっと甘いものとか食べて太ったほうがいいよー、なんて」

――お相撲さんみたいにね。

お相撲さん!

 冷酷なる鉄槌が嫌なタイミングで振り下ろされた。体に電流が走ってびくりとし、意識が遠ざかる。


 まだかけ算九九の七の段がすらすらと出てこない小学二年生のことである。

空で木枯らしが鳴る冬の夕方、僕は小さな児童公園のベンチに座り、コンビニで買った肉まんを食べようとしていた。公園は家へと続く坂道の中腹にあった。鉄棒の影が夕陽に長く伸びていた。冷たい風が吹くたびに、銀杏の木から黄色い葉が宙を踊るように落ちていった。

 買ったばかりの肉まんは熱く、僕はふうふう息を吹きかけて冷ましていた。やっと子供にも食べられるくらいにまで肉まんの冷めた頃、背後の茂みががさがさ小さい音を立てた。なにごとかと思って見ていると小さな三毛猫がにゃーにゃー鳴いて出てきたのである。野良の仔猫らしく、腹のあたりの肉が削げて、痛々しいまでに痩せていた。仔猫は尻尾が短くその上ぐにゃぐにゃと曲がっていて、背中のところに黒い色の模様があり、それが少し前に地図帳で見たオーストラリアの形にそっくりだった。驚いたことに、タスマニア島までちゃんと地図と同じ位置にあるのだ。三毛猫は怯えた様子もなく、僕の足元まで来ると甘えるような声で鳴いた。

「お腹が空いているのかい?」

 三毛猫が喉を鳴らしながら僕の足に頭を擦り付けてくる。

「これを上げるよ」

 僕は食べていた肉まんを半分にちぎり、三毛猫の口元に置いてやった。痩せた三毛猫は夢中になって肉まんを食べた。僕はその仔猫をみいちゃんと呼び、オーストラリアの模様のある背中を優しく撫でてやった。

「またあした来るね」

 そう言って手を降る僕をみいちゃんはちょこんと座ったまま見上げていた。可愛くて離したくなかったが、残念なことにうちは父親がひどい猫アレルギーで猫は飼えないのだ。僕は何度も振り返ってみいちゃんに手を振った。

 翌日、スライスチーズとシーチキンの缶詰を持って公園に来るとみいちゃんを探した。何度か呼んでみたが出てくる気配がない。昨日みいちゃんの現れた辺りをかき分けてみると、みいちゃんは茂みの中にぐったりと横たわっていた。舌をだらりとだして半目を開けている。近くにはみいちゃんの戻したらしい形跡が白く固まっていた。

「あれれ、みいちゃん」

 みいちゃんの体は冷たかった。頭を撫でても前足を握っても反応がない。死んでいるのだ。僕は訳が分からなくなって声をあげて泣き始めた。

「どうしたの?」

 公園を通りかかった女子高生が、わあわあ泣いている僕を見て声を掛けてきた。

「みいちゃんが死んじゃった」

 お姉さんはみいちゃんの死体を見て、それから近くの吐瀉物に気付いて言った。

「あー、君この猫ちゃんに玉ねぎあげなかった? 玉ねぎは猫に毒だからね、弱ってる仔猫が食べると死んじゃうこともあるんだよ」

「昨日肉まんあげたの」

「うん。玉ねぎ入ってる。きっとそれだね」

 肉まんがいけなかったのだ。僕は鼻水を垂らしながらとめどなく涙を流してしゃくりあげた。

 冬の風が涙で濡れた頬に冷たく吹き付けた。お姉さんはみいちゃんのお墓を作る手伝いをしてくれた。公園の隅に穴を掘って亡骸を埋め、墓標として形の良い丸い石を置いた。僕とお姉さんはお墓の前にしゃがみこんで手を合わせた。ごめんね、みいちゃん。きみが玉ねぎ食べたらダメって僕知らなかったんだよ。ごめんね、ごめんね、ほんとにごめんね――。

「ごめんね……」

 細貝さんの悲しそうな声で我に返った。細貝さんは目に涙を溜めて下唇をかんでいる。

「え? なにが……」

 細貝さんの泣きそうな目が僕の手を見つめているので、何だろうと思って見てみるとせっかく貰ったクッキーの包みを僕は力一杯握りつぶしていた。鉄槌の拍子に体が反射的に力んだせいである。

「迷惑だよね、こんなこと」

 細貝さんの声が震えて今にも目から涙が溢れそうになった。

「いや、ぜんぜん迷惑じゃないよ、俺いつもクッキー食べるとき粉々にしてから一かけらずつゆっくりゆっくり大事に食べるんだよ。やらない? あ、そう。うちだけかな? ほら、戦場のピアニストって映画でもさ、収容所に送られる前にひとつのキャラメルを家族で小さく切り分けて食べるシーンあるじゃない、 あれと一緒。え、見たことない? ふーん」

 目を泳がせながらまくしたてた。表情にだいぶ腑に落ちなさそうなところが見受けられたものの、とりあえず細貝さんは納得してくれたようだった。

 友人たちの間でまだ兄弟の話題が続いているのを恐れた僕は、教室へは戻らずにトイレに避難した。鏡を見ながら前髪を直していると島田先生が入ってきた。うちのクラスの数学も担当しているので顔見知りである。先生を見るたびヘアスプレーの時のクリストファー・ウォーケンに似ているなと思う。

「おはようございます」

僕と軽く朝の挨拶を交わして、島田先生は出席簿を脇に挟んで小用をたしだした。

「そうだ、飾磨。姉ちゃん元気か」小用の水音を立てながら、先生がにこにこして声を掛けてきた。

「えっ」

 脇の下に嫌な汗がにじんだ。

「一昨年までいた飾磨咲季って、きみのお姉さんだろ? 先生、君の姉さんが三年の時に担任だったんだよ。おとなしい子だったなあ。家庭訪問で飾磨の家に行った時に、お母さんから来年から息子も通うのでよろしくお願いしますって言われたよ。飾磨って苗字あんまり聞かないからすぐわかったぞ」

 ええまあ元気です気にかけていただきありがとうございます、曖昧に答えながら意味もなく水道を流して手を洗い、もうチャイム鳴っちゃうんで、とごまかしてそそくさと逃げ出した。


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