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鳥の唐揚げをもぐもぐやりながら、テーブルの向かいにいる姉の顔を盗み見た。姉はサラダにフレンチドレッシングをどぱどぱかけている。白い液体が野菜を覆い隠し、皿の上が雪原のようになっていた。かけすぎである。産まれて十一年間、ほぼ毎日顔を見続けてきたために客観視することができなかったが、なるほど確かに姉の顔は見苦しかった。いとみみずのような細い目、肉の厚いデカっ鼻、ぼさぼさの眉毛はがっつり繋がっており、血色の悪い唇の上にはうっすらとヒゲのような産毛が生えている。中二になって皮脂の分泌が盛んになったのか赤ら顔の頬にはぼつぼつとしたニキビが目立った。ぶくぶくに太ったモアイを百発殴ったような顔だと思った。こうまじまじと姉を眺めたことがなかったので気づかなかったが、姉には時々上唇をもごもごと動かしながら、すんっ、と勢いよく鼻をすする癖があるらしかった。鼻をすすった瞬間に目が白目になり、僕はその表情があまりに醜悪なので反射的に目をそらした。姉の横では母が味噌汁を一口すすって至福のため息をついている。あまり似ていない。じゃあ父親似かというとそうでもない。ひょっとしたら、と僕は思った。数代前の家系図にオッコトヌシさまが載ってるんじゃないか、姉はそいつの先祖返りにちがいない。
「どうしたの? からあげおいしくない?」
「いや、そんなことは」
姉の顔を観察するのに集中しすぎて箸が止まっていた。お母さんに声をかけられ我に返り、慌ててご飯を口に運ぶ。サラダを食べようとしたがドレッシングは姉の手元にある。
「おねえちゃん、ドレッシングちょうだい」
姉は鼻をすすりながら無言でドレッシングを差し出した。うけとってありがとうをいったが反応がない。上唇をもごもごさせて米を咀嚼しているばかりである。無口で無表情な姉は今までもこんな様子だった。今まで気にしたことはなかったがなぜか今日は妙にいらっとした。
「お礼言ってんだからさ、なんか返せば」
姉はじとっとした目を僕にちらっと向けると、小声で「うん」とだけ言った。なんだよこいつ、絶対友達にしたくないなと思ってはっとした。目の前にいるオッコトさんは、友達どころではない、実の姉なのだ。突然、同じクラスの相川恵美奈の顔が脳裏をよぎった。
相川恵美奈はトップアイドル級の美少女だった。芸能事務所のスカウトマンから「十メートル置きに声をかけられる」とは相川恵美奈と一緒に休日の繁華街を歩いた友達の談である。小さい頃より人に会えばかわいいわね綺麗ねと褒められ、家族からも他人からもあらゆるわがままを美人だからという理由だけで許容され、独裁政権王室のお姫様のようにちやほやされてきた相川は十一歳ですでに人間性が歪んでいた。容姿の優れていない人間を劣等とみなすような価値観が育まれたのである。自分はかわいいから他人に何をしても許されると思っている美少女は人の容姿をぐさりとけなす言葉を本人の前で平然と言ってのけた。下校途中、たまたま彼女の目の前を通りかかったおじさんが小太りで色が白く、頬の青ひげが目立つ人だった。「なにあの白豚、顔にこけ生えてるじゃん。きもーい」コンビニで寄り道しているときつい天パの男子校生が飲み物を物色していた。「え、なんであの人頭から***生やしてんの、きもっ」おそらくは本人が最も気にしているであろう容姿の弱点を本能的に見極め、妖刀とも言うべき言葉の切れ味で一刀両断にしていった。現代に生きる辻切りである。
鋭い刃の切っ先はクラスメイトの家族にも容赦なく向けられる。ある日、五時間目の算数の授業に父兄参観があった。給食を終えて昼休みになると、禿頭の小柄なお父さんが人の良さそうな笑顔を浮かべていの一番に教室に入ってきた。その姿を見て相川恵美奈は心底嫌そうに周りの友達に囁くのである。「なにあれ、ハゲてる! きもーい」相川恵美奈には女子の取り巻きが多く存在し、そいつらがまた彼女の存在をタチの悪いものにしていた。女王がきもいと言えば周りも盲目的に同調し、そう言われた対象は取り巻きからも疎んじられる羽目になる。女王と取り巻きの嘲弄のこもった眼差しとくすくす笑いにさらされていることも知らず、そのお父さんは優しそうな笑顔を浮かべて授業を見学し、その構図は見ている識者をいたたまれない気持ちにさせていた。
相川恵美奈の陰険な性格はそこで完結しなかった。はげ頭の男性が葛西くんのお父さんであることを突き止めたのだ。葛西くんは休み時間になると校庭の隅にしゃがみこんでひたすら蟻を観察しているようなおとなしいタイプである。「葛西くんちは停電になってもお父さんの頭が光ってるから便利だよね」女王と忠実なる家臣どもにげらげら笑われながら肉親を揶揄されても、葛西くんは困ったような笑顔を浮かべるだけだった。
給食を終えると校庭に飛び出し、食後の野球に興じるのが僕たちの日課だった。ライトを守っていたら葛西くんがいつものように校庭の隅で蟻を眺めているのに気づいた。僕はさきほどのやり取りをみて同情を感じていたので、野球を抜けて彼のところへ歩いていった。
「葛西くん、また蟻見てるの」
葛西くんの横にしゃがみこみながら顔を覗き込み、僕はぎくりとした。葛西くんは唇を噛み締めながら声を殺して泣いていたのだ。そりゃそうだろうと思った。自分のことを言われるより家族を馬鹿にされる方が精神的ダメージはでかいのだ。うちのお父さんのオールタイムベスト映画第四位、スタンドバイミーにもそんなセリフがある。僕は持っていたポケットティッシュを葛西くんに渡し、震えている背中をぽんと軽く叩くと何も言わずに野球に戻った。
本格的ないじめには発展しなかったが、葛西くんはその後も事あるごとにからかわれることとなった。社会の時間に足利義満やら鑑真の肖像が出てくると、取り巻きの誰かが「葛西くんのお父さんだ」とでかい声で叫び教室が笑いで沸き上がる。葛西くんは顔を真っ赤にしてうつむいている。さすがにそういう誹謗中傷は先生が黙っておらず注意してやめさせたが、杉田玄白だの正岡子規だの毛のない偉人が教科書にあらわれるたびに女子たちはひそひそささやきあっては葛西くんの方をみてくすくす笑っていた。そんなことが続いて葛西くんは少し体調を崩しがちになり一時期頻繁に学校を休むようになった。相川恵美奈は一人の少年のメンタルを追い込んだ自覚があるのかないのか、相変わらず乙に澄ましてスマホで自撮りなんかしているのである。相川にとってみればお相撲さんに似ている女の子などは最も軽蔑の対象とするものに違いなかった。「うわ、なにあれ毎日ちゃんこ食べてそう。きもっ」「飾磨蒼太くんのおねえちゃんらしいよ」相川が冷酷な目に喜色をたたえて僕を見る。
指から箸が抜け落ちてテーブルに転がった。
「どうしたの。大丈夫? ぼーっとしてるけど」
箸を拾いながらお母さんに笑顔を返して取り繕い、もう一度改めて姉の顔をちらりと見た。唐揚げを不表情でほおばるその顔はどう見ても栃若葉のミニチュアだった。容姿という点では葛西くんのお父さんよりもはるかにおもしろ要素が満載である。ばれたら半永久的に馬鹿にされるんじゃないかという不安が確信を伴って胸に湧いた。これが他人だったら僕でもする。考えれば考えるほど、唐揚げの味がしなくなっていった。
不思議なもので僕はその日以降姉に対してつまらないことでいらつくようになった。
ある土曜日の夕方、僕はリビングで算数の宿題をやっていた。分数の文章問題に頭を抱えていると姉が部屋から下りてきて、ソファに腰を下ろすと宿題をしている僕の横でいきなりテレビを点け、ぎゃあぎゃあとやかましいバラエティを見始めた。うるさくて集中なんて出来たもんではない。僕は問題文をぶつぶつ音読してみたりわざとらしく耳をふさいでみたりしたが姉は気にもとめない様子だった。
「おねえちゃん、ボリューム下げて」僕は苛立って言った。
「なんで」
「宿題やってるんだ。集中できない」
姉は僕の問題集を覗き込んで「そんな簡単なのにできないの」とつまらなそうに言った。かっつーんときた。簡単とか難しいとかいう問題じゃなくてうるさいのが論点なのだ。中二からしたら小五の算数が簡単なのは当たり前だろうがと眉がぴくぴくした。
また別の日、日曜日である。お母さんが買い物へ行っている間、姉と僕は分担で家事を仰せつかった。姉は風呂掃除、僕は庭のテラスに干した洗濯物をこんでたたむのが役割である。終わったらテーブルにあるおやつを食べていいことになっていた。母が出かけたあとで僕は早速庭に出て洗濯物を取り込もうとしたが、触ってみるとまだ少しばかり湿っぽい。完全に乾くのを待って漫画を読んでいたら小腹が空いてきた。お菓子は任務が終わってからと言いつけられていたが、洗濯物は乾いていないし口さみしいしで僕は自分の分をぽりぽりつまみ始めたのである。半分ほど食べたところで姉が風呂掃除を終えてお菓子を食べに来た。
「まだ洗濯物やってないよね」
姉はテラスで揺れている洗濯物を指差した。
「もう少ししたらやるよ。まだ乾いてないんだ」
単行本一冊読み終えて洗濯物を確認するともうすっかり乾いており、僕はそれから二十分足らずで任務を遂行した。
買い物を終えた母は五時頃に上機嫌で帰宅したが、なぜか晩ご飯の用意をする頃には虫の居所が悪くなった。
「洗濯物たたみ終わるまでお菓子は食べちゃだめだって言ったよね?」
僕が順序を破ったことに対して怒っているのである。どうやら姉がチクったらしい。僕は洗濯物が乾いていなかったこと、小腹がすいていたこと、言われた仕事はちゃんと完遂したことで正当化を主張したが聞き入れられなかった。
「洗濯物たたむのも紗季ちゃんがやったって聞いたんだけど」
冷たい口調で言う母に、僕は唖然として何も言えなかった。姉の密告はどうやら事実と異なるらしいのである。それから僕はしばらくおやつ抜きの憂き目にあった。その日の晩御飯後、おみやげのサーティーワンアイスクリームを僕の分まで食べる姉をみて、僕は初めて肉親に対する殺意を覚えたのである。