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無邪気という言葉がどのような定義になるのかはわからないが、とにかく僕がまだ一般的に無邪気とされていた小学二年生の四月、僕のクラスに教育実習の先生がやってきた。横浜国立大学の教育学部に通う女子大生であった。その先生が担任に連れられて教室に入ってきたときのことを覚えている。背中まで伸ばした長い髪を真ん中で分け、てらてらした四角い顔に粘土で固めたような笑顔を浮かべ、地味なグレーのスーツを着ている。僕はその教育実習の先生の顔に激しい既視感を覚えたが、どこで見たのかは思い出せずにいた。
「今日からこの教室でみなさんと一緒に勉強させていただきます、小野寺みさとです、みなさんよろしくお願いします」
「ストトコムーチョのととこだ」
誰かが叫んだ。当時テレビで爆発的に人気が出始めた女性お笑い芸人のボケの名前である。満面の笑みを浮かべて、ラジオ体操第二の張り切ったゴリラのような体操に似た動きをしながら頓狂なことをのたまい人気を博していた。既視感の原因が判明した。本当にそっくりだったのだ。教室は爆笑に包まれた。似てるー、だのサインちょうだい、だのの野次が笑い声の合間に起こる。当時の担任は体育大をでた筋骨隆々の中年男性で、普段ならこのような無秩序を放って置くはずもないのだがこの時に限って何も言わない。ふと見てみるときつく目を閉じ拳を口に押し当て、耳まで真っ赤にして肩をぷるぷる震わせて笑いをこらえていた。
さて教育実習生は人気お笑い芸人に似ているという強みと生来の人あたりのよさをもって、瞬く間に学校の人気者となった。教育実習には二週間ほどいたが、休み時間やお昼休みは彼女にまとわりつく児童が絶えなかった。みんなは彼女のことを親しみを込めてととこ先生と呼んでいた。そう呼ばれることに本心ではどう思っていたのかは知らないが、それで児童が懐いてくれるのなら背に腹は変えられないといった様子で、教育実習生は顔をてらつかせながらそのあだ名に甘んじていた。例のゴリラ体操も、児童たちから求められれば快く応じていた。教育実習の最終日、花束とみんなからのメッセージが書かれた色紙を持ちながら、ととこ先生は脂の浮いた顔をくしゃくしゃにして号泣した。立派な先生になるからどこかでみんなまた会おうね。クラスメイトたちはひとりひとり泣きながらととこ先生とお別れの握手をした。手渡された色紙には真ん中に「ととこ先生へ」と書かれていた。
僕がととこ先生と握手をする番になって、彼女のてらてらした顔を改めてまじまじと見つめた。僕の眼差しには尊敬がこもっていたに違いない。このおかめさんのような一介の女子大生との別れをみんな心の底から惜しんでいる。彼女のカリスマ性を僕は心から羨んでいた。そしてそのカリスマ性を僕は短絡的に彼女が有名人に似ているからなのだと結論づけていた。
三年経つころにはストトコムーチョはマスメディアから忘れ去られた。僕は五年生になっていた。
下校途中ににわか雨に降られて帰宅したのち、バスタオルで頭を拭きながらテレビをつけるとちょうど相撲がやっていた。某少年漫画誌上で高校生の相撲部のお話が連載していて、僕は夢中で読んでいた。小兵である主人公が自分よりふたまわりも大きい選手を投げ飛ばすのにカタルシスを覚えたのである。僕は漫画の中に出てくるような豪快な決まり手が炸裂するのを期待して画面を眺めていた。立会い前の力士の顔がアップになり、僕は、あっ、と思わず声を漏らした。僕には三つ上の姉がおり、近くの公立中学に通っている。その姉が、まげを結い、まわしを締めて、蹲踞の姿勢をとって塵手水で手を清めているのだ。何が何だかわからなかった。僕は母親に説明を求めることにした。
母親はキッチンで白菜を切っていた。
「お母さん、おねえちゃんがテレビで相撲とってるけど」
母親は包丁を動かす手を止め、なぜか悲しそうな顔で僕を見た。息子の気が触れたと思ったのかもしれない。母を連れてリビングへ戻ると、ちょうど両力士が見合った状態で、まさに取り組みが始まろうとしているところだった。真剣な姉の顔が画面に映し出された。あらっと声を漏らして母は画面に見入った。笑っているのか困惑しているのかわからない表情だった。
「ほんとね、紗季ちゃんにちょっと似てるかもね」
僕はもう一度画面をよく見た。ちょっと似てるどころではなかった。同じ顔をしていることドッペルゲンガーのごとしである。姉は取り組みが始まるとほとんど同時にまわしを取られ、上手投げを喰らって土俵の下へ豪快に転がり落ちていった。画面の栃若葉という名前の下に黒い丸がついた。
僕はさっそく動画サイトで栃若葉というお相撲さんを検索し、出てきた動画を見あさった。取り組みの様子がたくさん出てきた。栃若葉は取り組みの前になるとルーティンとして握りこぶしで自分の頭から胸までを順番にぽこぽこと殴っていき、最後にパーンと腹を叩いて気合を入れる。コメント欄を読んでみると相撲ファンのあいだではポコポコダンスと呼ばれているらしい。バラエティ番組に出演したときの動画も観た。北関東のなまりで喋り、黄色い声にかわいいかわいい言われて人あたりの良さそうな照れ笑いを浮かべている。観覧客が手拍子に合わせて四股名を唱和し、調子に乗ってポコポコダンスを披露していた。僕は画面の中で喝采を浴びて微笑むお相撲さんを、いつの間にか姉と錯覚していた。
翌日、僕は学校へ向かう道すがら、友達に会うたびに栃若葉というお相撲さんを知っているか聞いていった。学校へ着くまでに五人に声をかけたが、返ってくる答えは今ひとつ芳しくない。僕はやきもきしながら教室への階段を駆け上がった。
教室では窓際の後ろの席であきやんと拓海とたけもっちゃんが最近出たスマブラの話で盛り上がっていた。
「お、蒼太。おはよう」
僕は三人に栃若葉を知っているか尋ねた。
「知ってるよ」「俺も。相撲取りでしょ」「えー、知らねーや」
実はさ、と僕が言いかけるより早く拓海が笑って言った。
「あいつ不細工だよな」
あきやんがきゃっきゃと笑って何度も頷いた。僕はとたんに声が出せなくなった。喉元に刃物でも突き立てられた気がした。
「なになに、どうしたの」
前の席で漢字練習の宿題をやっていたユウジくんが振り返った。
「栃若葉ってお相撲さん知ってる? すっげーブサイクなやつ」
「あ、知ってるー。ぶくぶくに太ったモアイを百発くらい殴った顔だよな」
皆が爆笑する中、僕だけは顔を引きつらせたまま黙っていた。姉が笑われている気がしたからだ。
「で、その栃若葉がどうしたの?」
「え?」
みんなの顔が僕に向き、僕はどうしていいか分からずにごまかすような笑みを浮かべていた。「いや……」目を泳がせて黙っていると早く言えよという空気がみんなの目つきから伝わってきた。
「不細工だなと思って……」
「ははは、でもおれあいつ好きだよ。いい人そうだし」
ユウジくんの言葉に僕は少し安心した。
「相撲も一生懸命やってるしね」「天然っぽいところがあっておもしろいよな」なんだかんだでみんな好感は持っているらしかった。
「じゃあさ」僕は恐る恐る口を開いた。
「もし自分のお姉ちゃんが栃若葉に似てたらうれしい?」
バカなことを訊くなあという顔を拓海はした。
「さすがにそれは嫌でしょ」
「うん、絶対やだ」
「兄ちゃんでもきつい」