第一章「超能力者に基本的人権はありません」
前書き。
ごきげんよう。ミセスクインと申します。なろうでは三作目となる「全ての超能力者よ立ち上がれ。今こそ悪しき政府を叩くとき!」を発表いたします。先ずは前編に当たる、第五章まで。今回は意識してミセスクインらしくない書き方をしていますが、ゴーストライターを使ったとかそんな理由ではありません。中の人はちゃんとミセスクインです。理由は後で分かります。にこ。
この物語を通して、いかに人権が大切かと、気づく機会に繋がれば幸いに御座います。
突如として、人々に「武器を出現させたり」「手から炎を出したり」「航空力学を無視して自力で空を飛んだりする」特殊能力が発現するようになった。
俗に言う超能力である。
原因は不明で、病気とも、薬物とも、どこかの新興宗教の奉じる神がもたらした奇跡とも言われた。
観測されたそれらの発現は全国で数百人を超え、能力は様々であった。
正確に言えば、超能力者は以前より存在していたが数が希少であった。これまでは殆ど人の目に触れる事が無かっただけなのである。
自身の才能を活かして動画投稿するような活動をしていた者もいたが、だいたいの場合でトリックだとか加工した画像だとか言われて、インチキ超能力者、自称超能力者と言われて終わるのだが、急に社会的認知を得て、それら超能力が先天性のみならず後天的にも発現しうると周知された。
人々は、特に少年少女は歓喜した。漫画やアニメの世界で表現される「世界の敵と戦う宿命」や「力なき人々を助ける」というような「物語の当事者」に、自分もなれる時が来たのだと思ったからだ。
多くの人が、もしかしたら自分にも眠っている能力があり、いつか覚醒するのかもしれないと期待した。
だが現実はそんなに都合よくはない。
彼ら超能力者は普通に「社会にとって不穏な存在」とみなされ、次々と投獄される。
勿論、彼らは強力無比で特殊な能力をもっているのだ。相手が銃を持っていようと、爆弾を持っていようと、集団で追い立ててこようと、「抵抗するというだけなら」十二分に抵抗する事はできた。
が、彼らには「抵抗するメリットがなかった」のである。
考えてみて欲しい。
彼らは他の人間には無い大きなアドバンテージを持ってはいるが「所詮は人間」である。
一から農耕を学んでいる訳でもない彼らは食糧を確保する事が極めて難しい。それらを作ってくれる人間を殺す訳にはいかない。狩猟で肉を食らおうにも、自然界にいるのは寄生虫や恐ろしい細菌に侵された動物だらけだ。電気やガスといったエネルギーを失った生活なぞ出来る訳はなく。着ている服や歯磨き粉や靴紐の一本に至るまで、全てを自分達の独力で作り出せる訳ではないのだ。
そして、それらを円滑に入手して生活するために貨幣経済社会への参加が必須である以上、その尖兵である警察への抵抗なぞ、何の意味も為さないのだ。
その上、警察組織を相手取るには、彼らは少数であり不利であった。
超能力者もヒト科の生物である以上、睡眠は取らなければならないが、警察や自衛隊などの組織は、その優位性をもって365日24時間のローテーションを組んで行動ができる。
もっと単純に、そう、例えば超能力者が「暴力によって人々から略奪して生活する」というような選択をしたとしても「食い物や水に薬物を混ぜておく」という事が相手にはできる。
狙撃への警戒、毒虫への警戒を長時間続けて生活する事も、訓練を受けていない者には無理だろう。
自衛隊の出動どころか、警察が持っている基本能力だけで超能力者による犯罪行為には容易に対処できた。それはつまり、「そんなふうに強い組織である警察を攻略しても」次には「もっと強い自衛隊」が控えている絶望を意識せざるを得ないのだ。
もし仮に、彼ら超能力者がその圧倒的な戦闘力によって国を滅ぼしかねない行為に及んだとしたら、例えば、警察や自衛官を虐殺し、政治家を脅して自由奔放に残虐な行為を繰り返したとしたら、普通に外国からミサイルを撃ち込まれるだろう。
圧倒的な攻撃力のみを背景に行われる恐怖政治がどのように国を蝕むかは「外国こそが良く知っている」のだ。すぐに「日本という国が使い物にならなくなり」人的資源を含む財産を失った超能力者が、日本国の外へ侵攻するような事態になる前に「適切に対処」してくるだろう。多くの民間人を巻き込む事になるだろうが、それを一般人が観測する事は無い。テレビや新聞や週刊雑誌で「超能力者によって民間人が皆殺しにされたが爆撃によって敵勢力は壊滅」とでも言わせれば片が付く。なんなら、多くの民間人を救出したと言う事もできる。「その情報の正否なぞ確認のしようがない」のだから。
また、それら人為的な攻撃や作戦から完璧に身を守れたとしても「病気になる」リスクや「事故などで怪我をする」リスクは誰もが平等に持ち合わせているのだ。そうなった時、医療施設や製薬会社、流通が機能していない事には話にならない。人類社会への反逆という選択肢は、彼らの内から瞬時に無くなった。
これらの情報は凄まじい速度で拡散し、浸透した。
そう、超能力者には「国家に抵抗するメリットがなかった」のだ。
抵抗すれば死ぬしかないのだから当然である。
当然の結論として、超能力者は「逃げる」「隠れ潜む」といった選択をする事になる。
そして国家にとって彼ら超能力者は危険であり、利用できるならそれでいいが、死んでも「別にどうって事はない」のである。
それは、そういう話だった。
政府は、超能力者によって引き起こされると予想される被害を防止、または対処する為に「超能力等特別措置法」を制定した。略称を超能力特措法と言い、超能力を扱う事のできる全ての存在が対象となり、超能力者という俗称で呼ばれる存在は、現行人類から逸脱し特別な変異を遂げた生命体として扱われた。人間とは扱われなくなったのである。
特措法によれば、超能力者は社会から隔離された場所に集められ、移動する事を禁じられる。水や食料等、生存に必要な物資の供給は保障されるものの、それ以外は自費となる。当然だが、移動の自由がないのだから就業にも自由はない。低賃金に抗議する意味もなければ、より仕事を評価してくれる場所へ移る事もできない。ライブイベントに参加する事も出来なければ、プールで遊ぶ事も出来ないし、旅行に出かける事も出来ないし、美味しいラーメン屋を巡る事もできないし、空気の美味しい山に登る事も出来ない。
これでは奴隷だ。
まともな思考ができればすぐにそれを悟る事が出来たし、特措法が出来る前に、または出来た後にでも世論は抗議すべきだったが、蔓延する無気力感や、喧伝される警察や自衛隊への恐怖は、人々から正常な判断力を奪っていた。
政府は、とどめと言わんばかりに超能力者の危険性を強調するコマーシャルを次々と流した。
やがて、人権について強く主張すべき民衆の中から、超能力者から人権を奪えと、社会から隔離しろと声が上がるようになった。
初めは超能力の覚醒に期待した人たちも、政府と、反超能力派から攻撃を受ける事を恐れて何も言わなくなった。何も言わなくなったのだから、世論とは反超能力思想を指す事になる。
超能力者の扱いについて中庸であった人々も、そうした世論の傾きに迎合した。
人権尊重の観点から特措法に反対していた人たちは、一見して少数派となった。
その場の全員でかかれば、そこで命令している人間くらい簡単に打倒できる。「それに気づかないのが奴隷」であり「気づかせないのが支配者」である。
いつの間にか、超能力特措法を巡る問題は政府の横暴ではなく、民意が伴った決定だと印象付けられ、超能力者自身も、人権尊重派の人々も、誰と戦えばいいのか分からなくなっていた。
超能力にいつ覚醒するかなぞ誰にも分からないという事は、その差別対象にいつ自分や家族や友人がなるかも分からないという事だが、なぜこうも差別を推進する声が大きいのかと、尊重派は困惑した。大多数の身の安全を守る為なら、少数を奴隷として扱う事や差別する事は合理的だとする考え方をする日本人がいる事が信じられなかった。きっと気の迷いだ。きっと彼らも突然の事に動揺しているのだ。違いない。何とかそう思って平静に対処しようとした。
そうして、どうにか人権を守る事の大切さを理解してもらえないかと慎重な説得を試みている間に、一人、また一人と超能力者が逮捕されていき裁判を経て、それら差別的な行為は合法的だとされて、日常のものとなっていった。
これは、超能力の発現によって基本的人権を失った「元人間」たち、「超特別指定害獣」にまつわる物語である。