15話 逃げるのは悪い癖だとわかっていますが
午後、小腹が空いたヴァネッサはカフェで休憩をしていた。料理が来るまで今後の予定についてダリウスたちと確認をする。
ダリウスができる限り仕事を前倒しにして終わらせてくれたとはいえ、いつまでもこの国に留まることはできない。ライルの暗殺阻止という目的は達成できたため、そろそろ帰ってもいい頃である。当初の予定では明日帰ることとなっており、このまま計画通りにいくことになりそうだ。物騒ではあったものの結婚式の宴に参加し、祭りも楽しむことができたのだから、満足である。かなり充実感があった。
「少し寂しさを感じますが、とても楽しかったです」
「ならよかった」
早くに提供されていた冷たいチャイを飲んでいた手を止め、ヴァネッサはニコリと微笑んだ。ダリウスもよく冷えた珈琲を飲みながら、満足気に微笑み返す。
すると、甘いシナモンの香りがふわりと香った。店員が注文した焼き菓子を持ってきたようだ。
白い紙の上に積まれた、まんまるとした一口サイズの揚げ菓子はルゲマート。デーツの蜜がたっぷりとかけられており、一つ齧ればレモンのように爽やかなカルダモンと、漢方薬のように独特なサフランの香りが鼻腔を通り抜けた。上にかけられた胡麻のプチプチ感と、外側の生地のカリッとした食感が楽しい。
たっぷりのナッツを中心に詰め込んだパイのお菓子はバクラヴァで、内部まで染み込んだ蜂蜜の甘さがじんわりと舌に溶けていく。
焼き色が綺麗なケーキはバスブーサといい、生地に染み込んだシロップや、生地に使われているココナッツのいい香りが堪らない。しっとりとしているのにふわふわで、このまますべて食べ切ってしまいそうだ。オレンジウォーターに浸されたものは爽やかで、ローズウォーターはフローラルで少しビター。ヨーグルトは非常に濃厚で重たく、ブレイズやアヴァランシェで食べるものより酸味があり、甘い生地と相性抜群だ。
どれも美味しくて、手がとまらな――
「むぐっ」
「ヴァネッサ!」
突然、バスブーサの塊がヴァネッサの喉に詰まった。慌ててチャイを飲み、喉の奥へと流し込む。
ほっと一息つくと、ダリウスもまた息をついていた。次いで、ヴァネッサの口元へと手を伸ばす。離れた指先には、何をどうしたらそのようなことになるのか、スライスアーモンドが一枚挟まれていた。
「取ってくださり、ありがとうござ……」
「甘いな」
何をどう思ってそのようなことをしたのか、ダリウスはアーモンドの消えた彼の唇をそっと拭った。
「そんなに急いで食べていては喉に詰まらせてしまう。まだ時間はたっぷりあるから、ゆっくり食べるといい」
固まっているヴァネッサに気付いていないのか、愛おしむように目を細める。
「甘いものに飽きたのでしたら、これはいかがですか?」
助太刀と言わんばかりにミアが差し出したのは、パリパリとした生地が蓋のようにのっているタルトにもピザにも似た熱々の何か。クナーファと言うらしく、大きなスプーンで掬えば中からホワイトチーズがたっぷりと現れた。はしたないとわかりつつつもかぶりつけば、チーズのまろやかな甘味と塩気がぶわりと広がっていく。
「こちらもどうぞ」
スチュワートが差し出したお皿には、拳ほどの大きさのパンだった。ぱっと見は全粒粉に見える。しかし、食べてみればまったく違う。デーツの甘みやターメリックのスパイシーさがふんだんに感じられた。無花果のジャムやクリームチーズ、ピーナッツバターやルゲマートでお馴染みデーツの蜜と一緒に食べると、これまた違ったよさが。
オレンジの香りが豊かなクッキーはアクバといい、口に含めばホロっと崩れる。故に、摘む手が止まらない。
甘い、しょっぱいの組み合わせは悪魔的で、あっという間にヴァネッサはお菓子を食べ切った。
お腹をさすりながらカフェから出て行く。
「大満足です! もうお腹いっぱいですわ」
「そうか。ちなみに、あそこにケバブが売っているぞ」
ダリウスが指し示した方向を見れば、こんがりと焼けた肉がゆっくりと回転していた。焼けたお肉のいい匂いが辺りに漂っている。
「いくつほしい?」
彼の問いに、ヴァネッサは指を一本……いや、二本立てた。
★★★
街を練り歩き、ランプを買い漁り、美味しいものをたらふく食べ。
夜はレストランの最上階で、町を一望しながらディナーを。ほんのり甘いレンズ豆のスープに、身が柔らかくて溶けそうな羊の丸焼き、スパイスの効いたビリヤニ。トマトやキュウリのサラダにはザクロがのせられていたのだが、これが甘酸っぱくて美味しいのだ。パセリやそら豆、コリアンダーなどを丸めて上げたタアミーヤはホクホクでほんのりスパイシー。
食後はお砂糖控えめのカルカデと、蜂蜜たっぷりのケーキ――コナーファを。細かな生地のサクサクと、中に挟まれたアーモンドのザクザクとした食感が食欲をそそる。
ワインも飲んで、ちょっぴりいい気分で宿へと戻ってきたヴァネッサは、酔い覚ましにベランダで夜風に当たっていた。椅子に座り、こちらを見つめているダリウスへと笑いかける。
「今日はとっても楽しくて、幸せな一日でした」
「そうか」
短い言葉だったが、ダリウスの表情は幸せだと物語っていて。ヴァネッサは照れ隠しをする様に笑みをこぼし、次いでお土産にと買って帰ったグラーシュを一口含んだ。サクッと軽やかな音が鳴ると同時に、甘いナッツの味がじんわりと感じられる。
町はハッサンから聞いていた通りまだまだ賑わいを見せており、むしろ、昼間より活気に溢れていた。色とりどりの光を放つランプたちが、風に吹かれて揺れているその姿を眺める。人々が話す、踊る、楽器を鳴らす。それだけで、たった一夜の特別なオーケストラへと早変わり。
「美味しいものを食べて、こうして殿下と一緒にいられる……本当に、ここに来てよかったです」
「俺も同じ気持ちだ」
ふと、ダリウスが立ち上がってヴァネッサの手を取った。
彼の瞳にランプの光が宿って、万華鏡のように幻想的な美しさを放ち出す。瞬きをする度に色が変わって、気を抜くと引き込まれてしまいそうだ。そんな彼の瞳が、愛おしそうに細められた。ランプの光か、それとも別の何かのせいか、彼の耳がほんのり赤い。
「君とは婚約をした中だが、まともに逢引きをしたことがほとんどなかっただろう。だから、こうして共に祭りを楽しめたことが純粋に嬉しくて堪らない。幸せで、胸が温かくて、いっぱいだ」
彼の唇がヴァネッサの手の甲に触れた。
ゆっくりと紡がれていった言葉には、一つ一つ感情が灯っている。それが、ヴァネッサには痛いほど伝わってきた。
彼の手がヴァネッサの頬へと伸びる。ほんの少し驚きながらも微笑めば、彼は幸せそうに一度、瞬きをした。
「幸せで、愛おしくて、いっそのことこの時が永遠に続けばいいのにとさえ思う」
「私こそ同じ気持ちですわ」
ダリウスの手に力が入り、距離が狭まる。
波打つ鼓動に身を任せ、静かに目を閉じる――その時、違和感のようなものが走った。
「待ってください」
何かを忘れている気がする。大切な約束を。
そう、確か……
「ハッサンがまだ」
「えっ」
彼の名前を呼んだ瞬間、階下から戸惑うような声が聞こえてきた。
ダリウスから目を逸らして見えたのは、気まずそうに目を見開き、慌てて立ち去るハッサンの姿。その隣には誰もいない。
「来ないと思ったら!」
ヴァネッサは彼を追いかけるべくベランダから飛び出した。――が、その腕をダリウスが掴んだ。
「待ってくれ。彼を追うつもりか」
「すぐに戻りますから。あんな顔で逃げるなんて、何かあったに違いありませんもの」
だから離してください。そう伝えるも、離す様子はない。
「どうしてそこまで彼を気にかける」
「二人の恋を応援したいと思ったからです」
「一人の人間に構いすぎだ」
「そんなことは……!」
ない。その言葉は、苦し気に歪められたダリウスの顔を目にした瞬間に消えてしまった。
今にも泣き出しそうな、縋るような目に心臓を鷲掴みにされたような心地がヴァネッサを襲う。
それでも、こうして牽制し合っている間にもハッサンの姿はみるみるうちに遠くへ離れて行っていて。
「……ごめんなさい! おかしいと気付いていながら見過ごすなんて、できません」
ほんの一瞬力が弱まった隙に、ヴァネッサはダリウスの腕を振り払った。失速しないために振り返ることなく階段を駆け降りていく。いや、炎の力を使い飛び降りた。
宿を出て、人混みを抜けて、暗い暗い路地裏に入って。息が切れ始めたところでやっと、ヴァネッサはハッサンの肩を掴んだ。
「待って!」
一声かけて、必死に呼吸を整える。地面には汗が何滴か落ちていた。
最後に大きく息を吐いて顔を上げる。すると、ハッサンは何かに怯えるように顔を真っ白にさせて、眉をハの字に下げていた。
「何があったの?」
そう尋ねれば、頭を小刻みに横へと振った。
「早く帰ってください」
悲壮感漂う顔でハッサンが主張したその時、ヴァネッサの背後からバタバタと激しい足音が聞こえてきた。
「ボルボレッタ様!」
振り向けば、額に汗を滲ませたミアが迫っていて。まずい、と後ずさったのも束の間、ミアは目の前で止まった。
小さな荒い息を二度して、ヴァネッサを見つめる。
「お怪我はございませんか」
いつも通り冷静な口調で彼女は尋ねた。その様子に驚きながらも頷く。すると、彼女は「よかった」と疲れきった表情で呟いた。
「宿へ戻りましょう。ハッサン様のお話を聞くにしても外は危険です」
ヴァネッサは逃げようとするハッサンの腕を掴んだ。頭にはずっと、ダリウスの表情がこびりついている。
「……そうね、戻りましょう」
まずは、静止を振り切り飛び出してしまったことを謝らなければならない。そう思いながらハッサンの腕を引く。
その時、辺りに紫煙が広がった。
吸い込んだ途端に喉がビリビリと痺れだし、視界が揺れ出す。
「これをお使いください」
激しく咳き込むヴァネッサにミアがハンカチを差し出した。口元に当て、町の光へと向かうため、気付けば地についていた膝をなんとか起こす。
すると、遠くから武装した衛兵らしい者たちが駆けてきた。たった一声だったが「殿下」と呼んだということは、ヴァネッサの正体を知っているということ。サファイアの石がはめられた剣にも見覚えがある。
どうしてここにアヴァランシェの衛兵が来ているのだろう。そう疑問に思うと同時に、安堵してしまう。
しかし、それはほんの一瞬だった。
上空から現れた僅か十数人の暗殺者たちによって、倒されてしまったからだ。瞬きをするより速く。
「お前がボルボレッタだな?」
誰かが耳元でそう囁いた。
悪寒が走る中で炎の力を使おうとハンカチを手放す。しかし、既に手枷がはめられてしまっていて。
刹那、視界がグルリと回った。目の前には倒れているミアとハッサンの姿が。
(あれ? 胃の奥がぐるぐるして、気持ちが……悪い……)
視界が瞬く間のうちに闇に侵食されていく。
最後に感じられたのは、吐き気がするほど濃いムスクの香りだった。




