38話 忘れた頃にやってきますよね
ヴァネッサによる熱烈な温泉プレゼンを受け、疲弊した様子の氷狼。ダリウスが彼へと振り向いた。
「返答はシェールに伝えてくれ。では、失礼する」
「またお会いできる日を楽しみにしていますわ」
「あ、ああ」
氷狼が頷いたことを確認し、背中を向ける。
教会に住むのか、山に住むのか、決まるまで氷狼はイエローボ山にいることとなった。ダリウスが言った通り、結論はシェール伝いで聞くつもりだ。
とはいえ、温泉宿を建てていいとの言質はとれた。完成すれば、また気が変わるかもしれない。
ちなみに、シェールは子供たちと共に、スチュワートを筆頭にして先に帰ってもらうつもりだ。近くで待っていた彼らの元へと向かう。
と、その時、ダリウスの手に力が込められた。
ヴァネッサに向き直した彼の瞳は、真剣そのもの。
「どうしましたか? やはり、まだ不安が残りますか」
「いや、違う。少し落ち着かないが……」
儚げに視線を横に逸らす彼に、ヴァネッサは首を捻った。
次いで、彼の耳が先ほどよりも赤く染まっていることに気づく。寒いからなのか、血の気が戻ったからなのか、はたまた別の理由があるのか。わからずに言葉を待っていると、ダリウスが一つ、ゆっくりと瞬きをした。
「今度こそ、伝えさせてくれ」
ああ、そういえば、ジルダの件が起こる前に、伝えたいことがあると言っていたか。
彼の瞳を見つめながら、ごくりと喉を上下する。
そして、はたと気付いた。
媚薬は二つ用意されていたことを。
「俺は――」
「待っ――」
「認めない!」
顔を横に逸らせば、媚薬を溢しながら瓶がこちらへと飛んできていた。
ダリウスがすぐさま氷を放ち、そのまま引き寄せる。そして彼は氷が溶けないようミアに預け、ヴァネッサの前に出た。
崖の側に隠れていたらしく、カレンがゆっくりと俯いたまま歩いてくる。握られた拳は硬く結ばれ、微かに震えていた。
「まだいたのか」
「――ない」
ようやく上げられたカレンの顔は、正に鬼の形相で。
「前作の悪役と、続作のヒロインだけが幸せになるなんて、そんなのわたしは許さない!」
カレンは大きな瞳に涙を湛えながら、キッとこちらを睨む。しかし、何か思い立ったような顔をしたかと思うと、不気味なほど優美な微笑みを浮かべた。
「ねぇ、ダリウス様。知っていますか? ヴァネッサ様はわたしをいじめたんですよ。会うたびに睨まれて、いっぱい酷い言葉をかけられて、教室の真ん中で教科書を破かれたこともあります。……彼女を庇っていらっしゃいますが、猫を被られているだけでは?」
「そんなことはない」
ドクリと胸が跳ねたヴァネッサの前で、ダリウスがはっきりと言った。
「彼女からすべて聞いた。この世界のことも、彼女が今まで悪役として生きてきたことも。もちろん、過去も」
「なら、ヴァネッサ様がどれほど冷たくて、怖くて、嫌な人物かわかったはずです」
「それは、彼女の一面しか見ていないからだ」
ダリウスがもう一度、ヴァネッサの手を取った。
「俺は、すべてを聞いた上でここに来た」
彼から鋭い眼光を向けられ、カレンの眉間に皺が寄る。次いで、吐き捨てるように下を向いた。
「……なによそれ」
カレンの身体が震え出す。そして、唇をぐっと噛み締めた。
「ゲームのシナリオから外れて、キャラクターとしてじゃなく……」
悲壮感漂う雰囲気から一転。カレンは再び、激しい怒りを露わにした。
「とにかく! 悪役のくせに素敵な王子と、しかも、わたしの推しと結ばれるなんて、ズルい、ズルいよ!」
「ズルいって……待って、貴女の推しはハリー様じゃないの?」
「違う。一番死亡率が低くて、地雷がわかりやすいから選んだだけ。推しでも好きでもなんでもない」
「えっ……」
ヴァネッサの驚いた声に、絶望したような呟きが混ざった。この場にいる誰のものでもない声に、そっと振り向く。
「わっ」
後ろに立っていたのはハリー。
彼の姿があまりにもボロボロで、ヴァネッサは思わず引いた声を出してしまった。
彼の服は擦り切れ、身体は寒さに震え、顔は真っ青。おまけにゲッソリと頬骨が浮き出るほど痩せこけていた。
これでもかというほど下げられた眉毛が、悲壮感を増幅させている。このまま倒れて死んでしまいそうな勢いだ。
「……どういう、ことですか」
捻り出された声も弱々しい。戦闘中だったなら確実に聞こえていなかっただろう。
縋るようにカレンへと歩いていくハリー。戸惑いつつも(引きつつも)、彼を止めないようミアとダリウスに目配せをする。
その時、ハリーの目がグルンとヴァネッサへと向いた。あまりのホラーに肩が跳ね上がる。
「君が彼女を連れ去ったのか? そして私のことを嫌いになるよう洗脳したんだな?」
「何度も言いますが、婚約破棄以来、私は一度も彼女をいじめていません。自分から接触したこともありません」
「なら何故、可憐な彼女の口からあのような言葉が出てくる!」
濃いくまが刻まれた彼の瞳が見開かれ、ヴァネッサへと掴みかかった。炎が出るより早く、ダリウスの手がハリーの腕を掴む――その時、カレンがため息をついた。
「だから、私に捨てられるんですよ」
少し口調を戻したカレンは、心底馬鹿馬鹿しそうに頭を捻った。その小さな唇からクスリと笑みが溢れる。
「思い込みが激しくて、理想が高くて、バカ真面目。死なないために我慢していたけど、ずっと理想の女子像を押し付けられて、うんざりだった」
ぐしゃりと前髪を握るカレン。ヴァネッサの隣からハリーがふらふらと歩き出す。
「何を言っているんだカレン。私は理想なんて押し付けていない、いつだって君自身のことを――」
「それはわたしじゃない!」
再び怒号を発し、彼女はどこか泣きそうな目でハリーを睨みつけた。
「苦手な裁縫だって、歌だって、楽器だって頑張った。それなのに、『私は君のことをわかっている』だとか、『流石』だとか……気に入らなかったら殺すくせに、よく言いますね」
「そんなことしない!」
「するの!」
喉が切れるのではと心配するほど大きな声をあげたハリー。更に大きい声でカレンが否定した。
それでも、ハリーはヴァネッサからさらに離れ、ヨロヨロとカレンへと歩いていく。
「好きだと言ってくれたじゃないか」
「すべて演技です」
「いつも優しかったじゃないか」
「ずっと猫を被っていたから」
「どうして」
「……どうせ信じない。思い込みの強いあなたなら、特に」
カレンは嫌そうに眉間に皺を寄せ、小さな声で吐き捨てた。次いで、息を整えて深呼吸を一つ。
「それより、もうわたしを探さないでください。婚約もしません」
「でも、私は君のことが――」
「わたしは好きじゃない。あなたもわたしを好きじゃない」
顔色一つ崩さず、冷ややかに言い放つカレン。
伸ばした手を叩かれてついに絶望したのか、身体が限界なのか、ハリーはその場に力なく崩れ落ちた。こちらに向けられた背中はひどく弱々しい。
(どうせ信じない、ね)
ゲームのことだろう。もしカレンの言う通り、ハリーが理想像に盲目的なのだとしたら、
「気が動転しているのだ」と彼女に言いかねないだろう。今まで散々聞いてきた独りよがりな発言からも、その可能性は考えられる。
また、今回のカレンの主張や、二人の会話を通して、彼女の「ズルい」という言葉の理由が少しだけわかった気がする。
彼女が言った通り、妥協してハリーを攻略したカレンとは違い、ヴァネッサはゲームのシナリオから外れ、結ばれたいと思った人物とくっついたからだろう。要するに、「そんなのありか」というわけである。
なら、
「どうして貴女は、ゲーム外の行動を取らなかったの? 羨ましい、と言われるのならまだしも、ズルいと言われるのは少し――」
「わたしの苦しみがわかるはずない!」
少し心外。その言葉は、カレンの気迫に押されて喉の奥に引っ込んでいった。殺気にも近いその圧に、全身の毛が逆立ちだす。
「ヴァネッサ様はしょせん悪役で、婚約破棄されたらちょっと高齢の人に嫁がされるだけでしょ!? 力をなくすだけでしょ!? ヒロインのわたしみたいに死なないでしょう!? なのに、どうして殿下のところになんて行ったの!」
完全に気が立ってしまっているカレンを前に、ヴァネッサはダリウスの背後から出た。
「ただ単に嫌だからよ。あと、喉は潰されるし、結局は生贄として殺されるから『だけ』ではないわ」
「はぁ!? そんなこと、ファンブックにも書かれていなかったわよ」
「あと私、『誰かよりはましなんだから、幸せなんだから我慢しなさい』という主張は好きじゃないのよね。他人の幸せと自分の幸せは別なのだから、それぞれで幸せを目指せばいいじゃない」
「それは……」
何故か唇を噛むカレン。
少しの間押し黙ったのち、徐に懐へと手を忍ばせた。
取り出されたのは、先ほど飛んできた小瓶より遥かに大きな瓶。
警戒したダリウスが剣に手をかけたその時、カレンが「動かないで」と叫んだ。瓶を引き寄せ、縮こまる。
「この中には、揮発性の媚薬と神経毒が混ぜられています。瓶の中から漏れ出た途端、凍らす間も無く飛散しますよ」
攻撃したら瓶に当たる。ダリウスが上手く当てたとしても、凍る前に蓋を開けられてしまう。
額に汗が浮かぶヴァネッサの顔を見て、カレンが再び勝ち誇ったような笑みを浮かべた。……いや、それにしてはどこか危うい。
「せめて、悪役のヴァネッサ様だけでも引き摺り下ろしますから」
くしゃりと笑ったカレン。
彼女の目元が光ったその時、崖の上で何かが動いた。
「逃げて!」
「えっ?」
カレンの上に降ってきたもの。
それは、無数に連なる氷柱だった。




