29話 逃がしてください離してください
太陽の光が降り注ぐ廊下の先で、清潔になった衣服の詰まった洗濯カゴを抱える女中が歩いている。
「ちょっと失礼!」
「ヴァネッサ様!?」
ヴァネッサはその腰をさっと抱いて端に移動させ、奥へ向かって駆け抜けた。
「失礼する」
「ダッ、ダリウス殿下!?」
(まだ追いかけてくるのね……!)
衝撃的なダリウスの登場から数分後、二人は別荘内で全力の追いかけっこをしていた。
窓を使い、階段(の手すり)を使い、時には石像の裏に隠れ、見つかりを繰り返し。ヴァネッサの息は上がる寸前に達している。
「どうして追いかけてくるのですか!」
「君が泣いていたからだ」
「意味がわかりません!」
「説明させてくれ」
背後から聞こえてきた真剣な彼の声に、グッと言葉に詰まるヴァネッサ。しかし、足を止めることはなかった。
坂を転がり落ち始めた円筒が速度を増していくように、大きな障害物にぶつかるか、道を阻まれない限り止まらないように。足を止めるタイミングがわからなくなってしまったからだ。
また、止まったとして何を言えばいいのか、どのような顔をすればいいのかもわからないのである。涙を見られたこともたいへん恥ずかしい。
放っておいてくれとヴァネッサはダリウスへと振り向いた……が、目が合いドキリとして前を向き直す。
「せ、説明するもなにも殿下はシェール様のことがす」
一つ大きな足音がしたかと思うと、次の瞬間にはダリウスがヴァネッサの手を取っていた。
ふわりと彼の香りに包まれる。肩に触れた手が熱い。
「君は恐らく勘違いをしている。だから、説明させてほしい」
乱れた呼吸をしながら彼は言葉を紡いだ。
自身より低い体温の奥で、自身よりも大きく速い鼓動が聞こえてくる。
「離してくださいませ!」
「――離さない」
自身を抱く彼の腕に、グッと力が込められた。
「いくら君の願いでも、今は逃したくない」
耳元から全身へと熱が駆け巡る。ビリビリと痺れたように動けない。
ふと、自身の首筋を彼の柔らかい髪がくすぐった。
「聞いてくれるか?」
「は、はい……話を聞くのでその、離してください」
「駄目だ」
恥ずかしくて仕方がないのだが、彼の腕からはまったくもって離す気がないことが感じられる。先ほどからちらほら使用人と目が合っては微笑ましい目を向けられ、逃げられているにも関わらず。
観念して何も話さず大人しくしていると、ダリウスの厚い胸板が小さく上下した。
「先に言わせてもらうが、俺が好きなのはシェールではない」
「初日にシェールさんの頬に触れていたのは」
「頬?……ああ、変装マスクを着用していないか確認した時のことだな。見ていたのか」
「へ、変装マスク」
予想できなかった聞き慣れない単語で、思わず復唱してしまう。
「どうしてそのようなものを着けているとお思いになったのですか?」
「実は、」
少し身を固まらせたダリウスは、力を抜いてから口を開いた。
「舞踏会の夜、部屋に帰ってくると寒気に襲われたんだ。それからの記憶が少し飛んで、気がつけば朝だった。そして……」
「そして?」
不穏な予感しかしない彼の発言に突っ込みたくなるも、なんとか抑える。
「シェールを見るたびに不正脈を起こすようになった。今まで浮かんだこともないはずなのに、顔が浮かぶようにもなった」
「そ、それは……」
固唾を飲み込むヴァネッサ。その横でダリウスが小さく頭を上下した。
「ああ、俺はこれを、なんらかの呪いか薬のせいだと予想している」
何故そうなる。その突っ込みはため息に代えて誤魔化した。
「あ、あのダリウス殿下? それは恐らく恋かとおも――」
「それは承知の上だ」
「えっ?」
思わず顔を上げようとするも、ガッチリとホールドされてしまっているため叶わない。
「君への想いは覚えているし、君を見るたびに愛おしくも思う。だからこそ、この新たに芽生えた感情が不可解で、理由を探るために彼女と関わっていた」
相変わらずストレートなことで、ヴァネッサは何も言えずに羞恥に耐えていた。気付いていないのか、わざとなのか、ダリウスは話を続けていく。
「この感覚に時折り飲み込まれそうになるんだ。これはおかしいだろう。だから、君に万が一危害を加えないように距離をとっていた。でも、」
ダリウスの腕にまた力が込められた。首に頭を埋められる。
「君が涙を流す姿を見て我慢ができなかった。それで確信した」
「な、何をです?」
「やはり、自身のシェールに対する感情はおかしい。これは偽物だ」
ダリウスはそうハッキリと言い切った。
熱が上った頭の中で必死に整理すると、つまり、ダリウスは舞踏会の夜に急激な寒気に襲われた。気がつけば朝で、寒気が治った代わりにシェールに対する恋心が芽生えていたと。そして、いきなり恋心が現れた理由を探すことにした。
ヴァネッサを避けていたのは、おかしくなったダリウスがヴァネッサを傷つけないため。
そして、今はシェールに対する想いが偽物であると悟った……と。
仮にダリウスの確信が合っていたとしよう。
では、シェールに偽の恋心を抱いた原因は何か。
「ヴァネッサ」
思案しようとしたその時、ダリウスがヴァネッサの頬を掬い上げた。愛おしそうな熱い氷の瞳が自身を見つめている。
「言っただろう、俺は君のことをす……言っていないな」
「で、殿下?」
突然ダリウスは弾かれたように口元を手で覆った。今度は彼が思案するような表情を浮かべている。眉根に皺が寄っている姿は久しぶりに見た。
心配で、離れた体を再び近づけてダリウスの顔を覗き込む。すると、彼ははっと小さく笑った。初めて見る、無邪気な子供のような笑顔だ。
「そうか、俺は君に伝えていなかったんだな」
「何をで――」
くっくっと笑った後、ダリウスは楽しげに息をついた。
傾げた首にかかる長い髪。その隙間を優しく縫って、彼の手が頬に触れた。
戸惑い、真っ赤になった自身を映す彼の瞳はかつてないほど温かで。これほどまでに慈悲に満ちて、愛おしそうで、温かな眼差しを向けられたことがあっただろうか。
胸の鼓動は速くて、高揚感にも似たものが湧き出ているのに、また目頭が熱くなっていた。
「ヴァネッサ」
一音一音に想いを込めるように、彼が優しく名前を呼ぶ。
自分も名前を呼び返そう。
――そう思った矢先、突風が辺りに吹き荒れた。




