19話 役立たずキューピッドになりそうです
「ねぇ、もうやめない?」
「まだ! まだですわ!」
ライルの呆れ果てたような声色を背に、ヴァネッサは片手で大きく振りかぶった。太陽が少し傾いた色鮮やかな青空を、灰色の物体がシュッと空気を圧縮する音と共に横切っていく。そして、遠くでコツンと跳ねた。
「また外したわ!」
眉間に悔し気な皺を寄せ、ヴァネッサは小石を摘んだ。手袋を外した爪先には土が入り込んでいる。
再び腕を上げるとジメッとしたにおいが鼻を掠めた。それでも気にせず手に力を込め、また投げる。結果は先ほどと同じ。これが円盤投げの舞台だったならスタンディングオベーションが起こっていたことだろう。
(どうにかして、どうにかしてラブハプニングを起こすのよ……!)
シェールは教会ルートを辿っているのだ。強制的に擬似イベントを引き起こさなければならない。そして、咄嗟に思いついたのがこの石を使ったハプニングである。
まず、船が安全な範囲で大きく揺れるくらいの波を石で起こす。
『きゃっ!』
『っと』
よろけたシェールを支えるダリウス。
ぐっと近づいた彼との距離、ふわりと包み込む深緑のような落ち着いた香り、しなやかでいてがっしりとした腕に抱き留められ、シェールの鼓動が高鳴り出す。
『ご、ごめんなさい! 私ったら殿下になんて失礼を!』
恥ずかしさのあまり突き放してしまうシェールにダリウスは微笑み、こう言うのだ。
「ラッキーと思ったのは俺だけか?」
――と。
(甘い! とっても甘……くはないわね、キザっぽいというかチャラいわね)
乙女ゲームの知識があるにしては練度が微妙な自身の想像に「あれ?」と頭を抱えるヴァネッサ。
(いいえ、きっと現実では攻略対象らしい胸キュンセリフを言ってくれるはずよ)
そう自分に言い聞かせて、もう一度石を投げるためにしゃがみ込む。すると、小石へと伸ばした手の先、視界の先に、ライルの足先が映り込んだ。
顔を上げてみると、同じようにしゃがみ込み、どこか不機嫌そうに膝へ頬杖をつくライルの姿があった。
「もうやめなよ。作戦に無理があると思うんだけど」
「あともう少しで届くと思うのです!」
「向こう岸に着地してばかりで、湖にすら落ちていないでしょ」
「うっ」
もう少しで届く、と言ったものの、そのもう少しが少しでないことはヴァネッサもわかっていた。遠くに投げることはできても、狙った近くに落ちるようコントロールする技量がなかったのだ。
「あと普通に危険だし」
「それは……そうですけれど」
確かに、船に乗り湖を観ている者はダリウスとシェールの二人だけではない。うっかりコントロールをミスしてしまい、誰かの顔に傷をつけたり、目に入ったり、それこそ本当にうっかり口の中に入っては大変なことになってしまうだろう。
ヴァネッサはあくまでもラブハプニングを起こしたいのであって、傷害事件を起こしたいわけではない。悪役時代に傷害事件を起こしかけていたが、それとこれとは別である。
(うっかりで他人を傷つけることなく、程よく二人をドキドキさせられるようなこと……悪役にしかできないようなこと……)
頭を捻り、顔を上げてみる。ふと、先ほどいた町の影から看板が見えた。特別有名なブティックでも、仕立て屋でもない、一般的な服屋のものである。
近くには武器商が営む店もあったか。赤茶色の壁に朽ちかけた看板がいい味を出していたので、外観はよく覚えている。
「そうだわ!」
ヴァネッサは湖に手を突っ込み、こべりついた土や泥を落とした。ハンカチで手を拭きながら立ち上がる。
次いでスカートを翻すと、嫌そうにこちらを見上げてくるライルと目があった。
「悪い予感がするんだけど、何をするつもりなわけ?」
ライルの問いかけにヴァネッサは満面の笑みで応えた。
「賊に扮して、船から降りてきた二人を襲うのです!」
「ストップ」
ヴァネッサの前にライルの細くて長い手がかざされた。反射的に体を固めてしまう。
「賊に襲われるのがラブハプニングって、なに?」
「守られたらキュンとくるんでしょう?」
前作では殺されることも多かったが、守られることも多かったと記憶している。その度にヒロインであるカレンはときめいたり、キュンとしたり、「怖い人のはずなのに……」と心を乱されていたものだ。
故に、自身の問いかけは合っているはずである。しかし、ライルの表情は呆れたような、憐んでいるような、形容し難いネガティブなものだ。
「殿下に返り討ちにされるかもよ」
「討たれる覚悟はできていますわ」
「却下。危険すぎる」
「な、なら落とし穴に二人をはめて夜通し語り合ってもらうのはどうでしょう?」
「却下。警察沙汰になる」
「みっ水を被せて濡れスケイベントを!」
「却下。なにそれ」
あれやこれやとラブハプニングの王道を提案するも、すべて却下。数少ないゲームと小説の知識を総動員させたのに、だ。
「あ! 二人を崖から突き落として吊橋効果を狙うのはどうですか!?」
「却下。二人を殺すつもり?」
「じゃあ無一文にして町に放り出しましょう!」
「それだとただ二人をいじめているだけでしょ!」
「いじめる存在なくして恋愛が成り立つと!?」
「成り立つから! っていうか、ぜんぶ犯罪だから!」
「ウゥッ! ラブハプニングむずかしい!」
ヴァネッサはついに頭を抱えてしまった。
(みんなはどうやって恋に落ちているの? どうやったら人を好きになるの? どうしたら好きになってくれるの? わからない……わからないわ……!)
思考が迷宮入りしそうだ。
明らかな情報不足、知識不足、経験不足である。思いの外キューピッドの仕事は難しいようだ。
「はぁ」
そう口から出たため息は、かつてないほど弱々しくて。
ヴァネッサには恋バナをする友達なんてものはいなかった。サロンで聞くのは純粋でキラキラした甘酸っぱい青春のような恋愛話ではなく、ドロドロとして肉欲の蠱毒と比喩できそうなほど醜いスキャンダルの話ばかりだった。もちろん、話題を出す彼女たちは愉しげだったが、自分には合わなかったようで。退屈で、不快で、仕方がなかった。剣を磨いていた方が心が安らいだものである。
頼りになるのはゲームの記憶のみ。しかしどれも断片的で、必死に寄せ集めても見本としての体を成さなかった。
気と共に上がった息を整えていると、ふと、ライルが短く息を吐いた。
「あんた、今まで恋したことないんでしょ?」
そんなこと――と、口に出かけた声をぐっと飲み込む。
図星のような気がしたからだ。
心のどこかで自分の結婚相手は国王が決めるのだと悟っていた。それが定めであり絶対的なものだとも。また、恋愛をする、いや、恋愛を楽しむ余裕などかつてのヴァネッサにはなかったのだ。余裕のなさから恋をすることもあるのかもしれないが、その余裕とは違い、これ以上心を掻き乱されることはできなかったのである。なにせ、ずっと心が乱れていたから。
ハリーと婚約した時だって、形だけでも共に過ごしていた時だって、彼の美しい顔面に悶えることは多々あったが、それは彼自身に対してではなかった。前述した通り、彼(主に顔)が持つ「美」に見惚れていたのだ。故に、他の「美」に対しても似たような感じで悶えていた。人によっては恋と言うのかもしれないが、自身にとっては恋とは違った感覚であるように思う。
では、愛はさておき、恋とはなんなのか。相手を見ると胸がドキドキする、相手のことが頭から離れない、相手のことが気になって仕方がない、相手に触れたい……。これも、絶対的な意味がないものなのだろうか。
――なら、相手から逃げ出したくなるのは?
恐怖からではなく、恥ずかしくて、落ち着かなくて。それが理由で逃げ出したいと感じたなら。かつて、ダリウスが――
「ねぇ」
ライルの声にヴァネッサは我に帰った。はっとしたように顔を上げる。すると、目の前に彼の美しい翡翠に似た瞳があった。
「本当に気付いてないの?」
「ちょっ……と、ちかっ近いですわ!」
ヴァネッサは慌ててライルと距離をとった。ボンッと熱が込み上げるような心地を放つように。
しかしライルは距離を詰めてくる。
「あと気づいてないって、なんのことですか!」
「……ふぅん」
そう挑発的に呟いたかと思うと、ライルはどこか怪し気に一つ瞬きをして湖へと目を向けてしまった。
「ふぅん、って他人事な……って、それより! ライル様からは何かないんですか? さっきから却下してばかりではありませんか」
「あまりにも危険だから却下せざるを得なかったんだけど……」
そう言いつつもライルは立ち止まり、思案するような素振りを見せた。物憂気な表情も美しい。
「要するに、二人を恋仲にさせられればいいんでしょ? そのためなら手段は選ばない」
「まぁ、そうですわね」
手段は選ばないと言うと物騒な感じが出てしまうが、あながち間違いではないだろう。
一応頷いて答えると、ライルの長い睫毛が上げられた。そして、なんでもないような顔で彼の口元から手が離される。
「一番手っ取り早いのは媚薬じゃない? それか惚れ薬」
「びゃっ、ほれ……!?」
予想だにしなかった答えにヴァネッサは口をパクパクとさせることしかできなかった。
「そんなのありですか!?」
「心より先に身体が動くだけでしょ。手段は選ばないって言ったじゃん」
「それは、そうですけど」
戸惑っているこちらがおかしいのかと錯覚してしまうほどに、ライルは飄々としている。
その態度に、じわじわと二人が心を通わせるように仕向けるよりも、ガツンと強制的に恋愛感情を植え付ける方がいいのではないかと本気で思いそうになってしまう。
「これは予想だけど、急いでくっつけたい理由があるんでしょ?」
「また顔に出ていましたか?」
「うん、焦ってた。あと、やり方があまりにも横暴だしね」
「……そうですか」
ライルに指摘されて再認したが、二人がなかなかくっつかないことにヴァネッサは焦りを感じていた。ルートの強制的な修正と、ダリウスの短命の原因追求・解決を目標としているのだから、時間的余裕があるようには思えない。
しかし、だ。
「……媚薬なんて、そんなもの盛れませんわ」
いくら恋仲にしたいとはいえ、薬頼りでは虚しいような気がする。やはり、使うとしても最終手段だろう。
また、相手は王子だ。それに、近くには毒物に詳しそうなミアやスチュワートがいる。盛る前にバレてしまいそうだ。
悩まし気な声を漏らすと、ライルが「なら」と付け足した。
「チョコレート、ハチミツ、ナッツにチーズ……似たようなものならそこかしこにあるでしょ。過剰摂取は逆効果だけど、適切な範囲で量を増やせば媚薬に近い効果が得られると思うよ」
「それなら薬や毒としてみなされない……ということですね?」
「そういうこと。まぁ、あんたには効きそうにないけど。食べ慣れている人には効かないみたいだから」
思い出されるのは、チョコレートもクリームもたっぷりのシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテを食べ切った記憶。否定ができないヴァネッサはただ無言で目を逸らす。
その時、背後でガサリと何かが木々を揺らす音が聞こえた。
「媚薬ならちょうど入荷していますよ」
「きゃあああ!?」
鬱蒼とした森の中に、ヴァネッサの叫び声がこだまする。
「あら?」
ライルの側へと駆け寄り、後ろを振り向いたヴァネッサ。その目が捉えたのは、ヴァネッサ御用達の「異国食品店」のオーナー――商人Aの姿だった。




