16話 聖域よりも温泉第一です
朝日が差し込む食堂に、パンの芳ばしい香りが漂う。
朝の準備を終えたヴァネッサはちぎったパンをひたすら咀嚼していた。いくらダリウスと距離を取りたいとはいえ、予定が控えている以上、食事の時間を遅らせることはできなかったのだ。目的はシェールとくっつけることなので過度に距離を取る必要はないのだが、できることはしておくに越したことはないだろう。ライルに話したように(種類はともかく)自身へと好意を寄せている可能性があるのだから。
(いや……ヒロインが現れたんだから、そんなことあるはずないのだけれど……)
パンをちぎり終えた手をナプキンで拭き、次いでグラスへと手を伸ばす。実を言うとヴァネッサは、既にメインを食べ終えていた。来るかもしれない沈黙や談笑タイムを避けるべく、追加のパンをお願いしたのである。見た感じでは食事に夢中になっているヴァネッサを案じてか、ダリウスは今のところ何も話していない。時折視線を感じはするが。
引き続きグラスに注がれた水を飲むヴァネッサ。しかし、飲み物がたいした時間稼ぎになるはずはなく。よく磨き上げられたグラスの底にはもう水の線すら残されていない。
「デザートでございます」
渋々グラスを置いたヴァネッサの横から、給仕係の腕が伸びてきた。
「わっ……!」
金で縁取られたプレートに乗せられたケーキを見て、ヴァネッサは思わず声を漏らした。
ココアスポンジとクリームの断層による、茶色の白の見事なコントラスト。その一番下段に埋まっているのはサクランボのジャムだろうか。それとも、形がしっかりと残っているからシロップ漬けだろうか。どちらにしても甘くて美味しそうだ。ふわふわで甘そうなチョコレートコポーが雪のように降り積もり、その上に艶々と輝くサクランボが一つ、ちょこんと乗せられている。
「黒い森のサクランボケーキというらしい」
ふっと笑みをこぼしたダリウスが、この幻想的で美しいケーキの名前を口にした。
ヴァネッサは名前を繰り返したのち、そっとフォークでケーキを切り分ける。チョコレートを染み込ませたスポンジは柔らかく、口に含むとビターな甘さがじんわりと舌に溶けた。さっぱりめに泡立てられたクリームが柔らかく包み込む。噛み締めて溶け出たのはシロップだろうか。砂糖菓子のように甘いそれは、サクランボの香りを強く纏っている。……いや、それだけではない。どこか喉を刺激するような苦味もある。ということは、これはお酒なのだろうか。まさかのジャムとお酒の二刀流とは恐れ入った。
それにしても分量が絶妙である。甘さと、苦さと、ほのかな酸味と、まろやかさ。非常に味の調和が取れている。味わいは鮮明に感じられる一方で、くどさがない。
「ホールで食べたいぐらい美味しいです……!」
ヴァネッサのお皿はあっという間に空になってしまった。ダリウスが小さく笑みをこぼす。
「よかった。ここはサクランボの名産地でな、中でも美味しいと噂の店のものを用意させた。そう言うかと思ってもう一つ用意している」
ダリウスはスチュワートへとチラと目を向けた。スチュワートは礼をして給仕係へと目配せをする――その時、余裕のないノック音が響いた。
「し、失礼いたします」
入ってきたのはこの城の料理長で、顔を真っ青にさせている。
「どうした」
「実は……」
ダリウスへと耳打ちをする料理長。その傍らでミアの眉間がピクリと動いた。
★★★
「泥棒が入ってケーキを食い散らかされた……って、それだけでこんな落ち込む?」
「期待値が高かった分ショックだったんです……」
ガタガタと揺れる馬車の中にライルのため息が溶ける。
彼に説明した通り、昨夜辺りに泥棒が城へ盗みを働きに入ったらしい。とはいえ、骨董品や装飾品の類はすべて残されており、食料がポツポツと消えただけのようだった。警備が固いこの城へ入ることができたのだから、相当の手練れであることが予想できるのだが、不思議なものである。お腹が空いたからという理由で入るには、あの城は危険すぎる。
まぁ、こちらとしては盗まれたのが食料品だけでよかったのだが。
「そんなに食べたかったなら、湯脈の確認が終わったら俺と町に行かない?」
ライルの提案に顔を上げる。
「一緒に食べに行こうよ」
「いいですわね」
想像しただけで涎が垂れそうである。
「でしたら、ダリウス殿下やシェール様と一緒に行かれてはどうですか?」
すると、運転席の窓越しにミアが話しかけてきた。一緒に中へ乗ればいいとは言ったのだが、主従関係がある以上できないと断られてしまったのである。
ちなみに、ダリウスはスチュワートとシェールと共に、先を行く馬車に乗っている。教会までは同じ馬車だったのだが、どうにかシェールと乗るよう説得したのだ。「相談したいことがあるから」とライルが声をかけてくれたおかげである。
「殿下は忙しいでしょうから、二人で行きますわ」
「仕事は前倒しで終わらせていましたので、大丈夫かと」
「俺たち二人で町を見たい理由があるんだよね」
「お二人で、ですか……」
どこか訝しむような声色に苦笑いを浮かべるヴァネッサ。むしろ外にいてくれて助かったかもしれない。もし顔が見えていたら、気まずさから顔を逸らし、何らかのボロが出ていたかもしれない。
ミアがまた口を開く前に馬車が止まった。扉が開かれ先にライルが出て行く。次いで、ヴァネッサへと手を差し出した。
「ありがとうございます」
「ん」
そう短く言って、ライルがヴァネッサを地面へと降ろす。チラリとダリウスが乗っていた馬車を見てみると、ちょうどシェールも降りたところだった……スチュワートに手を取られて。
(そこはダリウス殿下が差し出すところでしょう!)
町へお忍びデートに来た時のスチルにあったはずなのに。その紳士的な振る舞いにシェールの胸はドキリと音を鳴らすはずなのに。
ぐぐぐと頭を押さえるヴァネッサ。地面に向けられた視線の先に、見覚えのあるつま先が入り込んできた。
「頭が痛いのか?」
「で、殿下……いえ、少し考え事をしていただけですわ」
心配そうにこちらを見てくるダリウスを見て、ヴァネッサは首を横に振った。
「それより、ここがフローズン山ですか」
「ああ」
「申し訳ございません。山があるとはいえ、まだ使えそうな所が一つしかないなんて」
ダリウスの後ろからやってきたシェールは頭を下げた。
「いいのよ、ここに連れてきてくれただけ十分だわ」
ヴァネッサはシェールの頭を上げさせ、微笑んだ。
具体的な計画を神父を交えて話したところ、どうやら、エアローボ山は聖域のため王族の方以外は立ち入り禁止らしい。これはダリウスもスチュワートも知らなかったことで、基本的にはこの地域の者しか知り得ない情報のようだった。そのため、エアローボ山は候補から外れたのである。
エアバトゥ山は規模が小さ過ぎた。そのため温泉施設を建てるには適切ではないと判断され、まずは書類で確認した限りでは問題のなさそうなフローズン山を探索してみることにしたのだ。
「で? まずはあんたが探してみるんだっけ?」
ライルがヴァネッサへと振り向いた。ヴァネッサは「ええ!」と言って大きく頷く。
温泉のでき方は三種類。火山性温泉、深層地下水型の非火山性温泉、化石海水型の非火山性温泉だ。
ヴァネッサは絶大的な炎の力を得たことで、なんとなく火山に流れるマグマの状態を察知することができる……ような気がしている。そのため、マグマ溜まりによって温められた地下水が温泉として使える形になっているか確認できると踏んだのだ。まぁ、火山性ではなく、後者二つの非火山性温泉だったならば不可能なのだが。
とはいえ、物は試しである。やってみる価値はあるだろう。
(シェールさん曰く、冬になると湯気らしきものが見える気がするらしいし……よし!)
ヴァネッサは手袋を取り、地面に手を置いた。目を閉じて、少し湿った感触がするその先へと意識を巡らせる。
次第に木々が風に揺れる音が遠ざかって行く。じわじわと温かみへと自分が近づくような心地がして――あった。
「本当か?」
ダリウスの声に小さく頷く。
温かい何かがマグマ溜まりの近くでじわじわと上昇していく感覚がしたのだ。
しかし、短くも長くも感じられる時間の中で辿っていた今、はたと気づいた。マグマ溜まりがやけに遠い気がするのである。
この山の中心部からずれているような気がする……と言えばいいだろうか。しかし、この山のところどころにその温かいものが出ているような気もする。
(その中でも、最も大きな流れが一つ……)
ヴァネッサは目を開き、立ち上がった。心配そうにこちらを見やるダリウスたちへと振り返る。
「西へ向かいましょう」
そこに、最適な湯脈を見つけるヒントがあるはずだ。




