39話 忘れていました
ドカドカと蹄が地面を蹴る音が辺りへ響く。
「流石は君の愛馬だ。主人の異変を察知し、縄を噛みちぎってくるなんてな」
「私も驚きましたわ。ありがとう」
ヴァネッサとダリウスを乗せている自身の愛馬、くろまめを撫でてやる。
火山から離れてすぐ、ヴァネッサたちは歩いて帰ろうとしていた。流石に三人が火竜の上に乗るのは不安だからである。なかなかに大きいので難しくはないだろうが、強風が吹いたら一番後ろにいた人が落ちかねないと踏んだのだ。一番疲れているであろうヴァネッサが乗るよう勧められたのだが、火竜のおかげですこぶる元気だった。そのため、ここは殿下が、と話し始め押し合っていたところ、くろまめが駆けてきたのであった。
結果、ヴァネッサが前に乗り、後ろからダリウスが手綱(噛みちぎられた縄)を握って、王城へと帰ることとなった。ミアは火竜に乗って先に帰っている。もうそろそろ着いた頃だろう。
「最初に馬車でこの道を来た時は雪が降り積もっていましたのに、もうすっかり地面が露わになっていますわね」
「アヴァランシェもずっと氷に閉ざされている訳ではないからな」
「でも、山の奥はまだ雪が積もっていますわね」
遠くの山へと目を向けると、てっぺんからグラデーションで白色に染まっていた。夏になると完全に溶けてしまうのだろうか。
「そうだな。溶けたら山登りでもするか?」
「いいですわね! どうせなら私、湯脈を探してみたいですわ」
ダリウスへと振り向き意気込むと、彼はフッと眉根を下げて笑った。
「君はすぐに温泉の話をするな」
「温泉はこの世の天国ですから! それに、ブレイズ王国ではゆっくりしたり、観光を楽しんだり、自然を愛でる暇も隙もありませんでしたか、あっ。申し訳ございませんわ。急に身の上話なんて」
それも、ただただネガティブな内容のものを。
(だめだめ。こんな弱い姿、私らしくな――)
ふと、ダリウスの手が自身の手に添えられた。ふわりと包み込むように優しく。
「なら、少しずつでもいい、君のペースで共にアヴァランシェを回ろう。きっと君を楽しませてみせる」
「……ありがとう、ございますわ」
穏やかで温かみを帯びた彼の言葉に、思わず目頭が熱くなった。喉が震えそうになりながらも、感謝の言葉を口にした。クスリと柔らかな笑みが溢れる音が聞こえてくる。
「話したいことや、やりたいことが沢山あるな。帰ってから忙しくなりそうだが、頼むから、無理せず休んでくれ。少しでも異変を感じたら相談するように」
「わ、わかりましたわ」
炎の力が減っていた上に、結局、突然倒れてしまった失態が思い起こされる。彼の頼み(もはや注意)が胸に痛いほど染みる。
(でも、誰かに体調のことを、というか、自分のことを相談するのって……あ)
ふと、元来た道を振り返る。
(そういえば、この道ももう、使うことはなくなるのかしら)
ブレイズ王国にはもう二度と戻らないつもりだ。背中を向けていたので感でしかないが、最後、ケネスの殺意は消えていた。これ以上、あの国に関係することで気にするべきものは何もない。彼の本心を聞いて同情しかけたが、殺されかけたことは事実。自ら関わり合いを持とうとは思えなかった。
だが、一方で、ほんの少し、ほんの少しだけ、後ろ髪を引かれる思いが残っている。彼に殺されかけたことも、顔面蒼白になって震えるほど彼を恐れたことも事実。だが、それでも、どこか彼を捨て切れていないでいるのは、きっと、幼少のヴァネッサにとってもまた、彼が大切な人物だったからだ。
「あら?」
「どうした」
前へと視線を戻したその時、何か小さな声が聞こえたような気がした。
「少し止めて頂けませんか。誰かが叫んでいた気がするのです」
「ああ、わかった」
くろまめから降りて、ヴァネッサは崖の近くへと歩いた。ふと、ダリウスが自身の前へと出た。剣に手を添えているということは、前を警戒しながら自身を気にかけてくれているということだろうか。
(炎の力は戻ったから、大丈夫なのだけれど……)
それでも、心がじんわりと温かくなってしまう。
「ヴァネッサ。ちょっと来てくれ」
「はい、殿下」
頬を綻ばせていたところ、気付けばダリウスが崖下へと手を伸ばしていた。慌てて駆け寄る。
「えっ」
引き上げられた人物が目に入り、体がピシリと固まる。ああ、自分でもわかる。恐らく、今のヴァネッサの眉間には深い深いシワが刻まれていることだろう。
枝と葉に塗れた一般的な茶色い短髪に、泥に汚れた日焼けした肌。ボロボロになったローブを身に纏っているのは――
「ハリー、様?」
「ヴァネッサ様……?」
ハリーのやや虚げな瞳が自身へと向けられる。なんとなく嫌な予感がし、ヴァネッサは後ろへ一歩下がった。
その時、ハリーが自身へと手を伸ばした。すかさずダリウスがその手を引き上げる。
「ぐあっ」
「彼女に何をするつもりだ」
「殿下こそ何をされるのですか。私は彼女の元婚約者ですよ」
「ええ。もうなんの未練も恩情も感じられないただの人間ですわ」
どうして落ちてしまったのかはわからないが、自身の誘拐に携わっていたのだろう。なら、むしろ敵対心を抱いてもいいような気がする。
ヴァネッサとダリウスに冷ややかな目を向けられても、ハリーは首を横に振った。
「でも、貴女は私のことがまだ好きでしょう?」
「まったく、ぜんぜん、むしろ嫌いですわ」
「だから、私とカレンが仲良くする姿を見たくなくて、ブレイズ王国から逃げたのでしょう?」
「貴方たちに命を狙われたから、ダリウス殿下へ助けを求めたのですわ」
「ダリウス殿下に?」
信じられないと言った目で、ハリーはヴァネッサとダリウスを交互に見た。そうして、何かわかったような顔をして笑った。
「そういうことですか。私にヤキモチをや」
ハリーの言葉は途切れた。
分厚い氷の壁に覆われてしまったからだ。慌ててダリウスを見てみると、不機嫌そうに眉根を寄せ、ハリーを睨んでいた。
「やり過ぎですわ」
「彼があまりにも君の話を聞かないものだから、つい、手が出てしまった。すまない。だが、これで少しは頭が冷えただろう」
「ここまで話が通じなかったのは初めてですわ。でも、このままだと死んでしまうので離してくださいませ」
「……君が言うなら」
むすりと唇を尖らせたあと、ダリウスはハリーの氷漬けにちょんと指で触れた。刹那、氷が砕け散り、破片がパラパラと崖下へ落ちていく。
気絶しているハリーを一瞥し、ヴァネッサはくろまめの元へと戻った。ダリウスに支えられながら跨る。
「念のために聞いておくが、本当に君は彼のことが好きではないんだな?」
「ええ。一度たりとも」
「そうか」
ダリウスはどこか安堵したような声で言った。くろまめが走り出す。
「あぁ、でも、顔は好みな方で――」
突然、後ろの方から「ぎゃっ」と短い叫び声が聞こえたような気がした。
そっと振り返ってみると、奥の方に雪だるまが立っている姿が見えた。
「殿下、あんなところに雪だるまなんてありましたか?」
「あった」
「いやでも」
「この地域の子どもたちが残った雪で作ったんだろう。ちなみに、マジパン細工が有名で、特にチョコレートとの組み合わせが人気だ」
「チョコレートですか!」
「ああ。よければ王城に幾つかあるから、湯浴みの後に食べないか?」
「ぜひ!」
ああ、王城に着くのが楽しみである。ヴァネッサは上機嫌で前へと顔を戻した。
「よかった。楽しみにしている」
背後から聞こえてきたダリウスの声は、どこか強張っているように思えた。
★★★
「おかえりなさいませダリウス殿下、ヴァネッサ様」
城へ着くとミアが火竜を抱えて出迎えてくれた。ダリウスは馬から降り、自身へと手を差し出す。
「ありがとうございますわ」
ヴァネッサは手を取り、くろまめから降りた。しかし、どういうわけかダリウスはその手を離さない。むしろじっと見つめてくる。
「いかがされましたか、殿下?」
「実は、君に伝えたいことがある」
「伝えたいこと、ですか」
ドクリと心臓がいっそう強く鳴った。彼が言おうとしていることが何なのか、なんとなく、わかる気がする。
ダリウスは真剣な表情で自身を見つめ、今度はギュッと両手を握った。その手は冷たいはずなのに、自分よりも熱く感じられた。
スゥと、息を吸い、彼が口を――
「えっ?」
刹那、ヴァネッサの胸元で冷たい何かが爆ぜた。
あまりの衝撃に胸がギュウと締まる心地がする。グラグラと視界が揺れ、ほんの瞬きをした間に、地面へと体が打ち付けられる。
何が起こったのかわからないまま、視界が黒く染まっていく。悲痛そうに目を見開いたダリウスに、手を伸ばしたいのに感覚が消えていく。
そしてついに、五感すべてが遮断されてしまった。
しかし、意識がなくなる寸前、聴覚が聞き覚えのある声を拾い上げた。
「――暴走するのが、ヴァネッサだけだと思った?」
その声は、鳥のさえずりのように小さくて、鈴が鳴るようにようにかわいらしくて、小さな子供のようにイタズラで。それでいて、悪魔の囁きのように強く、恐ろしかった。




