35話 この世界にGPSはないはずです
「まだ寒いか?」
ダリウスの言葉に小さく頷く。すると、新たに毛布が自身の上へと重ねられた。
体の内部が寒いことに変わりはないが、湯たんぽやストーブを用意してくれているのか、表面に温かさを感じる。
(風邪なんて引いたことなかったのに……あったとしても、記憶がないほど幼い頃ね)
体の震えを感じながらもぼぅっと壁を見つめる。
ふと、ダリウスがベッドの前に置かれている椅子へと腰掛けた。心配そうな目でこちらを見下ろしてくる。キュッと締められた唇がかわいらしい。
ふと、唇が緩められた。
「君はライルの家で倒れた。医者に診せたが、原因も病名もわからないらしい」
「そう、でしたのね」
どうにか声が出せるようになってきた。ヴァネッサの言葉にダリウスが頷く。
「平温より少し低くなっていたが、火竜が温めてくれたこともあってか、今は普通に戻っている。低体温症でもないようだが……症状に覚えはあるか?」
ヴァネッサは小さく首を振った。
「そうか」
「ですが、少し楽になった気がします」
「やはり今は温めるしかないか。火竜、また頼めるか」
彼の言葉に火竜は小さく唸った。不機嫌なのかと思ったが、少し違うような気がする。
のそりと火竜がベッドへと上がってきたその時、微かにノック音が聞こえてきた。
「どうした」
「失礼いたします」
声をかけられ、入ってきたのはスチュワートだった。ダリウスへと耳打ちをする。
彼の眉間がピクリと動いた。
「……そうか」
ため息混じりにそう言って、ダリウスは側に置いてあった上着を手に取り、立ち上がった。
「すまない。急な来客に対応しなければならなくなった」
「いえ、私のことは気にせず、お仕事をしてくださいな」
「ありがとう」
寂しげに眉根を寄せたあと、ダリウスはベッドから離れた。
「よく休んでくれ。あとで蜂蜜入りのジンジャーティーを運ばせよう」
大丈夫。そう気遣う余裕はなかった。ヴァネッサは感謝の意だけでも伝えようと、ニコリと微笑んで見送った。扉が閉まるほんの一瞬、彼も目元を細めてくれたような気がする。
「湯たんぽの加減はいかがですか?」
「ちょうどいいわ。ありがとう」
「いえ、何かありましたらお呼びください。側に控えていますので。昼食にオートミールを用意しましたが、食欲はありますか?」
「ありがとう。念のため持ってきてくれるかしら?」
「わかりました」
ミアはお手本のようなお辞儀をして、部屋から出て行った。もう昼だったのかと、睡眠時間の長さに内心驚く。
彼女が用意してくれた湯たんぽは温かかった。それでも寒気が止むことはなく、感じる熱に意識を集中させ、ヴァネッサはまた目を閉じた。
★★★
苦しい体は辛い記憶を思い出させるようで。冷めた体とは反対に、全身が焼け爛れるような感覚を夢でまた味わっていた。おまけに、過去何度も感じてきた刺すような視線、舐め上げるような視線、軽視するような視線まで襲ってきた。
過去の記憶になんて遡ってほしくないのに、夢は言うことを聞いてくれない。
思い出される自身の姿は欲にまみれ、空いた心を偽りで満たし、虚像の関係をただ広げていた。つまらなかった。苦しかった。今はもう違うのだから、こんな感情、いまさら思い出させないでほしい。
どうしてこんな人間に育ってしまったのだろう。
悪役だから。そう言って終えば済むことかもしれないが……。
(そういえば、私――)
「ハッ!」
誰かに背中をドカリと蹴られたような心地がして、ヴァネッサは目を覚ました。
胸はドクドクと激しく音を立て、冷や汗が全身の毛穴から吹き出る。かっ開いた目をゆっくりと閉じ、無理矢理にでも深呼吸を。
「……はぁ」
何度か繰り返すうちに落ち着いてきたようだ。先程より緩やかになった鼓動を微かに聞き流す。
すると、ピチャンと雫が落ちる音がした。
「大丈夫ですか、ヴァネッサ様。ひどくうなされていましたが」
顔を横へ向けると、ミアが桶に手をつけながらこちらを見ていた。
気づけばもう日が落ちており、空いたカーテンからは三日月が星と共に夜空を照らしていた。
「悪い夢を見ていたみたい」
そのせいだろうか、濡れた髪が首に纏わりついている。
上体を起こし、髪を退けようかと首元へ手を伸ばすと、もう一度水音がたった。ミアの手が伸びてくる。
「失礼いたします」
首に生ぬるいものがピトリと当てられた。濡らしたタオルケットのようで、優しく汗を拭ってくれる。
「冷たくはありませんか?」
「えぇ……大丈夫よ」
むしろ気持ちがいい。わざわざ温めてくれたのか。目を再び閉じ、ゆらゆらと手の動きに合わせて頭を動かしながら大人しく拭われる。
「着替えをご用意しておりますので、終わったら着替えられますか?」
「うーん。熱があるわけではないのよね」
「はい」
「なら、湯浴みをしたいわ。体も幾分かましになったし、二日もお風呂に入らないのはその、レディとしてちょっと、恥ずかしいというか……」
自身の腕を顔へ持っていき、クンと匂いを嗅いでみる。顔を顰めるほどではないが、汗の匂いが微かにした。
「では、湯浴みの準備はできていますので、今から向かわれますか?」
「そうするわ」
「かしこまりました」
ミアはタオルを桶の端へかけ、外に控えていたメイドへと指示を出し始めた。ヴァネッサも浴場へ向かうべく起き上がってみる。
温泉に入ることで、より体を温めることができるかもしれない。疲労回復にもなりそうだ。
「わっ」
思っていた以上に疲れているらしく、地についた足がぐらりと揺れた。なんとかタンスに手をつく。
「無理はなさらないでくださいね」
「は、はい」
扉の隙間からこちらを見やるミアへと目をやり、頷いた。
★★★
「ふぅ。やっぱり入って正解だったわ」
湯浴みを終え、部屋に戻ってきたヴァネッサは、ほくほくとした表情でベッドへと腰掛けた。本調子ではなくまだ悪寒がするが、入る前よりずっと温かい気がする。
「戻ったか」
「いい湯加減でしたわ。火竜様は入らなくてよろしかったのですか?」
「ああ」
先程までベッドの上で丸まっていた火竜が伸びをする。おもむろに立ち上がり、ベッドからぴょんっと飛び降りた。着地音はドスンとかわいくない。
「お散歩ですか?」
「まぁ、そんなところだ。遠くには行かん」
「お気をつけて」
小さく手を振って火竜を見送る。彼は窓からどこかへ行ってしまった。
お風呂に行く際にミアから聞いたのだが、自身が眠っている間に使用人たちへ火竜の話をしておいてくれたようだ。もちろん外に漏れては問題になるため、他言無用ということにしてある。
ちなみに、料理長はこれから慣れていくつもりらしい。人間、無理なものは無理ということもあるため、「無理してまで慣れなくてもいい」と体調が回復次第、伝えに行こう。直接会わずとも、ご飯を火竜へ与える方法は幾らでもある。
「あ、そうだわ。私、ホットミルクが飲みたいわ」
料理長で思い出した。やはり、温泉後には牛乳が飲みたくなる。身に染み付いてしまっているようだ。
とはいえ、これ以上寒くなりたくないため、ホットミルクで手を打つことにした。
「かしこまりました。料理長へ伝えてきます」
「ありがとう」
お辞儀をしてミアは部屋から出て行った。
「うふふ。楽しみだわ。……やっぱり寒いわね」
仕方がない。ベッドにくるまって待っていることにしよう。
幾重にも重なった毛布を捲り、新しく入れ直してくれた湯たんぽを抱えて頭ごとすっぽりと入っていく。
(ん?)
ふと、コツリと靴音が聞こえた気がした。
気のせいだろうか。
(いいえ、違うわ)
息を殺し、所作を最小限に留めた、存在感を消す者の音がする。どうしてだろう。逃げたいのに、悪寒がまた悪化して――
「!」
布団の間から誰かの腕が入り込み、ヴァネッサの口を塞いだ。
嗅ぎ覚えのある、自身によく似た匂いが馬鹿になった鼻に触れた。
ゆっくりと、物音を立てないように体を引っ張られる。そして、口を塞がれたまま侵入者の胸へと力なく寄りかかった。夜闇を吸い込んだような色のロングコートの裾が、視界の端で揺れている。体が震えるのは寒いからなのか、恐怖を感じているからなのか。そんなことはわかなかった。
引き剥がそうとも、もう一人いたらしく、腕を掴まれ硬く紐で結ばれてしまった。手に炎の力を込めようとするも、まったく力が入らない。
(これを燃やす炎すら出せないなんて)
それほど自身は弱っているらしい。
抵抗することもできず、布を噛まされた。
彼らにとってようやく安全になったヴァネッサの体を、侵入者が抱き上げる。そのままバルコニーの柵へと音もなく足をかけた。
(えっ、ここから飛び降りるつもり?)
冷えた夜風がフードを捲った。砂金のような髪がサラリと揺れる。
ヴァネッサを見下ろす血のように紅い瞳は、かつて見た時よりも鮮やかに自身を映し出していた。




