23話 恋愛初心者の王子殿下
鳥のさえずりが窓の外から聞こえてくる寝室に、衣がこすれる音が混ざる。ダリウスはベッドから起き上がった。花瓶が飾られた棚の端に、書類を置く。
(結局、眠れなかったな)
ダリウスは目をつむり、頭をかいた。疲れが取れなかったせいだろうか。頭が朦朧として、体が重い。
(時間は……いつもより遅いな)
だが、今日はオープニングセレモニーが行われる日だ。二度寝している暇はない。
ダリウスはベッドから出て顔を洗うことにした。
(彼女はあの後、無事に眠れたのだろうか)
ふと、いや、いつものように彼女のことが思い起こされた。酔いがある程度さめていたとはいえ、山を駆け下り、遅くまで起き、剣舞を披露したのだ。そうとう疲れているはずである。となれば、よく眠れたのではないだろうか。
(少なくとも俺のように、昨夜のことが気になって眠れない、なんてことはないだろうな)
なにが「今のはすべて、君のことだ」だ。自分でも、自分の気持ちがわかっていないのに。だから彼女に「あら、そうでしたの」なんて言われるのだ。自分がどうかはさておき、彼女は自身のことを好きではないらしい。
彼女は恋だと言っていたが、果たしてどうだろうか。それが事実なら、自身は彼女を好きということになる。
(俺が誰かを好きになるなんて、考えたことすらなかった)
ダリウスの胸の奥が、後悔で締め付けられた。苦しく重いこの感覚は、昨夜にも感じていた。
誰かを好きになれない、愛せないことを、半ば自暴自棄になりながら告げた時だ。言ったそばから後悔するとは、なんと馬鹿げた話だろうか。
(この苦しみは、本当に恋心が生み出しているものなのだろうか)
だとしたら、自分が今まで興味すらなかった恋とかいうものは、なかなか厄介なものなのかもしれない。
ダリウスは水の入った桶から顔を上げた。鏡に映る自身の顔は疲れている。というより、落ち込んでいる。
(初めて恋愛をしてもいいと思えたのに、感情を芽生えさせてくれた、新たな考えを教えてくれた本人は、俺に見向きもしていないとは)
小さく息をついたダリウスの唇を、冷たい水滴が伝っていく。
「失礼いたします」
側に置いてあった清潔なタオルを手に取ると、ノックをしたのちスチュワートが部屋へと入って来た。
「おはようございます殿下。昨夜は――お眠りにならなかったようですね」
「思いのほか書類確認がはかどってな」
「またそのようなことを仰って。昨夜はニコニコでお帰りになられていたではありませんか」
ダリウスは顔を拭く手を止めた。
「『俺にも恋ができるだろうか』と何度も呟いていたではありませんか」
「そ、それは」
確かに、ダリウスは機嫌よく帰って来た。いわゆる深夜テンションであった。自身の発言に気落ちしたのもつかの間、自分にも恋愛ができるのではないかと思ったからだ。
しかし、やることを済ませて寝室へと着くころには、自身の言動やヴァネッサの発言や態度を振り返り、再び気落ちしてしまったのだ。
「冷静になって考え直したんだ。彼女は俺のことを好いていないし、仮に俺も彼女もお互いを想いあっていたとして、俺が今後冷たい人間に変わらない保証はない」
そう。ダリウスが父親のようになる可能性は消えない。ならない可能性もあるが、あくまで可能性でしかない。突然、あるいは段階的に氷の力に心を蝕まれれば、きっと彼女を傷つけてしまう。
(だから、恋などできないと、するべきでないと決めたんだったな)
そのことを改めて感じさせられる。ダリウスは再びため息をついた。すると、刺さるような視線が向けられていることに気付いた。その送り手は勿論スチュワートだ。
「また、変な顔をしているぞ」
「殿下こそ、辛そうな顔をされていますよ」
スチュワートの言葉に、ダリウスの胸が痛んだ。
「俺は、できない約束は極力結びたくないと、そう思っている。だから、この気持ちはやはり――」
誰かが扉をノックした。寝室を訪れる者は基本的にスチュワートのみだ。誰が、なんの用で来たのだろうか。
「ダリウス殿下、おはようございます」
声の主は、ミアのサポートメイドだった。ヴァネッサにまた何かあったのではないかと、心配で胸がドキリと跳ねた。
「何があった?」
「ヴァネッサ様が、浴槽内の湯をすべて蒸発させてしまったようです」
「まさか暴走を!?」
ダリウスは慌てて扉を開いた。メイドは目をつむり、手を横に振った。
「いえ! 違います」
「そ、そうか」
安堵のため息を零すと、後ろからスチュワートが上着をかけた。
「なぜ、そのようなことが起こったのですか?」
「それが、教えていただけませんでした。ですが『お風呂って良くも悪くも脳が働くわよね』と呟かれていた気がします」
メイドの言葉にダリウスは内心、小首を傾げた。
脳が働くとは、どういう意味だろうか。
(はっ。まさか、ブレイズ王国で経験した辛いことを思い出したのか?)
婚約者に裏切られたのだ。怒りを感じて当然だ。悲しみに呑まれて力の制御が難しくなった可能性もある。
「殿下。今、ご自分がどのような顔をされているか、おわかりですか?」
「?」
ダリウスは顔を上げた。目の前にはスチュワートが取り出した手鏡と、眉間に深いしわを刻んだ自身の姿があった。
スチュワートはメイドに持ち場に戻るよう告げ、鏡を懐へとしまった。
「ヴァネッサ様がこの国に来て以来、殿下が表情・感情共に豊かになっていっていると、私は感じております。それは、殿下も同じではないですか?」
言われずともダリウスはわかっていた。良くも悪くも、ヴァネッサはダリウスに新しい感情を芽生えさせてくれる。諦めていた恋心(予想)までも。
「想像してみてください。このままヴァネッサ様が王城を出ていく姿を」
「それは、心配で落ち着かない」
ダリウスの言葉に、スチュワートは微笑んだ。
「婚約のことや」
「こっ、婚約だと!? まだ早くないか。まずは交換日記からだと『サルでもわかる恋愛指南書』に書いて――」
「殿下。その本の内容が気になりますが、まずは私の話を聞いてくださいませんか」
「わかった」
またもや憐れむような渋い顔をされ、ダリウスは頷き、口を閉じることにした。
「まずは、未来のことは気にせずに行動されてみてはいかがですか? ヴァネッサ様とただ、日常を楽しんでみるのです。そうしている内にご自身の心境が整理されたり、変化したりするかもしれませんよ。それに、殿下と結ばれるかをヴァネッサ様にゆだねる道もあるかと」
「なるほど」
ダリウスはふむ、と頷いた。
確かに、彼女が選んだ選択ならばどのようなものであれ納得できるかもしれない。
ダリウスが将来ヴァネッサを愛せなくなる可能性があることを考え、「それでもいい」と彼女が言った時は、全力で愛そう。そして、ダリウスに好意を持てなかったり、持てたとしても可能性に恐れたりして離れるならば、彼女の決定に従うまでだ。落ち込みはするだろうが、彼女を苦しめるようなことはしたくない。
「やってみよう」
「では、お二人でどこかお出かけになられてはいかがですか?」
「いい案だな」
(彼女はどこへ行きたいだろうか。朝食の時に聞いてみよう。いやしかし、彼女は城下町辺にしか行ったことがない。いきなり場所を聞いて困らせないだろうか)
となれば、例を出しながら、どこか行きたい場所はないか聞くのがいいかもしれない。
「(例か……)女性を、いや、ヴァネッサを連れて行くのはどこがいいだろうか」
「ダリウス様はどこへ連れて行きたいのですか?」
「彼女の笑顔が見られる場所だな。となれば……山か。彼女は温泉が好きそうだからな。湯脈を掘り当てられたら、喜んでくれるかもしれない」
「殿下」
先ほどから部屋中を歩き回っていたダリウスの肩を、スチュワートが掴んだ。
「まずは近場がよろしいかと」
「なるほど」
近場から始まり、少しずつ遠くへ足を伸ばした方が、位置関係を把握しやすいだろう。
我が家の執事長はやはり優秀である。




