20話 優しい人はそのようなことで悩みません
(アップルパイのオバケとワイン怪人ハリーが襲ってくる……ああ! 巨大アヒル人形にケネスが乗っているわ! 槍なんて持って、何をしているの!? 貴方、普段は剣を使っているじゃないの! スチルでもそうだったじゃない! まさか私を、あら? 誰かが私の腕を――)
程よい揺れを感じ、ヴァネッサは目を覚ました。何か夢を見ていたような気がするが、まったく内容を思い出せない。
(それにしても、ふわふわして、温かくて、ひんやりともしていて、なんだか落ち着く香りがするわ……)
眠い目を擦りながら、ヴァネッサはあくびをした。再び目を閉じて、腕を回す。
(ん? 腕を回す?)
自身の行動に違和感を覚え、ヴァネッサは目を開けた。解像度が幼児の描いた絵とほぼ変わらない。もやがかかったような視界に誰かの顔がぼんやりと映っている。
(んんー?)
よく目を凝らしてみると、体の揺れに合わせて、深い青色の何かが揺れている気がする。肌色の円の中に薄い水色の何かが動いて――
「起こしてしまったか?」
「でっ、殿下!?」
ダリウスの聞き心地の良い声が降ってきた。腕を離したヴァネッサの体を、ダリウスが咄嗟に引き寄せた。
「こら、急に動くと危ないぞ」
「あっ、す、すみません!」
(私、殿下にお姫様抱っこをされているの!?)
ぐるぐると回る頭で、何が起こったのかをヴァネッサは思いだそうとした。
(ええと、確か炎の剣舞をして、ほめてもらえて、嬉しくてワインを……だめだわ。そこからの記憶がない。と、いうことは……)
ふと、自身の体に上着がかけられていることに気付いた。森林のような澄んだ落ち着きがあり、それでいてほんのりと甘い香りがヴァネッサを包んでいる。
「これは殿下の上着ですよね」
「ああ。風邪をひくといけないからな。もしかして寒いのか?」
「いえ! 殿下のおかげで温かいですわ」
「よかった」
暗がりでよく見えないが、ダリウスは優しい笑顔を浮かべていると、ヴァネッサは直感で理解した。安堵したような柔らかい声のはずなのに、心が不思議と落ち着かない。
「その、私もう歩けますわ」
「先ほどまで柱に抱き着いていたのに?」
「えっ。私、そのような奇行を?」
「奇行かどうかはさておき、夢と現実が混ざっているような印象は受けたな」
「そ、そんな!」
(お酒で失敗したことは一度たりともなかったのに!)
読みが甘かったようだ。ダリウスが言っていた通りの結果になってしまった。一気飲みは今回が最初で最後にしようと、ヴァネッサは心に決めた。
「……これからは自重しますわ」
「それがいいだろうな。酒場にいる者がいい奴ばかりだとは、限らないからな」
確かに、酒場でスリに会ったという話を貴族の誰かかが話していた気がする。今回はメイやライル、ミアなどの知人が多くいたからよかったものの、一人では行かない方がよさそうだ。
そういえば、剣舞を始めた時間から予想するに、門限にはまだ達していなかったような気がする。ならば、なぜダリウスが自身を抱えているのだろう。
「殿下はどうして、酒場へと来てくださったのですか?」
しばしの沈黙。まさか、柱に抱き着いている間に門限を過ぎてしまっていたのだろうか。
「仕事が手につかなかったから」
「それが私とどう関係しているのか、失礼ながら理解ができないのですが」
「君が心配だった」
「それは」
――自身を国へと招いた、王子としての責任感からですか。
言葉の先を、ヴァネッサは喉元にとどめた。窓からさす月光に、正確には、月光に照らされた一枚の壁画に目を奪われたからだ。
清潔感と貫禄のあるグレーのヘアーを持つ、整えられたひげが特徴的な男性と、穏やかで聖母のような微笑みを携え、胸元に氷の結晶型ネックレスを下げた女性の絵。この国の国王陛下と王妃殿下だということ、ダリウスの両親だということは、すぐにわかった。
(殿下の圧倒的美貌はお二人から引き継いだのね。年を重ねているはずなのに、両陛下ともお美しいわ)
ヴァネッサが言葉を止めたからか、ダリウスは足を止めた。ふと彼へと視線を向けると、彼もまた絵画を見つめていた。ただまっすぐと見やる瞳には、この絵はどのように映っているのだろう。懐かしさを感じさせる絵、寂しさを感じさせる絵、はたまた鼓舞してくれる絵だろうか。
「もっと近くで見てもよろしいでしょうか?」
そう尋ねると、ダリウスははっとしたあと、ヴァネッサへと視線を戻した。
「あ、ああ。好きにするといい」
「ありがとうございますわ」
床に足を降ろし、ヴァネッサは絵に近付いた。
手を取り合い、一点を見つめる二人の姿は、理想通りのパートナーにも、仲睦まじい夫婦にも見えた。
ふと、町で見かけた幻覚が思い起こされた。気まずさに似たモヤつくものを感じ、ヴァネッサはその思いを乗せるように言葉を紡いだ。
「お二人とも、とってもお似合いですわ。殿下もいつか素敵な女性と手を取り合い、このようにして、絵画にその姿を収めるのでしょうね」
「そんなことはない。所詮は仮面夫婦だ」
「え?」
ダリウスの声がひどく冷たく寂しげで、ヴァネッサは絵画から目を離した。
「この人も俺も、誰かを愛することができないから」
そう下を向いて告げるダリウスは、やはり寂しげで。愛を必要としない人物には思えなかった。むしろ、親に叱られ、嫌われてしまったのではないかと不安に駆られる子供のようだ。
「殿下は優しい方ではありませんか。なぜそのようなことを仰るのですか?」
ダリウスは唇をかすかに噛んだのち、口を開いた。
「陛下は、俺と母上を遠ざけた。執務室にこもり、俺達には目もくれなかった。病で伏しても、最後まで変わらなかった。……陛下は、氷の力の影響か、心まで氷のように冷たい人物だったんだ。スチュワートは二人が愛し合っていたと言うが、俺にとっては、目に見た現実のみが、確かな事実だ。
だから俺は、自分を好きになるような、愛を求めるような人とは結婚しないと決めている。問題が起こるのは歴然だし、そのような無責任なこと、俺はしたくない」
「でん――」
「だから氷の力を持つ俺は誰も愛せないし、君が言うように優しくもない、っ」
嫌な記憶ごと吐き出すかのように、ダリウスは言い捨てた。そしてすぐに、息をのんだ。見開かれた目には焦りの色が見える。
「ダリウス殿下」
ヴァネッサは精一杯、優しい声でダリウスへと歩み寄った。「言ってしまった」とでもいいたげな、強がっているけれど、どこか怯える子犬のような目がヴァネッサを瞳に映した。
「誰も愛せない人や優しくない人は、そのような顔をしませんわ」
ダリウスの瞳が揺れた。しかし、逸らされる。
「君にはそう見えても、俺は――」
「それに、殿下はすでに愛しているではありませんか」




