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19話 君は温かいけれど

 執務室にぱらぱらと紙をめくる音だけが流れる。窓の外には黒い夜の幕が下りており、月明かりがランプと共にダリウスの手元を照らしている。


「殿下」

「なんだ」

「先ほどから同じページを行き来していらっしゃる気がするのですが、やはりヴァネッサ様が心配で?」


 ダリウスのページをめくる手が止まった。顔を上げ、スチュワートへと呆れの目線を向ける。


「そんなことは断じてない」

「ではなぜ、門限などお決めになったのです? 客人なのですから、ご自由にさせればよいでしょうに」

「それは……」


 彼女が心配だったから。などとは言うまい。つい先ほど否定したばかりなのだから。プライドに似た何かが、邪魔をする。


「彼女がまた問題を起こさないかと危惧してのことだ。彼女は世間知らず過ぎる。周りの雰囲気に流され、理性が飛ぶほど酒を飲んだらどうする。酒癖は様々だ。炎の力が暴走するかもしれない。帰りに暴漢に襲われるかもしれない。ミアはああ見えて強いが、泥酔した彼女を抱えて戦えるとは思えない」

「長いです殿下」


 ぴしゃりと突っ込まれ、ダリウスはうっと言葉に詰まった。

 ダリウスはヴァネッサが来て以来、いや、正確には出会った時から、彼女が気になって仕方がなかった。弟を恐れること、国を忌避すること、なんでもないことに目を輝かせること、楽し気に職人たちと仕事の話をすること、最近アップルパイを作らないこと、気づいたら森や町へと出ていること。熱湯から助けた際に、かすかに耳が赤かったこと。

 ヴァネッサの行動や言動すべてが、気になって仕方がなかった。

 彼女の姿が見えなくなるたび、何をしているのか心配になる。


(それはきっと、彼女が自由奔放なトラブルメーカーだからだ)


 事実、久しぶりにアップルパイを作ったと思ったら、執務室ではなく町へ行き、職人街で人さらいに絡まれていた。その際に、なにやら仲がいいように思えるライルとかいう男に助けられていたが。

 あの時は助けようと思ったが叶わなかったことが、一国の王子として悔しかったのか、ほんの少し心に靄のようなものがかかった。しかし、結果、人さらいを捕まえることが出来たためよしとした。また、共に町へ出たミアがあの後、彼女を連れ戻してくれたようだから。ハリーとかいう、幼稚で生意気な元婚約者のように、彼女が傷つくことになるのではないかという心配がなかったわけではないが。

 計画も、ダリウスは最初から反対していた。運動する習慣のない元王女が、力を使いながら山を駆け下りるなど、どう考えても無謀だからだ。しかし、ヴァネッサのキラキラとした強い意志の宿る瞳に見つめられ、折れたのだ。


(このなにかと落ち着かない感情は、きっと、子供を心配する親心のようなものだ。ああ、そうであるに違いない)


「そこまでお気になさるのでしたら、殿下も参加されますか? 門限まであと三十分ほどですが」


 一人で納得をしていると、スチュワートが壁時計へと目をやった。彼の提案を聞き、ダリウスは椅子へと背中を預けた。


「まさか。俺は一国の王子だ。それに、もし俺が参加すれば、職人たちが気を遣うだろう」

「お優しいですね」

「当たり前のことを言っただけだ」

「そん――」

「だがまぁ、外から見るくらいなら問題はないだろう。彼女をこの国に招いた者として、問題が起こらないよう気を配るのも大切な仕事だからな」


 ダリウスは立ち上がり、上着へと袖を通した。その時、上着を持つスチュワートの表情に違和感があり、上着のすそを整えた後、彼の顔を見てみる。

 スチュワートは眉を下げ、キュッと口を噛んでいた。その口の形は微笑んでいるようにも、怒っているようにも見える。どこか憐れむような、引いているような、悲しんでいるような顔だ。


「なんだその顔は」

「いえ、その……問題が山積みかもしれないなと、思いまして」


 スチュワートの当たり前のことのように感じる発言に、ダリウスは首を傾げた。


「それはそうに決まっているだろう。国が続く限り、政務に終わりはないのだから」


 そう言うと、スチュワートはまた、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべたのだった。

 いったい何が言いたいのか、どのような感情なのか。気になりはしたが、聞いてもいつぞやの生ぬるい微笑みを向けられるような気がし、ダリウスは無言で執務室を去ったのだった。



★★★



 酒場の前に来てそうそう、ダリウスは固まっていた。予想通りとも、読みが外れたとも言える光景に、仕方がないなとため息をつく。


「すぅー」


 なんと、ヴァネッサがワインボトルを腕に抱えたまま、酒場の柱に抱き着いているのだ。

 酔いが回っているのか、眠いのか、はたまたその両方か。目をつむって、規則正しく肩を上下させている。このような寒空の下にいては体を冷やすだろうに、ヴァネッサの表情は穏やかで、幸せそうだった。頬がじわりと色づいている。


(最初は大丈夫かと焦るような心地がしたが、彼女の寝顔を見てすっかり毒気を抜かれてしまったみたいだな)


 このようなことになるのなら、あらかじめブランケットを用意しておけばよかった。これ以上冷えてはいけないからと、ダリウスは自身の上着を脱いだ。その時、彼女を介抱していたミアが立ち上がった。恭しく礼をする。


「私がついていながらこのようなことになってしまい、申し訳ございません」

「実は最初の音頭の時に、ワインを一気飲みしていたみたいでして」

「(王女がワインを一気飲み)ふっ」


 ミアもメイも申し訳なさそうにしているのに対し、嬉々とした表情でジョッキを掲げるヴァネッサの姿が浮かび、ダリウスは思わず笑みをこぼした。我に返り、すぐさま表情を整える。


「それで、いきなり酔いがきたということか」

「まだあるんです」

「何があった?」

「さらにその後、炎を使った剣舞を披露してくださり……」


 メイは気まずそうに顔を逸らした。炎の力を酔った状態(推定)で使ったこと、剣を手に取ったことを知り、ダリウスは一瞬、心臓がヒヤリと止まるような心地がした。泥酔していること以外は何もないのだから大丈夫だと、気持ちを落ち着かせる。


「披露した後、どうなったんだ?」

「あまりの美しさに我々のテンションが上がり、ヴァネッサ様もお喜びになり、また一気飲みを。そしていきなり眠るように倒れました」

「どうしてそう無茶をする?」


 ダリウスは耐えきれず、頭を抱えて突っ込んだ。


「怒らないでやってください! ヴァネッサ様、お酒の席で楽しかった記憶が一度もなかったみたいで、こうして気兼ねなく飲めて、話せて、嬉しかったそうなんです」

「だからこそ止めにくいんだ」

「あぁ、殿下もすでにお知りでしたか」


 メイのどこか察したような言葉に、ダリウスは頷いた。


(彼女の行動には焦ったが、まぁ、彼女が楽しめたのならよしとしよう。ただ、今後このようなことがないよう、気を付けてもらわねばな)


 今回はある程度信用のおける人々しかいなかったが、いつもそうとは限らない。酒場に人さらいや荒くれ者がいたり、喧嘩騒ぎが起こったり、危ない取引が行われたりすることは日常茶飯事なのだから。


「彼女が世話になったな」

「いえ、こちらこそ」


 メイと微笑みを交わし、ダリウスはヴァネッサの元へとしゃがみ込んだ。


「スチュワート、ミア。俺が上着をかけたら、彼女へ肩を――!」


 突然、ヴァネッサの手がダリウスへと伸びた。警戒を忘れていたため、あっけなく彼女の腕の中へと納まってしまう。


(これはまさか……抱きしめられている、のか?)


 華やかでどこか甘い香りが、鼻先からふわりと香った。ヴァネッサの髪が頬を撫でる。


「うぅ~ん……冷たくて……気持ちいいですわ」

「!」


 ふわふわとした口調で、彼女が耳元で呟く。慌てて駆け寄るスチュワートたちを、ダリウスは片手で静止した。


「いい。起こしては可哀そうだからな」


 ダリウスはヴァネッサの腰と足に手を回し、彼女の体をそっと持ち上げた。気付いていないのか、ヴァネッサは変わらずに赤子のような顔をしている。

 王城までは徒歩で十分ともかからない。真夜中の散歩には、ちょうどいいだろう。


(これはなかなか、落ち着かないな)


 ヴァネッサの寝顔を眺めると、ダリウスの胸の奥に温かいものが滲んできた。


(君は不思議だな。俺が諦めていた感情を、いともたやすく引き起こしてしまうのだから)



 ダリウスの吐く息は白く染まらない。彼女のおかげで少しは温まったと思ったのに、とダリウスは苦笑した。もし彼女が自身の元から離れたなら、二度とこの形のない温かみは戻ってこないのだろうか。だとしたら、近いうちに来るであろうその日が、できるだけ遠くへと離れてほしいと願ってしまう。

 月光に照らされたダリウスの表情は幸せそうで、それでいてどこか悲しげだった。愛おしさと苦しみが混ざったような、甘くて苦い感情。それも、彼が初めて感じたものだった。

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