17話 大仕事の後はお腹が空きます
ヴァネッサが山を駆け下りると、温泉施設の前で職人たちが待っていた。中でも数人待機している。減速し、施設の壁に手をついた。職人たちは温度や放出量など、細かい調整を行うために各自仕事場へと走っていく。
職人たちの様子を確認し、ヴァネッサはその場でしゃがみ込んだ。
「お疲れ様でございます」
「あら、ありがとうミア」
肩で息をしていると、ミアがタオルと紅茶を持ってきた。飲み干しても熱くないよう、ほどよい温度に冷ましてくれたようだ。空になったカップを渡し、タオルで汗を拭う。
「ご無事の用で何よりでございます」
「そうね。でも、正直に言って危なかったわ。地響きが原因で、お湯が軌道を反れたのよ。殿下が凍らせてくださらなかったら、今ごろ全身大やけどを負っていたわ」
熱湯によって皮膚が焼けただれる痛みを想像し、ヴァネッサは身震いをした。
「間に合ったようでなによりです」
「そういえば、どうして殿下はいらっしゃったのかしら。ミアはなにか知っているの?」
「大変危険な作業であるため、様子を見届けるつもりだと聞きました。ただ、急な政務が入る可能性があるため、職人の方々にはお知らせしていなかったようです」
「そうだったのね。知らずに準備ができてそうそうに始めてしまったから、殿下は焦っていらっしゃったのね」
報告・連絡・相談。仕事のホウレンソウの大切さがよくわかる。
「(ホウレンソウ……)あっ」
ヴァネッサのお腹が鳴った。力を使いながら走ったのだから、当然である。恥ずかしさにお腹を押さえ、うずくまっていると、目の前にカゴが置かれた。中から何かいいにおいがする。
顔を上げると、ライルが立っていた。
「アップルパイのお礼。お腹が空いているなら食べれば?」
カゴを手に取り中を開けてみると、粉砂糖とシナモンをまぶした、丸いドーナツのようなものが入っていた。
「ありがとうございますわ!」
「なんのためらいもなくかぶりつくじゃん」
「だって、毒なんて入っていないでしょう?」
ドーナツを飲み込んでから言うと、ライルは「そうじゃない」とため息をついた。
「ふつう、紙ナプキンに包んで食べるんじゃないの?」
「ある時はそうしますけれど、空腹の今はお行儀が悪いとか、手が汚れるとか、そんなことは気にしていられませんわ」
そう言ってまたドーナツにかぶりつく。ちまちまとちぎって食べてもいいのだが、やはりここは大口でかぶりつきたい。
「あんたよく食べるね」
紅茶で口内に残った砂糖を流し込んでいると、ライルは呆れた表情でカゴの中を覗き込んだ。もちろん中身は空である。
「おいしかったですわ。ごちそうさまでした」
「ならよかったけどさ」
両手をパンと合わせ、小さくお辞儀をする。
「そういえば、冷えはもう大丈夫なんですか? メイから寒さに耐えきれなくて、お家に帰ったと聞いていましたが……大丈夫そうですわね」
目の前にいるライルは震えていない。顔色も血色があり、服も他のメンバーと変わらない。
「温かくして寝たらすぐに治ったよ。だからまた出てきた」
「あまり無理はなさらないで下さいね」
「それ、殿下も言ってた」
ライルはうんざりとした表情をしている。言われてみれば、殿下は少なくとも二日に一度は職人たちの健康状態を気にしていた。また、危険な作業をしていないか、無理をしていないかも尋ねていた。
「殿下は優しい方ですから」
国際問題になりかねないとわかっていながら、怯えるヴァネッサを助けてくれた。使用人としての能力が壊滅的でも、数々の破壊活動を行ってしまっても、追い出さずにいてくれた。先ほども、彼が駆けつけてくれなければ、大事になっていただろう。
(さっきの……)
助けるためとはいえ、ダリウスは真剣な表情でヴァネッサをーー
「ふぅん。何かあったみたいだね」
「へっ!?」
「見る見るうちに、口がにやけていっていたから」
「まさか! そ、そんなことあるはずがありませんわ!」
ヴァネッサは立ち上がった。気が動転したためか、手に持っているカゴが炎に包まれる。
「そんなことって?」
「それは、その……その?」
「どうしてそこで頭を傾げるんだよ」
「自分でも何を言おうとしたのか忘れてしまって」
ぶすぶすと音をたてて黒焦げになったカゴを見つめ、呟いた。どこか落ち着かない心地がする。
「まぁどうでもいいけど。俺はメイさんの手伝いをしに戻るから」
「わ、わかったわ」
焦げたにおいに嗅覚を奪われながらも、こくこくと頷く。
「あっ、待ってちょうだい!」
「なに?」
「そ、そこまで睨まなくても……」
ライルはほんの少しだけ顔をヴァネッサへと向けた。眉間に皺が寄っている彼の表情は、無理やり撫でられたときの猫に似ている。「暇じゃないんだけど」と言いたいのだろう。
「温泉用の休憩所をつくろうと思っていて、そこで必要な家具や食器のデザインを一緒に考えて下さらない?」
「俺はこの国を出るって言ったでしょ」
「貴方の絵が素敵だったからデザインしてほしかったのだけれど……すぐに行ってしまうのなら仕方がないですわね。出立するときは教えてくださいな。お別れをしに行きますから!」
「あ、そう」
(うっ。距離が縮まったと思ったのに、違ったようね)
微妙に頭を下げて、カゴの始末を相談するためにミアへと向き合う。もともと目も合わせてもらえなかった状況だったのだから、進展はしているが、やはり傷つきはする。
ヴァネッサは肩を落とした。その時、じゃり、と砂を踏む音が遠くから聞こえてきた。
「気が向いたら、考えておくから」
言い捨てるようなライルの声に、ヴァネッサは振り返った。しかし、そこには彼の足跡だけが残されているだけだった。
「ふふ、よかった。少しは心を開いてくれたみたいね。アップルパイの力は絶大だわ。ところでこれ、王城まで持って帰られるかしら?」
「カゴはすべて自然素材でできていますから、森の近くにでも撒いてまいります」
「あら、そう? ありがとう」
ミアがカゴ(炭)をヴァネッサの手から受け取った。彼女の白い手袋が黒く染まる。ヴァネッサの手もまた、黒かった。
「どこかで手を洗ってくるわ」
「でしたら、浴場を使ってみてはどうですか? 水道も用意されていますから」
「そうするわ。中の様子も見――あら」
浴場施設へと目を向けたその時、建物の先、町の広場に見慣れた影が見えた。黒い髪に、涼し気な青い瞳。どれだけ離れていても目を引くであろう美貌の持ち主、ダリウスである。
そして、彼の隣には豪華なドレスに身を包んだ女性がいた。ダリウスはすぐに背を向けてしまったためわからないが、女性は顔を赤く染めていた。そして、ダリウスの頬へと手をーー
(こ、これって見ていいものじゃないわよね!?)
ヴァネッサは両手で顔を隠し、またミアへと体を戻した。その振り向き速度は史上最高かもしれない。
乙女ゲームのシーンは壁となり、床となり、空気となって見たい派だったが、知人の恋愛シーンは見るに堪えない。ヒロイン目線で観察するのもいいが、今のヴァネッサには、ヒロインはちょっとした地雷である。
「いかがされました?」
「そ、その……殿下が、あい、あい」
「あい?」
ヴァネッサは片手を離し、ダリウスたちがいるであろう方向へ手を伸ばした。
「殿下はいらっしゃいませんよ?」
「えっ!?」
またもや広場へと体を向ける。確かにダリウスはいなかった。
(なんだ。私の見間違えね)
美形を見間違えるとは、ヴァネッサの面食いレベルが下がってきたのかもしれない。ほっと胸を撫で下ろした。
(ん? 私、今、ほっとした?)
「いかがなさったのですか? 眉間に皺がよっていますよ」
「えっ!」
ヴァネッサは眉間を指で押さえた。その時、メイが駆けてきた。はちきれんばかりの笑顔を浮かべている。
「全部の作業が終わりましたよ! あっちの準備も万端です!」
「ついに完成したのですね! ところで、あっちとは何ですの?」
「決まっているじゃないですか!」
メイの後ろから、他の職人たちが数人、姿を現した。その手にはワイン瓶が握られている。
「宴ですよ、宴!」
「宴!?」




