17話 名前を呼ぶ時間すら
視点が変わります。
「……言ってしまった」
ヴァネッサが走り去った部屋の中、ダリウスの小さなため息が溶けていく。
彼女が行動派の人間で、何にでも足を突っ込みたがる質だということは理解していた。彼女には自由に動いていてほしいし、そんな姿を見ることがダリウスは好きだ。彼女を縛るような真似はしなくない。
だから、「一人の人間に構いすぎだ」などと言うつもりはなかったのに。言えば彼女を引き止めることになるとわかっていたのに。
ミアが連れ戻してくれるだろうが、合わせる顔がない。
(……本当に無事に帰ってくるだろうか)
彼女を縛りたくない一方で、心配で仕方がないのだ。動くということは、何かに巻き込まれる可能性があるということでもある。
自分の目に届かない所にいるだけで落ち着かない。本当は、ずっとそばにいて欲しい。でも、自由でいてほしい。軽やかに空を舞う蝶のような彼女がいい。
ライルの生死を気にかけるほど情に厚くて、殺そうとしてきたカレンを許すという変なところでお人好し。時折り見せる冷たさも、それでも他者を捨てきれない愚かなまでの優しさも、すべてが愛おしい。
美味しいものやもふもふとした生き物、かわいいものに美しいもの。それらに向ける彼女の感情は熱くて、眩しくて。触れてしまうと、火傷してしまいそうだった。それでも、彼女が溶かしたのは自分の凍りついた心で。
(彼女が狂おしいほどに愛しくて堪らない。だが……)
脳裏に浮かぶのは、ハッサンへとキラキラとした笑顔を向けるヴァネッサの姿。
(応援しているだけだとわかっているが――)
眉間に皺を寄せ、拳を握ったその時、誰かが扉をノックした。スチュワートが確認している様を視界の端で眺める。
「ダリウス殿下、スレイカ王女らしき女性がいらっしゃったようです」
ある意味聞きたくない名前にピクリと指が動く。それを誤魔化すように口元へと持っていったその時、ある考えが浮かんだ。
「入ってくれ」
彼女に話を聞くことで、少しは不安が紛れるかもしれない。何があったのかヴァネッサは知りたいようだったことも気になる。
もちろん、二人の恋路になんて微塵も興味ないが。応援する気もさらさらない。
「し、失礼いたします」
扉の隙間から恐る恐るといった様子で現れたのは、シャハリヤール同様に薄緑色の瞳をした女性だった。薄茶色のフード下からも同じ色の髪が覗いている。
「君がハッサンの想い人か」
男の名を出した途端、スレイカははっと顔を上げて駆け寄ってきた。
「やっぱり彼を知っていらっしゃるのね、お願いです、彼がどこにいるのか教えて下さい!」
「少し前に宿の下から奥へと走っていった。駆け落ちすると聞いていたが、何があった。どうしてここを知っている」
「あっ……」
来訪理由も告げず質問を投げかけた無礼に気付いたのか、スレイカは小さく声を漏らした。少し冷静になったのか、ダリウスから離れる。
「私はスレイカと申します。……昨夜、彼は私の部屋を訪ねてきたんです。そうしたら、お兄様、シャハリヤールお兄様の暗殺に加担したと聞かされて……」
「誰に」
「右大臣です。しかも、禁じられた邪悪な妖精から加護を受けたことも知って、私、思わず声をあげて驚いてしまったんです。そのことを謝ろうと思っていたのに、待ち合わせに行ったらいなくて。必死に彼を見かけたか聞いて回って、そうしたらここに」
要するに、ハッサンの行動に驚いた結果、彼は目的地に来ず、彼の目撃情報を集めているうちにここへ辿り着いたと。
「私、彼を傷付けてしまって……!」
ダリウスは、ボロボロと涙をこぼし始めたスレイカの横を通り過ぎ、スチュワートから手袋を受け取った。
手袋をはめ終えた手でドアノブに手をかける。
「ど、どうしましたか?」
「知りたいことは知れた。もう用はない」
どうもヴァネッサの帰りが遅いのだ。彼女が飛び出て二分は経っている。
ダリウスはほんの少し目を閉じ、意識を集中させた。
彼女に渡した装飾品から感じられる氷の力は、ずっと同じ場所に留まっている。距離と方向的にハッサンが逃げていった所だろう。しかし、今は夜だ。これ以上は待てない。
また、先日到着したアヴァランシェの衛兵たちにも宝石を渡し、宿と外出先周辺で三メートルごとに配置していたのだが、ヴァネッサが消えた辺りの宝石が一点に集まっているのだ。
「どこに――」
「彼女を迎えにいく」
スチュワートへ目配せをすることなく、ダリウスは階段を駆け降りた。
宿の先に出た先で見えたのは、負傷した一人の衛兵が地に倒れている姿。周りを囲んでいる通行人をかき分け、近づく。
衛兵の顔は真っ青で、爪に土が入り込み、肩口から血を流す姿からは、彼がようやくこの場所へ這いずり着いたことが伝わってきた。
「何があった」
「黒い……人影に、襲われました。霧と、ムスクの香りで、ヴァネッサ様……は」
衛兵はガクリと頭を落とした。首筋に手を当て、脈を測る。
(気絶したか)
スチュワートと共に出てきた使用人に衛兵を任せ、ダリウスはヴァネッサが消えた先へと再び歩を進めた。そして、目を見開く。
月明かりだけが照らす、真っ暗な路地裏。そこに、衛兵が次々と倒れていた。砂と血の香りに混ざっているのは、神経毒となる薬草のにおい。
辺りに散乱した氷の力の中を必死に探せば、すぐ近くでひときわ大きな反射光が瞳に映った。
土まみれになって落ちていたのは、タンザナイトのイヤリングとネックレスが一式。汚れることなど厭わずにそれらを拾い上げ、ダリウスはキッと前を見据えた。
「スチュワートは念のためライルへ知らせを」
「終えています。怪我人の手配も既に」
二頭の黒馬を引き、ダリウスの背後に立ったスチュワートが長い燕尾服を脱ぎ捨てた。二人して馬に跨り、まだにおいの消えない闇の先を見据える。
同時に、眼前でパキパキと凍りだした赤い結晶を辿るように駆け出した。




