16話 もう遅くとも諦めません
「うぅ……気持ち悪い」
小さな水音が響く中、ヴァネッサはなんとか目を覚ました。
上体を起こそうにも全身が押さえつけられているかのように重く、吐き気が強くて出来そうにない。身体の中で何かが暴れ回っているようで、頭の中もグチャグチャで、痛くてたまらない。
微かに色を帯びた苦味のある香り……霧には何かの薬が混ぜられていた。恐らく神経系。だが、この体調不良はどうもそれだけが原因のようには思えない。
絶え間なく続く悪心を緩和するために、一定のリズムで垂れる水の音に意識を集中させる。――その時、鋭い爪で心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。握りしめた胸元の裾がピリリと小さな音を立てて破ける。
「苦しい……!」
「ボルボレッタさん!?」
突如聞こえてきたハッサンの声に、ヴァネッサは先ほどよりも意識を取り戻した。
顔を上げてみれば、鉄格子のようなものがぼんやりと見えているような。
それは次第に輪郭をはっきりとさせてゆき、声のした方へと顔を向ければ、じっとりと濡れた土壁が目に入った。
「貴方は、ハッサン?」
「そうです! ハッサンで、うぅっ」
「どうしたの!?」
慌てて壁に駆け寄り耳を寄せると、ハッサンの呻く声が聞こえてきた。
グッと息を呑んだ後、砂を握るような音が響く。
「あなたも加護持ちだったんですね。……すみません、ぜんぶ僕が悪いんです」
駆け寄ったことで体力を使い果たしてしまったからなのだが、無言を肯定と取ったのかハッサンは呻き声を時折りあげながら言葉を紡ぎ始めた。
予想通りというべきか、ハッサンはモヒンと交流があったらしい。よくお金を借りていたそうだ。借金もあったらしく、カジノで得たお金を返済に使ったという。得た金額は相当だったため、すべてを返済しても大量に残ったらしい。
「でも、ずっと思っていたんです。このお金は、あなたがチップを出してくれたからできたもので、自分の力で稼いだものじゃない……」
「私はきっかけを与えただけで、うっかりでTIEに賭けた運は貴方のものでしょう?」
「……確かに、なんの迷いもなく受け取れる人もいると思います。でも、僕はできなかった」
そういう人もいるのか。だとすれば、余計なことをしてしまったのかもしれない。
神のいたずらか逆行し、今度こそ幸せな未来を掴むためにとがむしゃらに行動して来たヴァネッサ。結果、ダリウスと結ばれ、アヴァランシェに住むこととなり、兄弟との軋轢も少しは解消された。そのせいか、勘違いしてしまっていたようだ。「他者のことも助けてみせる」と意気込み過ぎてしまった、とでも言おうか。
自分のことを幸せにするのも、何を幸せとするかも自分自身なのに。
(もしかしたら、殿下の言っていた通り、踏み込み過ぎたのかもしれないわね)
ヴァネッサは小さくため息をついた。このまま体内で渦巻く何かも出ていけばいいのに。
寂しげなダリウスを置いてまで追いかけてもよかったのだろうかと、今は少し後悔している。
今さらだが、無神経だったかもしれない。恋を応援することが目的とはいえ、若い男に頻繁に会っていては不安になって当然だ。王族や観光客である以前に、彼の婚約者だというのに。それも、政略結婚ではない方の。
今になってようやく冷静になってきた。
隣から壁に手をつく音が聞こえてくる。
「もちろん、感謝はしています。してもしきれないくらいに。……それで終わりにすればよかったんです」
「何をしたの?」
「カジノに行った翌日、モヒンが家を訪ねてきたんです。そして、仕事を頼んできた」
彼に紹介された仕事は、町から遠く離れた洞窟の中にいるという妖精を捕まえること。
多大な危険が伴う仕事に一度は首を横に振ったが、成功報酬の高さに目が眩んでしまったらしい。極め付けにこの国で商売を開く応援をするとも言われたようで、彼は頷いてしまった。ボルボレッタ、つまりヴァネッサをモヒンが指定した場所に連れてくると報酬は増えると言われたらしいが、断ったらしい。
そして、彼は昨日ヴァネッサと別れた後に洞窟へと向かい、様々な場所に張られた罠や妖精からの攻撃を避けてようやく捕まえたようだった。
これは自分が稼いだお金だ。そう胸を高鳴らせながらモヒンの用意した馬車へと乗ったハッサン。彼が着いたのはスレイカの部屋だった。
戸惑いながらも、「いい報告ができる」と喜んだ矢先にモヒンが現れ、シャハリヤール暗殺に手を貸していたとバラされてしまったらしい。
「彼女にあんな顔をさせてしまった僕に、彼女と一緒にいる権利なんてない」
「宿を見に来たのは?」
「来ると約束したからです。でも、怖くて……」
「そうしたら、ザラムの残党たちに尾けられていたのね」
「そうです。本当にすみません」
「事情はわかったわ」
それにしても、炎の力が出せないのはこの手枷のせいなのだろうか。使おうとした途端に身体の中で力がグルグルと回り、何かと混ざる心地がして吐き気が止まらなくなるのだ。
ハッサンは確か「あなたも加護持ちだったんですね」と言っていた。となれば、妖精に関係する何かがこの手枷に秘められているのかもしれない。
状況を確認するためにも、脱出方法を確認するためにも聞きたいことは山ほどあるのだが、いかんせん力が尽きてしまっている。
どうしようか、と床に横たえたその時、コツコツと誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。
「モヒン!」
隣の部屋から格子を揺らす音が響く。
けれども足音が止まることはなく、起き上がったヴァネッサにつま先が向けられた。
「お久しぶりです、ボルボレッタ様」
ヴァネッサを見下ろしながら、モヒンがどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「貴女ですよね? シャハリヤール殿下の暗殺を止めたのは。頭領の言っていた暗殺を阻止した人物の特徴とそっくりだったのですよ」
何も返事をせず睨み続ける。すると、彼の視線がヴァネッサの手元へ移動した。
彼の目が三日月のようにニッコリと細められる。
「ウォルフ様がタネを見破っていたことからももしや……と思っていましたが、体調が思わしくない様子を見るに、やはり加護持ちでしたか。見た目も悪くないですし、高値で売れそうですね」
「人身売買にも手を染めていたのね」
「それなりには」
彼の澱んだ笑みに寒気が走り出す。
手枷を見たということは、やはり手枷に何か仕込まれているのだろう。手枷に力を注ぎ込んでみたいところだが、モヒンの前でするわけにはいかない。
「しばらくはここにいてもらいますよ、では」
ただ無言で彼を見つめ続けていると、彼は笑みを残して去っていった。
今のうちにと枷に力を注ぐ。
「いたっ!」
バチリと大きな火花が散り、ヴァネッサは力を引っ込めた。
後で売るつもりなのだろう。力の宿ったブレスレットはもちろん、装飾品はすべて奪われ、鈍器になり得る靴もない。
どのようにして状況を打破するか。霧の効果が抜けてきた頭で考える。その時、暗殺者にしては粗暴な足音が聞こえてきた。




