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鹿

始まりは鹿とバニラアイスのハンカチと

※短編にある紀州の追跡者が序章となっております

手渡されたハンカチからは、ほのかにバニラアイスの香りがした。バニラアイスと言えば、昔祖母の家に遊びに行くと、彼女は俺のために必ず机の上に用意してくれていた。当時お小遣いが300円だった俺は、このバニラアイスを食べるのがとても楽しみだった。無論、こいつを食べるためだけに祖母の家にいっていたわけではない。あくまでメインは祖母と遊ぶことだった‥‥と思う。

そんな束の間の思い出も鈴鳴 小梅はたやすく吹き飛ばした。

思えばあれが一目惚れというやつだったのだろう。絶え間なく頭頂部から血液は溢れ出ているのに、痛みは全く感じず、戸惑った表情でハンカチを差し出す彼女を、ポカンと、瞬きもせず見つめることしかできなかった

「あっ‥‥あっ‥」

お礼を言おうとして差し出されたハンカチを握りしめた。

「あっ!」

彼女が小さな叫び声をあげた。そして俺の視界はブラックアウト

大学デビューの初陣をまさか鹿の一撃で挫くことなるとは夢にも思わなかった。

目が覚めると寮の自室だった。

壁に掛けてあったアナログ式の時計に目をやると針は2時丁度を射している。昼の14時だよな。そうであってほしい。いやそうであってくれと恐る恐るカーテンを開けると、そこは黒一色の闇が広がっていた。なんてことだ。大学初日、俺はほとんど気絶して過ごしていたのだ。

「キャアアァア」

夜の闇よりも黒々とした森の茂みの中から、憎き鹿の鳴き声が響き渡った。


げんなりしながら一階ロビーに向かうと、俺に気づいた寮の管理人のおばさんが、見ていた新聞紙と齧っていた煎餅を放り出して駆け寄ってきた。おばさんの話によると俺は気絶した後、大学の医務室に担ぎ込まれたが、応急処置だけされ、大した怪我ではなかったらしいので、そのまま寮の自室に放り込まれたということ。全くもってひどい対応である。

まだ頭の傷が疼く。帰っても眠れそうにないため、俺は誰もいないであろう夜のキャンパスに繰り出すことにした。あの鹿がいたら尻を蹴り飛ばすくらいでないと気が済まない。それにせっかくのキャンパスライフの初日なのだ(日付が変わってしまったが)歩くだけでも雰囲気とやらを味わいたかった。


外に出ると人の気配は全く無く、代わりに頭上には燦然と輝く星空が俺を見下ろしていた。俺がいた地元も、空気が綺麗でよく星空が見えたが、この大学も山奥にあるためか町の光が一切無く、星空がよく見える。前にも言ったがこのキャンパスは何もない。だから星空を引き立てるのにはうってつけなのだ。

こんな日には、夜桜もよく映える。今日は入学式なのに、誰か夜桜鑑賞くらいしててもよさそうだが。そう思いながらキャンパス中央にある巨大な噴水がある広場に向かっていった。


何とはなしにポケットに手を突っ込むと、絹の感触があり、取り出してみると血だらけのハンカチが現れた。この時点でホラーだが、自身の鉄臭い血の臭いに混じって、ほのかに薫るバニラアイスの香りが今日あったことを思い出させる


あの子にまた会えないだろうか


「キャアアァア」


瞬間、噴水広場からあの忌まわしき叫び声が聞こえた。

思わず身構える、尻でも蹴飛ばしてやろうかと思ったが、思い返すとあの鹿、何やら鬼気迫る表情をしていた。俺が住んでいた田舎でも、鹿はよく見る。だから彼らの鳴き声が女性の悲鳴に似ているのも知っていたし、山の中にいると、群れで自分のすぐ側を横切ったこともあったので恐れることもなかった。なら何故俺は身構えたのか。それはあの鹿が俺に向かって突っ込んできたのもあるが、それ以上に恐怖を抱かせる何かを奴は持っていた。その違和感が俺の足を止めたのだ。

踵を返し寮へと戻ろうとする


「キャアアァア」

「いやぁあ誰かーー」


!?

鹿のいななきに混じって女性の悲鳴が聞こえる。これは間違いなく人間の叫び声だ!


恐怖よりも先に自分の正義感が勝り、俺は噴水公園へと駆け出していた。

「誰か、誰か。」

「キャアアァア」

噴水広場は街灯が多く設置されているので比較的夜でも明るい。だからすぐに何が起こっているのか分かった。噴水のすぐ側で女性が腰を抜かして座り込んでいる。そして、まるで『かごめかごめ』をするように例の鹿が彼女の回りを狂ったようにぐるぐると走り回っていた。俺を襲った鹿と同個体であるのはすぐに分かった。それによく見れば他の鹿より一段と大きいような気がする。

勿論、鹿は彼女で『かごめかごめ』をしているわけではない。それは一瞬で分かった。彼女が羽織っている薄紅色のカーディガンがボロボロになっていたからだ。恐らく何回か攻撃されたのだろう。カーディガンの片方の袖口は無惨にも引き裂かれていた

薄紅色のカーディガン‥‥?

薄紅色のカーディガン!?

それが小梅との二度目の出会いだった


俺は噴水広場へと続く階段を三段飛ばしでかけ降りると、一目散に彼女の元へと駆け出した

「こんばんは!大丈夫ですか!!」

彼女と鹿がほぼ同時にこちらを見た。

「こっ‥こんばんは!!あれっ?君は‥‥あっ!!!」

鹿は俺を見据えると標的を替え、助走も無しにとんでもない勢いでこちらへ駆け出した。

獣の瞳は真っ赤な閃光を放ちながら俺へと追突する勢いで向かってくる

真っ赤な閃光。やはりこの鹿何か変だ。真っ赤な瞳の鹿なんて聞いたことがない。いやそれよりもヤバイ。

「ギャアアアァ」

鳴き声というよりも叫び声に近い。より一層おどろおどろしい雄叫びをあげながら鹿は突進してきた。このままでははね飛ばされる。

山育ちを舐めるなよ。

過去、親とタケノコ掘りに行って子連れの猪に遭遇し、激昂した猪の一撃を交わした俺の記憶が手伝って、タイミングを見計らい俺は隣に転んだ。すんでのところで鹿は隣を通過していった。その際俺の真後ろに停まってあった自転車に鹿は激突し、憐れ自転車は宙を舞い地面に叩きつけられて大破してしまった。なんて威力!この自転車が俺だったと思うと‥‥

嫌な汗が全身から吹き出す

「後ろ!」

彼女が叫ぶ。胸を撫で下ろす暇さえなく、俺は振り返った。そいつは階段をかけ登り、俺に第二波をしかけようと助走をつけていた。ピンピンしている。闇夜に爛々と二対の赤い光が浮かぶ。

勘弁してくれよ

「あなたは安全なところに!」

鹿を見据えながら俺は彼女に叫んだ。

「でも君が危ないよ!」

「俺は山育ちだから大丈夫!」

「いやなにいってんのさ!大丈夫じゃないでしょ!」

確かに山育ちでもあんな化け物は見たことは無い。明らかにあの鹿からは殺意が滲み出ている。

鹿からなるべく目を離さずに彼女を見るも、噴水の側から動いていないのは分かる。安全なところにと言ったが、彼女が動き出した瞬間、再度狙いを変更するかもしれない。それだけは避けたいし、俺が別方向に逃げたとして、逃げ切れる自信もない。間一髪避けれたが、運が良かっただけだ。二度は無い。

何故に大学デビュー初日に鹿と命のやり取りをせねばならないのか。俺は自身の不運を呪った

だが嘆く時間も無い。この瀬戸際の中、ふと彼女の隣の噴水に目をやる。噴水の側面に張られた電光盤の数字が10、9、8とカウントダウンし始めたことに気付く。

そう言えば噴水は稼働していない

この大学に来て驚いたのが門柱の豪華さと、もう1つ

ハッとして俺は咄嗟に彼女に叫ぶ

「噴水の中に入って!!!中央に!」

一瞬戸惑った彼女だが、俺の叫んだ言葉の意図にすぐ気づき、自身の背丈ほどある噴水の壁をよじ登り、中へと入った。

一か八かだ。

俺は噴水に向かって駆け出した。待ってましたと言わんばかりに鹿も階段を駆け降りる。これは賭けだ

あの体躯、勢い、俺が噴水の中へ入ったとして、奴は容易く噴水の壁を飛び越えてくるだろう。そうなれば最早俺と彼女は狂った鹿に蹂躙される運命となる

このままでは。

電光盤のカウントダウンは刻々と時を刻む

俺は後方の鹿には目もくれず噴水へと距離を詰める

3

噴水の壁に飛び乗るが、バランスを崩し仰け反ってしまった

2 

刹那、彼女に手を捕まれて、体勢を建て直し噴水の中央へと引き寄せられる

1

ほぼ同時に跳躍し、弾丸と化した鹿が俺と彼女に迫り来る。ただの草食動物とは思えない、悪鬼羅刹と化した鹿の表情が目の前にあった。だが俺はそんな鹿を見据えて言い放った

「森で草でも食ってろボケ」

カウントゼロと同時にとてつもない轟音とともに、水柱が噴水から沸き上がった。俺がこの大学に入学してから驚いたのが、門柱の豪勢さ、そして噴水の派手さである。水圧がものすごく、辺り一面水浸しになるため、噴水が稼働するのは2時間に1回となっている。俺が住んでいた4階のベランダからでもその水柱が見えるくらいなのでこんなところに金を使うなよといつも思っていた。だが今回はそれに救われた

「ギャアアアァ」

その水柱に鹿は直撃した。俺と彼女は水柱が上がらない中央にいるので無事だった。その凄まじい水圧にはさすがの鹿も叶わず、上空に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられてしまった。尚も上がり続ける水柱。さすがに死んだか、と俺は水柱に間から鹿を見やった。だが、なんと鹿は何事も無かったかのようにむくりと起き上がった。二人とも息を飲んだ。これまでか。

だが、鹿はこちらを恨めしそうに一瞥すると、足を引き釣りながら森に帰っていった。

水柱が徐々に弱まり、噴水は稼働を再び停止した。

辺りが静寂に包まれる。二人ともずぶ濡れである。

「あはは」

緊張がほどけたのか、彼女が笑みを漏らす。

「ずぶ濡れだ」

俺も釣られて笑った。

「お互いね。入学初日なのにサイアク」

「こんな日ってある?」

満天の星空の下、俺と彼女の笑い声だけが、この闇の中に響き渡っていた。



闇の鹿を撃退はしたはいいものの‥

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