まだ生きていた
(2)
「味はどうだ? 口に合うか?」
ソフィアが持って来てくれたのはお粥みたいな食べ物だった。
ミルク粥みたいな味――少なくとも米ではないのは確かだけど、甘味が適度で美味しい。
「甘くて美味しいです」
実亜の答えに、ソフィアが安心したように笑う。
「沢山食べれば良い。かなり身体が冷えていたし、養生しなくては」
ソフィアはベッドサイドに椅子を持って来て、カップで何か飲んでいる。
「ようじょう……?」
「失った体力の回復を――とでも言えば良いだろうか? 医者に診せたらかなり疲れているらしいから、しばらくは栄養を摂って休めとのことだ」
不意に言われた「休め」という言葉が、実亜の胸に深く柔らかく刺さった。
「……はい」
実亜はミルク粥を食べながら、知らないうちに泣いていた。
誰かからの「休め」という言葉が欲しかったのかもしれない。
「何処か痛むのか?」
ソフィアが椅子から立ち上がって、実亜の様子を心配そうに伺う。
「いえ、しばらく休んでなかったので」
「そうか。私にはわからないけれど、ユーキは此処に辿り着くまでに色々あったのだな」
良ければ話を聞かせてくれ――ソフィアはそう言って、実亜の涙を拭ってくれていた。
「成程、ユーキはニホンという国のカイシャという過酷な労働を強いる街からやって来た――」
温かいミルク粥を食べながら、実亜は自分の話をしていた。
説明が凄く難しかったのだが、概ね言いたいことはソフィアに伝わったようだ。
自分は日本という国に居て、会社――ブラック企業――で働いていた。
「そう、なると思います」
むしろ、そうとしか説明出来ない状況だろう。
どう考えても、この世界は自分が居た世界の何処かの国とは違う。
実亜の知識で判断出来ることは、此処は多分異世界というもの――
自分は元の世界で死んで、何かの拍子にこっちの世界に来てしまった。
その意味では、此処はあの世だとか死後の世界になるのかもしれない。
だけど、全ての感覚は生々しくて、今を生きている実感がある。
実亜は温かくて甘い粥を食べながら、それを確かめていた。
「ふむ、世界は広い――まだ聞いたことのない国が山のようにある」
ソフィアは静かに笑うと、話を聞きながらじっくりと見ていた地図を折りたたんでいた。
やはり、実亜の国は地図の何処にも載っていないらしい。
「身体が回復したら、ユーキの故郷に帰る術を考えよう。それまでゆっくり休むと良い」
「はい。ありがとうございます」
とはいえ、帰れるのだろうか。それに、帰っても自分の居場所は、多分もう――
「ルヴィック帝国の騎士たるものの務めだ。気にするな」
しばらく話していると、ソフィアは偉そうなのではなく、元々こういう話し方なのがわかる。ぶっきらぼうというか、端的というか。
それでもソフィアの優しさは実亜にしっかりと伝わってくる。
涙を拭われた時、あんなに温かい手をした人が居るんだと思うくらい、それは優しかった。
ミルク粥を食べ終えてしばらく、部屋の外から何かの動物の鳴き声のようなものが聞こえた。
「おっと、リューンに餌をやらないと。今日はご褒美の果物もだな」
ソフィアは立ち上がって、マントのようなものを羽織っている。
「リューン?」
「彼女もユーキを心配していた。動けるようなら顔を見せてやってくれないか」
もう一枚、柔らかい素材のストールみたいな布を実亜に渡して、ソフィアが手を差し伸べる。
「は、はい」
実亜がそっと出した手を、ソフィアが優しく掴んでベッドから実亜を起こす。
そして、一度実亜に持たせたストールを手にすると、それで身体を包んでくれていた。
全ての所作が洗練されていて、無駄がない。
騎士というものはこういう風に立ち居振る舞うのか――
ソフィアの言うように世界は広いと実亜は思った。
「わあ……綺麗な馬……」
ソフィアの家から出て、離れのような小屋に入ると、艶のある黒い毛並みの馬が居た。
馬はソフィアを見ると首を何度も上下させて、何かを要求しているように見える。
ソフィアは持って来た餌入りのバケツから、果物らしき赤い実を取り出して、馬に与えた。
「無事な姿を見て安心している。リューンが居なかったらユーキをすぐに温かい場所まで連れて来るのは大変だっただろう――褒めてやってくれるか?」
ゆらゆら揺れていたのは、馬――リューンに運ばれていたからみたいだ。
「褒める……?」
「馬を触るのは初めてか? 首の辺りをそっと撫でる――こう」
ソフィアがお手本でリューンの首を結構しっかりとした力で撫でている。
「はい――助けてくれてありがとう」
実亜も真似して、リューンの首に触る。思ったより硬くて、でも温度があった。
リューンは大きく鼻を鳴らして、後ろ脚で少し蹴るような仕草だ。
「喜んでいる。ユーキは優しいのだな」
「どうしてですか?」
「リューンは人を良く見ている。優しい人にはすぐに懐く子だ」
そういうソフィアの瞳も優しいけれど――実亜はなんとなく思った。
「――もう、夜はかなり冷えるな。家に戻ろう」
ソフィアはリューンの近くのバケツに水を汲むと、実亜をまたエスコートしていた。
「あの、ソフィアさんの寝る場所は?」
家に戻ったは良いけど、見る限りソフィアの家には眠れる場所は一部屋しかなさそうだ。
実亜はベッドまで案内されて、寝かされながらソフィアに訊いていた。
「ああ、今夜は隣の部屋の長椅子だ」
長椅子――ソファみたいだけど、硬そうだし、どう見ても眠れそうな感じではない。
「そんな……私がそっちに寝ます」
実亜は会社で何度か寝泊まりした時を思い出してしまう。
床で寝るのも大変なので、せめて椅子の上にと事務椅子を並べて寝たことを――
「ユーキは身体を休めないといけない。柔らかい寝床のほうが良いだろう?」
「でも、助けてもらってそれじゃあ、申し訳無いです」
実亜はベッドから起き上がって、ソフィアに訴える。
椅子は眠るものではない――と。
「遠慮することはない。私は慣れている」
椅子どころか野宿をしたこともある――ソフィアはそう言って譲らない。
「……でも、駄目です。駄目。身体を壊してしまいます」
自分のせいで誰かがそんなことになるなんて、駄目だ。実亜もどうしてかそこが譲れない。
「――同じ寝床で寄り添って眠るか?」
ソフィアはしばらく黙っていたかと思うと、そう言いながら腰に下げている剣を外している。
「え……」
「ふむ、二人とも身体を休めるにはそれしかないだろう。そうだな、そうしよう」
夜はもう冷える季節だ――ソフィアはそう言ってベッドに潜り込んで来た。
「え、ちょっと、ソフィアさん……」
近い――でも一番最初に助けてもらった時は多分ソフィアの腕に抱かれていたはず。
「よしよし、広い寝床にしていて良かった。二人で寝ても余裕がある」
ソフィアは満足そうに、実亜の隣で笑っているのだった。
「ユーキという名は珍しいが、ニホンという国では良くある名なのか?」
ソフィアはベッドの中で、実亜に興味深そうに訊く。
眠る前の軽い戯言に付き合ってくれと言いながら。
「日本でもそんなに居ないですけど、結城は家族の名前で、私個人の名前は実亜です」
「成程、ユーキの国では家族の名から名乗るのか。あなたはミア。ミア――柔らかい響きだ」
不思議な名だが、好きだな――ソフィアはそう言って笑う。
名前一つでもそんな風に肯定されたこと、今までにあっただろうか――
また、実亜の心に柔らかく刺さる。また泣きそうだ。
ソフィアは寝転んだまま実亜を見て、少しだけ溢れていた実亜の涙をそっと拭い去っていた。
「ミア、おやすみ――此処には労働を強いるものは居ない、安心すれば良い」
カイシャからは逃げられたのだろう? ソフィアはそう言って目を閉じていた。
「おやすみなさい」
実亜も答えて、目を閉じる。
ソフィアは温かくて良い匂いで――心が落ち着く。
この温もりを知った今、目が覚めて全部夢だったら――
きっと前より寂しくなると実亜は思っていた。