何者にもなれない私
前世の記憶なんて、なければ良かった。この世界が、乙女ゲームの世界なんて知りたくもなかった。
ヒロインにも、悪役令嬢にもなれない私は。何者なのかしらね。
私の名前はアンバー・ティペット。伯爵家の末っ子だ。あとを継ぐ長男も、格上の貴族に嫁いだ長女も、王家の騎士として勤める次男もいる。だからか、16歳を過ぎた今も婚約者はいないし、わりとのびのびとさせてもらっている。
教室の窓から中庭を見下ろすことができる。私はそこからアルセイフ様を眺めることが、最上の幸せだった。大柄で、短く整えられた爽やかな黒髪と、翡翠のような瞳。そして、太陽のような快活な性格。アルセイフ様も次男で、家格も同じ伯爵家。婚約者もまだ居らず、私はもしかしたら、どこかでお話しできたらと恋をしていた。
しかし。
季節外れに編入してきた彼女を見て、私はこの恋は始めることもできずに終わることを思い出してしまった。
ここは乙女ゲームの世界で、アルセイフ様は攻略対象者。ヒロインに選ばれなくても、アルセイフ様はルート毎にいる悪役令嬢と婚約することになる。
これから起こることも、ルートの分岐も、全て知っている。急に自分の世界が色褪せてきて、泣きたくなってしまった。
毎日、ヒロインと悪役令嬢の応酬を窓から見下ろす。きっと、ヒロインにも記憶があるのだろう。全ての攻略対象者の好感度は軒並み上昇していた。
憧れのアルセイフ様も脂下がる顔でヒロインを見下ろしている。
喜劇のようだ。アンバーにはヒロインを取り囲む令息たちも、囲まれて満更でもない顔のヒロインも、狂ったように呪詛を吐き続ける悪役令嬢達も、決められたレールを進む駒のようにしか見えなかった。
「くだらないわね……」
きっと自分も決められたルートを進むNPCなのだろう。己の意思も仮初めのもので、本当なんてどこにもないのだろう。
「少しよろしくて?」
突然声が降ってきて、アンバーは顔をあげた。ヒッと小さな悲鳴が漏れる。目の前には第一王子の婚約者で悪役令嬢のアナスタシア・バートランド嬢がアンバーの顔を覗きこんでいる。
慌てて床に膝をつき、頭を深く下げる。アンバーは表情には出ないが、内心動揺と畏怖でごちゃ混ぜだ。アナスタシアは武功で陞爵した公爵家だ、クラスどころか学年も違う。ここにいる意味がわからない。
「あら、驚かせてしまいましたわね。ほら、学園には家格は関係ありませんわ」
ゆっくりと顔を上げると、クラスの皆がアンバーに注目していた。あまりの居心地の悪さに、後退りをしそうになり、それこそ失敬だと、なんとかどどまる。
アナスタシアの闇よりも深い黒髪が、少しつり上がったアメジストの瞳が、直視できないほど瞬く。
「わたくしはアナスタシア・バートランド。お名前をうかがっても?」
「は、はい。アンバー・ティペットと申します」
「突然、ごめんなさいね。少しわたくしに付き合ってくださいな」
「……っえ、」
アナスタシアの手が、アンバーの腕を引きずる。押し退ける訳にも行かず、ずるずるとアンバーはアナスタシアに連れ出されてしまった。
誰も使わないような自習室の奥に教員用の準備室がこじんまりと存在していた。アナスタシアはどこからか鍵を取り出すと、準備室の扉を開ける。勝手知ったる城のように中に入りソファに座ると、向かいの席にアンバーを手招いた。
恐る恐るソファに座るが、アンバーは彼女の顔が見れない。
「いやですわ。そんなに悪役令嬢は怖いのかしら」
妖しげに笑うアナスタシアのその言葉に、アンバーはピキリと音を立ちそうな勢いで固まった。
悪役令嬢なんて言葉、この世界にはないのに。なんで、本人がそれを。もしかして、この人は私と同じ、この世界が乙女ゲームの世界だと知っている?
聞きたいのに喉に言葉が引っ掛かり、虚しく口を開閉させるだけになってしまう。
その様子に気づいたのか、アナスタシアは紅茶を淹れ、アンバーに差し出す。
顔を上げ、黙ったまま受けとり一口飲むと、ほっと心が落ち着く。すると、するりと言葉が口からこぼれた。
「バートランド様は、前世の記憶があるのですか?」
「わたくしには無いわ。あるのはわたくしのお母様。ティペット様と同じように転入生が現れてから、気が落ちてしまってるのよ」
アナスタシアは息を吐き、くだらないわと眉を寄せる。
「ここはお母様が知る物語に似ていても、わたくしは悪役令嬢ではないのよ?ティペット様も思い返してくださらない?」
わたくし、転入生を虐めていませんし、あの集団に与した事実はありませんのよ?
そう問われて、アンバーは窓から中庭を見下ろした日々を思い返す。確かにアナスタシアの姿を見た覚えはない。
噂でも他の令嬢が転入生に苦言を呈したとの話はあれど、アナスタシアの話は一切出ていない。
そもそもゲームの中のアナスタシアはヒロインが居なくても傲慢不遜な悪役令嬢だった筈だ。
彼女は違う。彼女はこの世界に生きるアナスタシア・バートランドだ。
じゃあ、私は?私はゲームのモブではないの?アンバー・ティペットという私なの?
「……その、すみません。勝手に、誤解して、怖がって……」
机に額をつける勢いで頭を下げようとすると、トン、とアナスタシアの手が額を押した。
「謝罪は要りませんのよ。わたくしはただ、ここにはお母様や貴女の知る物語に似ていても、意思を持った人間がいることを、お忘れにならないで」
「……はい。ありがとうございます」
アナスタシアの猫のような瞳が優しく細められる。ふわりと微笑む彼女は美しい公爵家のお姫様だ。
「学園生活は短いのだから、ティペット様はティペット様らしく楽しまなくてはね。もう、諦めては駄目よ」
「自分なりに、頑張ります。あの……バートランド様は、ご家族との仲は…?」
ゲームの世界だと愛されなかったアナスタシアは、今この世界ではどうなのだろう。単純な疑問だった。
そう問うとアナスタシアは少し頬を染めて頷いた。
「沢山愛をいただきました。両親の仲も恋人のままのようで……」
アンバーの目の前に、アナスタシアは指を4本立てた。
「わたくしの下には弟妹が四人いますのよ」
「あっ、確かに私の知っている物語に似ていても違いが過ぎますね」
褪せた世界がみるみると色彩豊かに変わっていく。アンバーはこの世界に生きる自分の未来に、少しだけ期待して見ようかと笑ったのだった。
おわり
「どうして私が記憶持ちだと知っていたのですか?」
「あら、言ってませんでした?わたくし目が良いのよ」
「はぁ、」
「中庭の転入生達を見下ろしている貴女を反対側の教室から見ていたのね。そうしたら、貴女の口が攻略対象者もヒロインもって動いたのよ」
「うわ、読唇術怖い」