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第一章7

 春香が初めてアルバイトとしてメイド喫茶【Cloud house】を訪れたのは、夏休みが始まってすぐのことだった。働いてみたいと口にした日から一週間ほどが経っていた。

 あの後、和哉の姉でCloud houseの店主でもある、中川美央に会い、面接を受けた。


 履歴書もなく、それから身内である和哉の紹介ということで、ほぼほぼ形だけのものだった。

 履歴書も後日渡してくれればいいという、なんというかゆるゆるなもので、春香がこんなので大丈夫かと思ってしまうほどに。


 そして今日、初出勤日を迎えたのだった。

 事前に聞いていた裏口の扉を開けて、店内へと入ると奥に向かって挨拶をした。

 その場から少し進んだところで、スタッフルームから和哉が出てきた。彼は男性スタッフの制服に身を包んでいた。


「おはよう」


 そう言った和哉に、春香は小さく「おっす」と答える。


「とりあえず制服を渡すから少し待っていてくれ」

「先に店長とかに挨拶しなくていいのか?」

「姉貴と連兄さんは厨房にいるから、着替えて清潔にしてからの方がいい」

「なるほど」


 和哉が口にした【連兄さん】というのは中川連太郎のことで、美央の夫。つまり和哉の義兄のことだ。調理を担当している。

 ちなみにだけれど、和哉は男であるためホールには出られないので、厨房の手伝いやその他諸々の雑用を担当している。


「あ、それから仕事は凜が教えることになっているから」

「里中先輩が……、」

「不満か?」

「い、いやそんなわけねえだろ。むしろ嬉しいくらいだ」

「……ふうん」

「なんだよ」

「いや、なんでもない」


 そう言って和哉はスタッフルームに再び入り、しばらくして透明なビニール袋と、紙でできた箱を手に戻ってくる。

 ビニール袋の中身は女性スタッフの制服。つまりメイド服らしきものだった。


「これが君の分の制服。事前に採った採寸通りのはずだが、なにか不具合があったら言ってくれ」

「わかった。ありがと」


 ビニール袋を受け取って、更衣室へ向かおうとして。そんな春香を和哉は呼び止めた。


「これも」


 そう言って和哉が渡してきたのは紙箱だった。よく見ると、それは靴の箱だった。


「靴もないとだめだろう」

「あ、そっか。……着替えてくる」


 今度こそ和哉に背を向けて、春香はスタッフルームの隣りにある女性更衣室へと向かった。

 更衣室へとたどり着いて、春香はその扉を開けた。


 誰もいないと思っていた春香は、扉を開けた瞬間、思わず固まってしまった。

 そうなってしまうほどに、更衣室には春香にとって衝撃的な光景が広がっていたのだ。刺激的な光景と言ってもいいかもしれない。

 けれど、よく考えればそういう可能性も思いつけたはずのものでもあった。


 女性更衣室には里中凜がいた。

 白色だった。白色のスポーツブラとボーイレッグ型の白色のショーツ。

 そんな姿で床に落ちた、脱いだあとらしきショートパンツを拾い上げようとしていた。

 扉が開いた音を聞いたためだろう。その姿勢で顔だけを春香の方へと向けていた。


 屈むような姿勢だったから、シンプルな見た目のスポーツブラから胸の谷間が覗けた。

 大きすぎず、かと言って小さすぎもしない。当然ながらすべてが見えたわけではなかったけれど、少しだけ見えたその胸は綺麗な形をしているように見えた。

 そう、そこには下着姿の凜がいたのだ。


「おはよう、春香」


 ショートパンツを拾い上げると、凜は立ち上がってそのショートパンツで胸元を隠すようにしながら、春香に挨拶をしてくれた。

 それに対して春香は何も言うことができなくて、扉を開けたまま、ただ呆然と凜を見つめていた。


「……えっと。さすがのあたしでも和哉とかに見られるのはちょっと恥ずかしいなって。だから閉めてくれると嬉しんだけど」


 凜が言っているけれど、その言葉に意味を理解できない。右から左へと通り抜けていっているような。意味をなした言葉に聞こえなかった。

 春香はただ凜の下着姿を見てしまっただとか、凜の胸が少し見えてしまっただとか。そんな思いと、その光景しか頭になくて。そしてそれらが頭の中でグルグルと回っていた。


 思考が現状に追いついていない。追いついていないと自覚していながら、けれどそれ以上頭が働いてくれない。

 やがて鼻から何かが垂れる気配がした。

 呆然とした頭で鼻を拭った春香は、その拭った指先を見て鼻血が出たのだと知った。

 どうして?

 そう思ってけれど、その瞬間に春香は後ろへと倒れていた。


「春香⁉」


 凜の声が遠くに聞こえた。意識が若干遠のきかけていたのだ。けれど身体を床にぶつけたせいで意識がはっきりとしたものになった。

 そしてようやく頭が状況に追いついた。

 凜の下着姿を見てしまい、あろうことか鼻血を垂らしてぶっ倒れる。なんとも情けないことか。

 罪悪感と恥ずかしさでいっぱいになった春香は、パッと飛び起き土下座の姿勢になった。


「ごめんなさい!」


 大声で叫び、素早い動きで立ち上がって、そして扉を閉めた。

 春香は、しばらくドキドキが治まることはなく。けれど鼻血は意外とすぐに止まったのだった。






「いきなり倒れたからびっくりしたよ」


 そう春香に言ってきたのは、着替えを終えて、更衣室からスタッフルームへと移動してきた凜だった。

 春香はスタッフルームのスタッキングテーブルに並べられたパイプ椅子の一つに座っていて、凛はその隣の椅子に座って片腕を机の上に置いていた。

 和哉はスタッフルーム内の壁に寄りかかり、何を考えているのかわからない表情で、春香と凜を見ている。


「あ、えっと……、心配かけてごめんなさい。でも大丈夫ですよ、体調が悪いとかじゃないので。……ただぼうっとしてて」


 春香は頬をかきながら、苦笑いを浮かべた。

 表ではそうやって平静を装ってはいたけれど、内心ではドキドキしていた。

 眼の前にメイド服を着た凜がいて、そのいつもと違う雰囲気が新鮮で、それがどうしようもなく緊張させてくるのだ。

 正直に言って、可愛いと思った。


「そう? 体調が悪くないならいいんだけど。……でも体調が悪くなったらすぐに言ってよ」

「はい。心配かけてごめんなさい。……一ノ瀬くんも」


 春香は最後の言葉を、凜から和哉へと視線を移した。和哉は一瞬何の反応もしなかったけれど、すぐに我に返ったような表情を浮かべて、やがて「ああ」と答えた。


「謝る必要はない。君が大丈夫ならそれでいいさ。……だが」


 そう言ってから、いつものようにニヤリと笑って続けた。


「緊張でもしていたのか?」

「あはは、それはないよ」


 うるせえという気持ちを送りながら、春香はあくまでも笑って受け流した。

 やっぱり一々癇に障る奴だと思った。


「じゃあ、気を取り直して着替えてきますね」


 そう言って春香は更衣室へと向かった。



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