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第一章6

「……普通の喫茶店って言わなかったか?」


 眼の前にある一軒の喫茶店。その看板を見つめながら、春香はそう和哉に聞いた。

 目的地はやはり例の商店街にあった。表通りからほんの少し外れた場所にそれは建っていて、その看板は綺麗なチョコレート色をしていた。

 白い文字で書かれていたのは【メイド喫茶Cloud house】だった。メイド喫茶である。

 見た目はメイド喫茶に見えないけれど、看板に書いてあるのだから間違いない。


「そうだな。普通のメイド喫茶だ。強いて言えば、料理が美味いところが普通とは違うところだな。値段もそれほど高くはない」


 しれっと、和哉は言ってのけた。


「メイド喫茶ってあのメイド喫茶か?」

「そうだな」

「女がメイド服を着て男に媚びを売る、あのメイド喫茶か?」

「その言い方、なんとかならないか」

「だってそうだろ」

「ノーコメントで。……とにかく、ここで働いてもらいたい」

「……嫌だ」

「なにが」

「ここで働くのがだよ。俺は男に媚びを売るのが嫌いなんだ」


 春香にとって、それはどうしようもなくやりたくないことだった。愛想よくするだけならできるけれど、そういうのはできないしやりたくはなかった。

 男に媚びを売って、可愛がられて、チヤホヤされて。

 男とはそういう関係でありたくない。できることなら対等でありたい。


 けれど、それは無理だから、男子と話すことすら避けてきた。対等でないと実感することが嫌だったから。

 だから男と女がはっきりと分かれそうな、こんなメイド喫茶なんて場所で働くことに抵抗があった。


「相手が男だとは限らないぞ。メイド喫茶は意外と女性客も多いんだ」

「でも男の方が多い」

「まあ、そうなんだが」

「とにかく嫌だ」

「ならやめればいい。僕は引き止めたりしない。そのかわり約束は反故にさせてもらう。いいのか?」

「そ、それは……。他のことでなんとかしてくれ」

「いいのか? 僕は男だ。だから葛木が不安に思っていたことをやってもらっても構わないんだ。こっちの得になるしな。でも葛木はどうだ? そういうことをされて失うものはないのか」

「で、でも」

「そういうことをさせられるのとメイド喫茶で働くのと、どちらがマシだと思う?」


 昨日のように、和哉は意地悪げにニヤニヤと笑った。冗談なのか本気なのかわからない、そんな顔だった。


「メイド喫茶で働いてくれれば約束は守るし、それに給料も出せる。お得だろう?」

「……、」

「どうする?」

「……うぅ」


 言い方的に、和哉は春香にメイド喫茶で働くと言わせたいのだろう。

 確証はないけれど、なんとなく誘導しようとしている気がした。

 本気で変なことをさせる気はないけれど、メイド喫茶で働かないという選択肢も認めない。そんな感じがしたのだ。

 そうは言ってもメイド喫茶で働くのは嫌だった。


 断りたい。けれどもしも春香の勘が外れていれば、本当に変なことをさせられかねない。危ない賭けには出たくない。

 だから本当はどちらも選びたくはなかった。

 けれど、和哉はそれを許してはくれないだろう。どちらかを選べと言うはずだ。

 選べなければ約束が反故になってしまう。それだけはなんとかして防がなければならない。

 どうすればいいのか。頭を悩ませていたときだった。


「あれ、カズ? こんなところで何やってんの?」


 そんな声が横から聞こえてきた。女性のもの。そしてそれは春香が聞いたことのある声だった。

 自分を呼ぶ声ではなかったけれど、声の方へと視線を向けた。

 隣で動く気配がする。きっと和哉が身体ごと声の主の方へと向いたのだろう。


 そこにいたのは、やはりと言うべきか、少女だった。

 白いタンクトップ。その上に少し裾の長いチェックのシャツを合わせていた。前は全開で袖は肘辺りまで捲くられている。下にはデニムのショートパンツを穿いて、黒と白のスポーツシューズを履いていた。


 背は高すぎず、同年代の平均ほどだろうか。

 少し茶色っぽい瞳はくっきりとしていて、澄んでいてとても綺麗だった。美人とかわいらしいの間にあるような顔立ち。肌は健康的な小麦色で少し眩しい。

 身体はしなやかで引き締まっている。露出した手足は程よい筋肉がついていて、適度なので硬さはなさそうだった。体力は他の少女よりもありそうだ。


 髪は後頭の下の方で、細く短く一本結びにしている。その一本は雀の尾のような、けれどそれより少し長いくらい。ちょこんと飛び出ているという表現がぴったりだろうか。

 彼女は活発そうな、とても眩しい笑顔を浮かべていた。

 髪型や服装、表情からして活発で、運動が得意そうに見える。実際に運動が得意だと本人もかつて言っていた。


 なぜそんなことを知っているのかというと、彼女は春香の知っている人物だからだ。

 里中凜。春香が通う高校の先輩で、春香とは時たま会話をする仲だった。

 春香は部活をやっているわけではないし、中学校が一緒だったというわけではない。だから春香と凜が関係を築けたのは本当に偶然のことだった。


 凜は和哉の方を見ていて、それで春香は【カズ】というのが和哉のことだったのだと知る。

 どうやら二人は知り合いであるらしい。


「おはよう、凜」

「おはよ。で、なにしてんの?」

「ちょっとな」

「ふうん……。まあいいや。中入らないの……って、あれ?」


 和哉の言葉を軽く流した凛は、そこでようやく春香に気がついたようだった。

 春香は軽く頭を下げた。


「こんにちは、里中先輩」


 少しだけドキドキしたけれど、それをなんとか抑え込んで言葉を口に出した。


「やあ、春香」


 凜は軽い言葉で、太陽のような笑顔を浮かべながら挨拶してくれた。

 彼女の笑顔は春香の心臓を跳ね上げさせた。

 跳ね上がった感情は、けれど胸をズキリともさせた。

 それを顔には出さずに心に留める。それは知られてはいけないことだから。


「あれ、二人は知り合いだったのか?」


 和哉がそう口にすると、凜はコクリと頷いた。


「そうだよ。しかも大の仲良し。ね、春香」


 凛は後ろから春香を抱きしめた。まるで幼い子どもを抱くようだった。

 抱きつかれた春香は動揺しないように努めたけれど、こればっかりは恥ずかしさを堪えられなかった。

 身体を縮こまらせて俯いてしまう。きっと自分の顔は赤くなっていることだろうと思う。


「そ、そそう言ってくれて、その……嬉しい、です」

「お、照れてるね」


 凛はそうやって笑ったけれど、和哉は鼻で笑っていた。春香は思わず彼を睨みつけた。

 気がついた和哉は、今度はからかうようにニヤリと笑う。


「女の子らしいな」


 そう、和哉は口にした。正直に言って、その顔面を殴りつけてやりたいと思った。

 けれど凜に抱きつかれていて動けない。それに、凜の前では女の子らしくしていなくてはならない。変なことはするべきではないだろう。

 我慢するしかなかった。


「それにしても春香がカズと友だちだったなんて。あ、でもそうか。同じクラスだもんね」


 しばらくして、ようやく春香を解放した凜がそんなことを言った。

 それに首を傾げたのは和哉だった。


「友だち? 葛木。僕たちは友だちか?」

「さあ? 違うんじゃないかな」

「だよな」


 友だちではないし、けれどただのクラスメイトとも言えないだろう。

 和哉は春香の秘密を握っているし、春香はそんな和哉に口止めすために動いている。

 だから、そう。その関係を表す言葉は契約関係となるだろうか。

 けれどそれを凜に言うことはできないし、やはり知人と答えるべきだろうか。

 そう思っていると、隣に立った和哉が口を開いた。


「そうだな。協力関係と言うべきか」

「なにそれ」


 凜がそう言ったけれど、それを言いたいのは春香も同じだった。

 協力関係とはいったなんなのか。和哉は何を言おうとしているのだろうか。そこまで考えたところで、ふと思う。

 まさか彼は自分との本当の関係を話すつもりなのではないか、と。

 やばい。そう思ったときには、すでに和哉は口を開いていた。


「僕が葛木にバイトを紹介する代わりに、葛木が僕の相談にのってくれるということになっているんだよ。そうだよな、葛木」

「え、あ……うん」


 口止めしようと和哉に駆け寄りかけていた春香は、彼の言葉にほっと胸を撫で下ろした。

 どうやらバラすつもりはないらしい。そこだけは一安心だった。


「葛木がバイト先を紹介してほしいという話を聞いてチャンスだと思って、交渉を持ちかけたんだ。それで、そういうことになった。だから協力関係というわけだ」

「相談って……。まさか恋愛相談? ユウと喧嘩でもした?」


 凜が尋ねると、和哉は首を横に振った。


「まさか。ユウキと僕はラブラブだからな」

「真顔でそういうこと言うなし。ちょっと照れるとかしてよね」

「照れる必要はない。事実だからな」


 凜が呆れたようにため息をつく中、春香は首を傾げていた。

 凜と和哉の会話は、まるで和哉に彼女がいるような感じだった。けれどこんな男に彼女ができるとは思えない。


 けれど凜は恋愛相談と口にしたあとで、【ユウ】という名前を出した。和哉によれば【ユウキ】が正しい名前であるようだけれど、文脈的にそのユウキという人物は和哉の恋愛状況に関係があると推測ができる。

 まさか本当に和哉に彼女がいるのだろうか。信じられない。

 だから春香は和哉に確かめることにした。


「……一ノ瀬、くん。ユウキって?」

「僕の恋人だ。最高にいい奴だぞ」

「……、」

「なんだ、その目は。信じられないものでも見たような顔をするな。失礼な奴だな。僕にだって恋人くらいはいる」

「そ、その。意外、だね」


 春香が頬をかきながら、誤魔化すように苦笑いを浮かべる。

 けれど本当に和哉に彼女がいたとは。本人の口から聞かされた今でも正直に言って信じられないし、信じたくはなかった。

 和哉が言うように失礼な話ではあるけれど、あの意地悪そうな性格でも彼女はできるものなのかと、春香は感心してしまった。


 もしかしたら春香に見せたものとは違って、他にいいところがあるのかもしれない。それともあの性格がいいという女の子もいるのかもしれない。

 そこで凜が、あははとおかしそうにお腹を抑えながら笑った。


「何がおかしい」


 和哉が不満そうな表情を浮かべると、凛は「ごめん、ごめん」と謝った。けれどその表情から笑いが消えることはなかった。


「みんな同じだなって思って。和哉に恋人がいるって言うとみんな驚くんだよね。どれだけ性格が悪い奴だって思われてんだか。……ホント、もう少し意地悪しないようにした方がいいよ、カズは。ユウにも言われてんでしょ」


 そう言って、凛は和哉の額を指で小突く。和哉はその指を鬱陶しそうに払った。


「僕はそういう人間なんだ。放っておいてくれ」

「ホントに、変わる気ないなぁ。仕方ない奴め」


 一ノ瀬和哉という男は、本当に誰にでも意地悪な奴であるらしい。しかもどうやら自覚があるらしい。なんとも手に負えない。

 それにしても。先輩後輩であるはずなのに、同年齢の友だちのように仲よさげに話をする凜と和哉。二人を見ながら春香は思う。

 凜と和哉はいったいどういう関係なのだろうか。


 恋人でないことはたった今わかった。他にあるとすればただの友だちか。

 それにしては距離が近すぎるような気もする。姉弟のような、そんな関係に見えた。

 気になった春香は、思い切って聞いてみることにした。


「あの、先輩と一ノ瀬くんはどういう関係、なんですか?」


 凜と和哉は春香の方を見た。それから凜が和哉の首に腕を回して、快活そうな笑顔で口を開いた。


「幼馴染なんだ。だけどまあ、カズはあたしの弟みたいなもんだけど」

「僕の姉貴を自称するならもっとしっかりしてくれないか」

「お? なんだ、あたしのどこがしっかりしてないんだ? 我が弟よ」

「だから弟じゃないと言っているだろう」

「可愛くない奴」

「可愛くなくてけっこうだ」


 和哉は鬱陶しいと言わんばかりに凜の腕から抜け出した。

 二人の様子を眺めながら、春香は一人納得した。

 仲がいい幼馴染ということであるのなら、姉弟のような距離の近さであってもおかしくはない。

 春香には幼馴染と呼べる存在はいないけれど、昔から傍にいて、それでいて仲がいいのであれば、きっとそうなることもあるのだろうと思うのだ。

 そしてこうも思った。仲よさげな二人が羨ましい、と。


 気兼ねなく、何かを隠す様子もなく、自分を出して。そんな状態で、あれほどの近さで関係を築けている。

 兄弟姉妹という関係でなくともいい。だけどせめて本来の自分らしく仲良くできたのなら、きっとそれは春香にとってとても幸福なことだろう。

 だから夢見てしまう。望みたいと願ってしまう。

 そんなことは許されないのに。


「そういえばさ」


 不意に、凜がそう口にした。それから春香を見て、言葉を続けた。


「春香がここにいるのって、カズがここをバイト先として紹介してくれたってことだよね」


 春香は気分が落ち込みかけていたせいか、すぐには凜の言葉を理解できなくて、返事をすることに少しだけ時間がかかった。


「あ……えっと、その。そうですね。でも、メイド喫茶とは聞いてなくて。というか普通の喫茶店だって言ってて……、」

「そっか。……なんでちゃんと説明してないのかね」


 そう言って凛は和哉に視線を向ける。

 和哉は知らないフリをするように顔を背けて、それを見た凜がため息を吐き出した。


「あ、あの里中先輩はどうしてここにいるんですか?」


 呆れ顔を浮かべている凜に、春香は問いかける。

 凜は表情を普段通りにして、春香へと視線を戻した。


「あたし? あたしはここでバイトしてんだ」

「先輩、メイド服着るんですか⁉」

「そんなにびっくりすること?」

「い、いや。イメージになかったので」

「そう? 似合わない?」

「いえ、先輩ならなんでも似合うと思います」


 というか、想像したら似合いすぎていて、思わずドキドキしてしまった。

 それを落ち着けて、春香は言葉を続ける。


「ただ自分からそういうのを着るタイプだと思っていなかったというか」


 春香のイメージとして、凜は運動がしやすい、今のような服装ばかりを好むと思っていた。

 彼女の性格は活発と呼べるものだ。

 姿や顔は可憐な少女のそれではあったけれど、少し心が少年のような部分もある。

 そういう人は【萌え】の代名詞とも呼べる日本の文化が作り出した、本場のものとは違う可愛らしいメイド服みたいなものは好まないという、勝手なイメージがあったのだ。


「なるほどね。確かにそうかも。……でもあたし、意外とメイド服とか、そういうの着る好きなんだよね。普段あんまり着ないもの着るのって楽しいからさ」

「そう、だったんですね」


 知らなかった凜の一面が知ることができた。そのことが春香には少しだけ嬉しかった。

 ほんの少しでも距離が縮んだような気がしたから。


「うん。……でも、そっか。春香もここで働くんだね。嬉しいな」

「えっと……。それが、その……、」


 本当に嬉しそうに笑う凜の顔を見ていられなくて、視線を少し逸らしながら春香は言った。

 喜んでくれた手前、とにかく言い辛かった。

 凜に限ってきっとそんなことはないだろうけれど、なんだか悲しませてしまうことが怖くて。

 凜に悲しい表情は似合わないと思ったし、そんな顔はさせたくないとも思った。


「残念ながら、葛木は働くことに乗り気じゃないらしいぞ。どうしてか僕にはわからないが」


 和哉が他人事のように言った。自分こそが元凶であるくせにのんきなものだ。

 春香は少しイラッとしたものの、当然ながら凜がいるのでその感情は表に出さない。

 後で一発ぶん殴ってやろうと心の中で決意しつつ、和哉の言葉に同意をするように頷いた。


「なんていうか、わたしには似合わないかなーと」

「そんなことないと思うけど。春香って可愛いし」

「い、いやそんなことないですよ。わたしってほら、子どもみたいですし。身体とか」

「そんなの関係ないって。あたしは断言するよ。春香にはメイド服が似合う。……それにさ、春香だって可愛い服好きでしょ? それが着られるんだよ。いいと思わない?」

「そう、ですね。確かに好きです。……うーんでも」


 そういうキャラとして通っているから、春香はそう答えた。

 それが正しいのか間違っているのかは関係ない。意味もない。

 ただ【周りから見た葛木春香】として答えた。


「やろうよ、一緒にさ。きっと楽しいよ」


 言われて、想像をしてみた。

 春香自身がメイド服を着て働いている姿ではなく、凜と一緒に働いている姿を想像した。

 それはなんだか悪くない気がした。


「……わたしでも、できますかね」


 だから、口から出てきたのはそんな言葉だった。


「できるよ。やろ!」


 凜は輝く太陽のように眩しい笑顔でそう言った。

 だから――。

 だから春香は小さく頷いていた。


 メイド服を着るのは嫌だ。男に媚びを売ることもしたくはない。

 けれど、その隣に里中凜がいるのであれば、きっとそれだけですべてを耐えられる。そんな気がした。

 隣で凜が笑っていてくれるのなら――。


「わたし、ここで働いてみたいです」


 そうして。

 和哉の思惑通りにはなってしまったけれど、葛木春香はメイド喫茶【Cloud house】で働くことを決意した。


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