第四章4
喫茶店で別れる前、寿佳奈美は「頑張って」と言ってくれた。
その言葉に背中を押されるようにして、春香は街中を駆け抜けていた。
夕暮れの街は、それでもまだ人通りは多い。車の音と人々のざわめき。時折遠くから聞こえる電車の音。ビルの窓ガラスに映ったオレンジ色の太陽がやけに眩しかった。
いつもと同じ。よく見る夕暮れの街。どこにでもあるような風景。
だけど、どうしてだろう。春香にはどこか違って見えた。知らない、見たことのない。真新しい風景に見えた。
春香が向かっているのはメイド喫茶【Cloud house】。里中凜のもとへ向かっていた。
里中凜。大好きなその人に想いを伝えるために、春香は走っていた。
怖いという思いはある。だけどそれは当然の怖さだった。
好きだと伝えることは誰だって怖い。自分の秘密を打ち明けることだって、誰もが怖いと感じるだろう。
今までの春香はその恐怖に打ち勝つことができなくて、どうせ受け入れてくれないだなんて思って。いろんな理由をつけて諦めていた。
だって拒絶されることは何よりも怖かった。
けれど今は違う。
怖いけれど、だけど違うのだ。
絶対に拒絶されるわけではないと、もう知っているのだ。知っているから、怖さと同じくらい勇気だって出せる。
それにたとえ拒絶されたって大丈夫だ。
もちろん傷つくのだろう。苦しみを感じるだろう。だけどきっとまた立ち上がれる。
春香を受け入れてくれた人たちがいる。だからまた歩き出せるはずだ。もう、一人ぼっちにはならない。
だから、春香は凜に告白する。すべてを話す。葛木春香という人間を知ってもらいたいから。なによりも好きだと伝えたいから。
春香は走りながら、頭の横で揺れていたサイドテールを解いた。肩に触れる長さの髪が後ろへと流されていく。
道行く人の視線は気にならなかった。もうどうでもいいと思えた。
頬を撫でる風が気持ちいい。
他人の目を気にして生きていた時とは違って、心が開放されたような爽快感があった。
やがて、いつか凜と雨宿りをした公園が見えてくる。Cloud houseへはもうすぐだった。
だけど、春香はそこで立ち止まった。
夕焼け空に染まる公園に、少女が一人立っていた。
誰かを探している様子で、その額には汗が滲んでいた。
そんな髪を雀の尾のように後ろで小さく結んだ少女の視線が春香へと向いた。少女、里中凜と春香の視線が合わさる。
しばらく見つめ合って、凜が安心したように笑った。
春香は一つ深呼吸をして。それからゆっくりと歩き出した。凜に近づいていく。
心臓がどくどくと鳴っている。緊張で手のひらに汗が滲むのを感じた。
懐かしい感覚だった。
吐きそうなほどの緊張が全身を包むその感覚は、とても心地良いとは言えない。そしてそれは凜に近づくほどに強くなっていく。それでもその感覚は春香の足を前へと進ませる。
そんな春香に、凜もまた近づいてくる。
二人の距離が縮まっていく。そしてそれが人一人分の幅になった時に、二人は同時に足を止めた。
「急に飛び出していったから、心配したんだよ」
最初に声を出したのは凜だった。彼女は春香が戻ってくるかもと和哉はお店に残っているだとか、春香と和哉の会話を聞くつもりじゃなかっただとか。いろんなことを言ってきたけれど、それに応えるだけの余裕は今の春香になかった。
「聞いちゃってごめん――、」
「里中先輩」
謝る凜の言葉を遮って、春香は彼女の名前を呼んだ。凜はじっと春香の瞳を見つめたあと、春香の真剣さを感じ取ったのだろう、表情を引き締めた。そして静かに口を開く。
「……なに?」
「わたし……いや俺、先輩に話したいことがあるんです」
「俺……?」
「実は俺、女だけど女じゃないんです」
話す。春香が女の身体であって心は男であるということ。トランスジェンダーであるという事情を話した。
話している間、春香の声は自覚するほどに震えていた。その恐怖を勇気で押し込めて、話し続けた。
凜はそれを真剣な顔でずっと聞いてくれた。嫌悪感が漂っているようなことはなかった。受け入れてくれるかもしれない。そう思ったけれど、それでも不安は少しだけ残ったままだった。
「今まで黙っていて、ごめんなさい。けど、これが俺という人間なんです」
そう言うと、春香は佳奈美の返事を待った。
きっと時間にしたらほんの僅かであったのだろう。それでも春香にはとても長く感じられた。
「……そっか。知れて、よかったよ。教えてくれて、ありがとう」
やがて、凜はそう言った。
「こんな俺でも、受け入れて……くれますか?」
春香はそう聞く。
それが一番最初に聞きたかったことだった。その答えによって、この先の春香と凜の関係が決まる。関係がなくなるか、関係を続けていけるか。それが決まってしまう。
果たして凜の答えは――。
「もちろんだよ。あたしはそれで軽蔑したりしないし、したくない。だから安心して。……あたしは春香を受け入れるよ」
恐怖が。春香の恐怖が一気に飛んでいった。受け入れる、たったそれだけの言葉で、春香はどこまでも嬉しかった。
和哉の言う通りだった。凜はちゃんと受け入れてくれた。葛木春香という人間を認めてくれた。
「……ははは」
「どうしたの?」
「なんか悩んでた自分が馬鹿みたいだなって。こんな簡単に受け入れてくれるなんて、思ってなかったんです」
「馬鹿だなんて、そんなことない」
「そう、ですかね」
「そうだよ」
春香は笑って、けれど本当は泣きそうだった。泣き虫だなんて思いながら、だけど春香は涙を堪えた。今は堪えなくちゃいけない。だって春香はこれから。
「……先輩。もう一つ、聞いてくれますか?」
好きな人に告白するのだから。好きな人の前ではかっこよくありたい。まして告白をするのだ。涙を流すわけにはいかない。でなければ男が廃る。
「なに、かな」
きっと凜は春香が何をしようとしているか、気がついている。和哉との会話を聞かれたということは春香の気持ちを知っているということだ。
けれど、凜は春香の言葉を待ってくれた。
今までずっと言いたくて、けれど言うことが怖くて。
自分にはそんな権利がないんだって諦めて、けれど諦めることが辛いと思うようになって。
胸が痛くて、苦しくて。自分の心が壊れそうになるほどに苦しんで。
どうすればいいのかわからなくなって。
終いにはいっそ心を壊してしまえばいいと考えて。それでいいんだと思って。
けれど、それでは駄目だったのだ。自分の想いを伝えて、ありがとうと言われる喜びを知ってしまったから。
だから今、伝えるのだ。
「俺は里中先輩、あなたのことが好きです」




